(2020/10/30 noteで公表したものです)
昨年11月に中曽根康弘氏が死んだとき、朝日新聞の記者から取材を受けた。編集委員のTさんという女性が、わざわざ東京から京都の片田舎まで会いに来てくれたのは、その前年に私が、国鉄分割・民営化のときに車掌の仕事から排除され、本来の仕事から排除されたまま、56歳で死ぬまで30年間働き続けた後輩のことを書いた「品川駅の花壇」という文章を読んでくれていたからだった。その時、彼女は「中曽根康弘氏が亡くなりましたが、どのような感慨をお持ちですか」と私に聞いた。
中曽根氏が101歳で大往生を遂げたことは大きく報道されており、もちろん私は新聞記事も読んでいたが、実のところ私には、ああ、中曽根氏もついに死んだかという淡い思いは浮かんだけれど、それ以上に大きな感情は湧いていなかった。だから私はT記者から「どのような感慨をおもちですか」と聞かれて少し困ってしまった。「うーん、もちろん死んだという記事は読みましたが、なぜか、そんなに大きな感慨はないですね…」と答えたが、これではT記者の期待したコメントにはならないだろうと、申し訳ない気持ちがした。中曽根氏が国鉄など公営企業の民営化政策の旗を振り、それに反対する国鉄労働組合をつぶすために、国家権力を総動員して攻め込んできたのは1980年代なかば。もう35年まえのことだった。たしかに、中曽根氏はその当時、私たちの人生を大きく狂わせた国家権力の頂点にいた、いわば敵の総大将ではあったが、しかし、私たちは私たちなりにその時代を生き延びて、前を向いて生きてきたのだ。往年の敵の大将が死んだからといって、私の心はもうそんなに揺れなかった。
北海道や九州で、25年間の解雇撤回闘争を闘った元国労闘争団員のインタビューも新聞に載ったけれど、やはり彼らも「死んでも許せない。憎い。」というようなことは述べていなかった。彼らもまたそれなりに生き延びて、自分たちの人生を前を向いて生きようとしているのだ、と、私には思えた。死んでしまえば、権力者も一介の労働者もない。中曽根は死んだが俺たちはもう少し生きよう…と、私はその時、そう思ったのだった。
しかし、今から思えば私は甘かったのだ。10月17日に行われた中曽根康弘氏の巨大な葬式の様子を見て、あのとき、私はもっとしっかりした意見をT記者に述べておくべきだったと後悔した。
「本日ここに、従一位大勲位菊花章頸飾(けいしょく)、元内閣総理大臣、元自由民主党総裁、故中曽根康弘先生の内閣・自由民主党合同葬儀が行われるに当たり、謹んで追悼の辞を捧げます。…」
コロナ禍のために半年延期された中曽根氏の葬式が、国と自民党の合同葬として東京・高輪のグランドプリンスホテル新高輪で行われ、菅総理大臣の弔辞が厳かに読み上げられた。巨大な祭壇には巨大な遺影とともに、天皇から親授された最高勲章をはじめとする勲章の数々が並べられていた。当初、4千人と計画された参列者はコロナ感染を予防するため大幅に縮小されたが、それでも1400人が参列すると報道されていた。葬儀にかかる費用、1億9千万円は政府と自民党で折半され、9600万円が国費から支出された。
葬式はけっして死者のためのものではない。それは死者を葬る生者のためにある儀式だ。首都東京のもっとも格式あるホテルで、巨費を投じて行われたいわば国営の葬式は、この国が誰のものであるのか、この国を支配する者たちが、国家をどのような道に導こうとしているかを内外に厳かに宣言する、中曽根康弘氏の後継者たちによる一大セレモニーだった。
「…先生は次世代に向け、全身全霊を傾けて新しい道を切り開かれました。…行政の肥大化を抑制し、民間の自由な創意を発揮させるとの観点から、日本国有鉄道の分割・民営化や、日本専売公社及び日本電信電話公社の民営化を断行されました。
また、増税なき財政再建の基本理念の下、行政経費の節減、予算の効率化を図るなど、経費の徹底的な節減合理化と財政の健全化を強力に推し進められました。」
弔辞のなかで菅首相はこのように述べて、国鉄の分割・民営化を中心とする民営化政策が中曽根康弘氏の最大の功績であったことを誇示し、「改革の精神を受け継ぎ、国政に全力を傾けることをお誓い申し上げて、お別れの言葉といたします。どうか安らかにお眠りください。」と弔辞を締めくくった。
中曽根康弘氏の巨大な葬式の様子が報道されたとき、私は、今から35年前に行われたある国労組合員の葬式を思い出さずにはいられなかった。1985年、31歳の私は働いていた駅から引き剥がされて、国鉄当局が作った隔離職場に収容されていたが、元の職場、山手線の駅で働いていた仲間が死んだのだ。当時、中曽根政権下では国鉄当局による凄まじい組合攻撃が吹き荒れていた。行方不明の売上金3万円を横領したと疑われた気の優しいS先輩は、身に覚えがないといくら弁明しても受け入れられず、出札の仕事から外され、連日、監禁されて事情聴取と称する取り調べを受けた。監禁を解かれるためには「横領を認める」しかS氏には道がなかった。「いくら言っても信じてくれない。疲れた」という弱々しい一言だけを残してS氏は自殺したのだった。当局は当時、隙があれば、どんな手を使っても国労組合員を恫喝し、屈服させ、切り崩そうと躍起になっていた。
自死した者の葬式は、生き残った者には耐えがたいものだが、国労はS氏の葬式を組合の手で行うことを決めた。小さな葬式だった。山手線の駅を組織する国労新橋支部は、通夜と告別式の両日、黒い喪章を制服につけて勤務する「喪章闘争」を組合員に指令した。当局の切り崩しで喪章をつけられない駅も多かったが、まだ過半数を組織している駅では切り崩しを跳ね返して、喪章をつけて働いた職場もあった。
仲間が殺されたのだ。私たちは負けるわけにはいかなかった。
組合の手で行われた葬式に、S氏に対して連日の「事情聴取」を繰り返した責任者である駅長と首席助役が来た。「何をしに来た。お前たちが殺したのだ。あやまれ」と組合員に追及されて、彼らは早々に引き揚げたのだが、後日、「管理者に暴言を浴びせた」という理由で、追及の先頭に立った何人かに処分が発令された。
国鉄の分割・民営化と国労解体攻撃のなかでは、100人とも200人とも言われる労働者が自死している。全国にはたくさんのS氏がいた。中曽根康弘氏の「功績」である「国鉄分割・民営化」と「戦後政治の総決算」が、このようなことを通じて達成されたことを、私は死ぬまで忘れない。
「民営化の旗を振った中曽根の葬式が国営なんて笑い話ね」と言ったのはある友人だが、本当にその通りだ。コロナ禍で人びとが困窮し、明日の暮らしさえおぼつかない中で、人びとの困難をあざ笑うように、支配する者は1億9千万円をかけた葬式を挙行して人びとを睥睨している。
「行政経費の節減、予算の効率化を図るなど、経費の徹底的な節減合理化と財政の健全化を強力に推し進められました。」
菅首相が弔辞の中で述べた「行政改革の理念」は支配階級には適用されないのだ。
『国鉄労使国賊論』という本がベストセラーになり、国鉄の赤字が国家を破綻させかねないという宣伝が国中を覆っていたとき、中曽根氏の肝いりでつくられた臨時行政調査会は「増税なき財政再建」という旗を振って公営企業の解体を迫っていた。あの時の約束はどうなったのか? 確かに法人税は引き下げられて大企業の税負担は軽減されてきたが、人びとの反対を押し切って導入された3%の消費税は今や10%となり、そして「増税なき財政再建」の旗を振っていた当の本人たちは、今や「消費税をさらに引き上げねばならない」と公言してはばからないでいる。要するに彼らは、自分たちにかかる税が引き下げられればよかったのだ。国家を破綻させると宣伝された25兆円の国鉄累積赤字は、「国民負担」という名目で国家の帳簿に赤く書き込まれて、1千兆円といわれる「国家債務」のなかに紛れ込まされてしまった。いったい、すでに40年間以上続いている「国家財政危機」の宣伝は果たして本当なのだろうか? 市井の人びとから奪い取り、富める者たちがさらに富んでいくための壮大なプロパガンダではないのか?
われわれが中曽根氏との争いに敗れ、国鉄が解体され、国鉄労働組合が少数に追い込まれた80年代なかば以降、彼らは「国家を危機にさらす敵」を次々につくりだしては、人びとをけしかけて社会を荒廃させてきた。公務員バッシング、「在日特権」バッシング、生活保護バッシング…。そして中国や朝鮮・韓国への排外的宣伝。残念ながら、われわれは、社会に存在する紐帯を次々と破壊し、社会のすべてを市場経済にゆだねる新自由主義と呼ばれる手法を止めることができないでいる。
鈍色(にびいろ)の外套を身にまとい兵帽をかぶった数百人の兵士が、長く続く葬祭場への道の両側に整列している写真を見て私は戦慄した。ネットメディアだけが伝え、大手マスコミは伝えることのなかったその光景は、まるでSFの世界の帝国のありさまにも見えたが、それはけっして架空ではない2020年の日本国の姿だった。中曽根氏の葬式を警護していた兵士たちは、いったい誰を威圧し、誰から誰を守ろうとしていたのか。私は、今はまだ武器を持たぬ兵士たちの肩に小銃が担われる日が来ることを心底恐れる。
目端の利く者は次々と中曽根氏の引いた路線にすり寄っていく。しかし、私はいつも穏やかに笑っていたS先輩を殺した中曽根康弘氏と、後継者たちのやり口を決して忘れないでおこう。私は、兵列に守られた1億9千万円の中曽根氏の葬式に、自死に追いやられた仲間の悔しさを思い、皆が涙したあの小さな葬式の記憶を対峙させよう。
架空の「敵」に向かって人びとが扇動され、人びとが人びとを追いつめる荒廃した社会はいつか終わる。すべての人びとが、助け合い手を繋ぎ、穏やかに暮らせる日が来る。仲間を信じて、仲間と共に生きようとする人々がいるかぎりその日は必ず来る。
私は私自身を鼓舞している。
※兵列の写真は田中龍作ジャーナル