(「労働情報」936号 2016/06/01付に掲載。掲載されたものと少し異同があります)
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この報告は、私がJR東日本を60才で定年退職して、関連会社に再雇用されてから1年10カ月間働いたJESS東京駅営業所での、現役労働者としての私の最後の闘いの記録です。正規労働者と非正規労働者が手を携えて闘う事のできる新しい労働運動をJRの中に残すことができず、悔しい思いで退職した私は、思いがけず再雇用先で、若い仲間たちとともに下請け化による労働条件切り下げと闘うことになりました。
2012年に書いた「大和田幸司さん、和田弘子さんと、私」と一緒に読んでいただければ、なお一層嬉しいです。
4月末まで私が所属していた国鉄労働組合東京駅分会は、昨年(2015年)6月と本年2月の2度にわたって、JR東日本の子会社、JR東日本ステーションサービス(略称JESS=ジェス)東京駅営業所で労働基準法の過半数代表者選挙を闘った。会社がバックアップする会社側候補(?)との全面対決になった2度の闘いでの3度の選挙では、国労の候補が一度は相手側の票を上回るなど、ぎりぎりまで会社を追い詰めながら勝利できなかった。しかし、下請け職場の劣悪な労働条件改善を前面に掲げて、国労が若い下請けの仲間たちと一緒に闘えたことは、これからの闘いの足掛かりになりえたと思っている。
●労働者の代表を会社が指名?
2014年秋、60才の定年後再雇用されて、東京駅の新幹線乗換口にあるみどりの窓口で働いていた私に、同じ営業所の別の部署で働く友人が、職場に過半数を組織する労働組合のない東京駅営業所では、当然行われるべき労働基準法上の過半数代表者選挙が行われず、会社が勝手に選んだJR東労組(旧動労の流れを汲むJR東日本の多数組合)所属の者を、「挙手によって代表に選出した」と労働基準監督署に届けているという労働基準法違反の事実を教えてくれた。労働者が自主的に選出すべき過半数代表者を会社が勝手に指名して虚偽の届け出をしていたのである。
JESS東京駅営業所は、東北、上越、北陸の各新幹線乗換口の改札と乗換出札での乗車券発売、在来線改札の一部、さらに車いす利用者の案内の3部門に約260名の労働者が在籍している。私のように、JR定年後に再雇用されて働く者、多くが無理やり出向させられたJRの正社員、それに、直接JESSに雇用された若い者(プロパー)が混然として働いている。そして、どの組合も若いプロパーを組織することができず、ほとんどのプロパー社員は労働組合に入らない未組織である。
私のいた乗換出札はその中でも若いプロパー社員の比率が高い部署で、会社が「日本一忙しい出札」と公言する厳しい職場では、直営当時と比較にならない劣悪な条件のもとでたくさんの若者が働いている。友人は法律違反をやめさせて、乗換出札から立候補して過半数代表者選挙を闘わないかと言ったが、当初私は尻込みした。郷里で一人暮らしをする母親の介護のため、いつ退職せざるを得ないかわからない状況だったし、国労が組織として闘いに取り組んでいる様子がない中で、突出しても孤立する可能性が大きいように思えたからだ。
ずるずる日にちが過ぎていく中で私が闘う決意を固めたのは、JESSへの出向者でつくる国労東京地本JESS連絡会が、多くの職場で横行している一方的な「過半数代表者」指名を改め、法律にもとづいて選出することを統一要求の先頭にあげていることを知ったからだ。国労の上部機関が法律違反を黙認しているなかでも、仲間たちは、当たり前の闘いを職場から作り直そうとしていた。
●国労東京駅分会の申し入れと選挙の実施
労基法違反をやめさせて、過半数代表者選挙を実施させようという友人と私の主張を国労東京駅分会は支持してくれた。そして、法律にもとづいて代表者選出をやり直すべきという分会の申し入れに対して、東京駅営業所は、「選考に異議があるという意見を…真摯に受け止め、代表者の選出をあらためて行う」と表明せざるを得なかった。
乗換出札の下請け化にあたって、会社は直営の出札で働いていた労働者を強制的に出向させたのだが、その中の一人で、国労東京駅分会の出札班長をしている仲間が立候補を決意してくれた。彼は長年東京駅で働きJRからの出向者の間でよく知られていた。
私たちは選挙の主要な主張を二つにしぼることにした。一つは「法律にもとづき労働者の代表を労働者自身が選ぼう」、二つ目は「東京駅にふさわしい繁忙手当をすべての労働者に支給しよう」だった。終日切れ目なく乗客の乗り降りする東京駅の業務は非常に忙しい。JRからの出向者にはまがりなりにも基本給の15%にあたる都市手当が支給されているが、都市手当制度のないプロパー社員は何の対価もなく、ひまな職場の何倍もの仕事を強制されていたからだ。選挙戦を通じてこの要求は多くの仲間の支持を得た。
会社から一方的に指名されて「過半数代表者」になっていたJR東労組員は、当初、「以前の現場長から頼まれてはんこ押しただけ」「選挙になったら立候補などするわけない」と言っていたのだが、締め切りの直前に突如立候補して選挙戦がはじまった。
結果(6月)
国労側候補 134
相手側候補 128
国労側の候補は国労組合員数の2倍を超える票を得て相手側候補を上回ったが、労基法上の「過半数代表者」選挙では、「全有権者の過半数」を獲得する必要があり、わずか2票足らなかった。予想外の国労勝利に驚愕した会社は再選挙を宣言した。
再選挙より前、7月1日からJESSは就業規則を変更したのだが、就業規則変更に当たっては過半数代表者の意見を添付して届ける必要があった。私たちの抗議にもかかわらず、営業所が一方的に指名した従来からの者の意見を添付して届け出ようとしたため、私たちは労働基準監督署に東京営業所の労働基準法違反を申告した。中央労働基準監督署は労働基準法違反を認め、JESSに対して是正勧告書と指導票を交付した。それによれば、職場の過半数代表者選出が法律に従って行われておらず、3月に届け出た時間外労働・休日労働に関する協定届けと6月に届け出た就業規則の変更届は無効とされた。JESSは後日、社長名で「今後は法律を守る」という趣旨の是正報告書を出さざるを得なかった。
再選挙にあたって、相手側は立候補者を、出向者からJESSプロパーの若い候補に入れ替えてきた。
再選挙結果(7月)
国労側候補 125
相手側候補 139
再選挙の結果、相手側は「全有権者の過半数」をわずか2票上回った。相手側候補が過半数代表者となり、残念ながら私たちは敗れた。
●目に余る選挙介入の中で
選挙には応じた営業所だったが、選挙戦への介入は目に余るものがあった。営業所長は朝の点呼で「ビラには繁忙手当など、36協定と無関係なことが書かれている。弁護士とも相談しているが、選挙の趣旨から逸脱している可能性がある」「ビラを渡されても、いやな人は受け取らないでいい」などと連日非難、また、国労東京駅分会の機関紙が休憩室にあったことを、「組合の機関紙を配布することは認めていない。渡されても断るように。配布している者を見かけたらすぐ管理者に連絡するように」と、まるで犯罪であるかのごとく、口を極めて非難した。
更衣室でビラを配布しているところに管理者があらわれ、「おれは会社を守る」??などと威圧して配布をやめさせようとしたが、法律にもとづく選挙でのチラシ配布じたいを禁止することはできなかった。相手側候補は公然とした選挙運動を行わなかった。
プロパーの若い仲間からは、管理者から誘われた飲み会で、「あまり言うと労基法違反なんだが…」などと言いながら、相手側候補に入れるよう言われたなどという話が漏れてきた。
本来、選挙は労働者が自主的に管理すべきだったが、国労側の体制も弱く、実質的には会社の管理で行わざるを得なかった。投票が始まると、これも若いプロパーの仲間が心配して、「管理者の前で書かされてるよ。あれじゃだめだ」と教えてくれるような状況だった。
選挙後私たちは、安全衛生委員会の労働者側委員に、半数近い支持を得た私たちの推薦する者も指名するよう営業所に働きかけたが、営業所は協議に一切応じようとしなかった。われわれは次の選挙(2016年4月からの代表選挙)に向けてパンフレットを作った。
●組合活動禁圧の体制下で
「ありがとう=職場過半数代表選挙をたたかって=」と題したパンフレットを260名全員に配布することができれば、次の選挙で勝利する足掛かりになると思えた。しかし、パンフレットを配布しはじめた直後、私は「国労東京駅分会JESS班と書かれたものを更衣室で配っていたが、認めていない」と所長から通告された。所長以下8人の管理者が取り囲み、大声で威圧しながらの通告は、分割民営化反対闘争のなかで国労を攻撃した当局とまったく同じやり口だった。通告を無視して配布を続けることも考えたが、処分を受けてもはね返して闘える体制はなく、不当に組合活動を禁圧された状況のなか、パンフレットは気心のしれた仲間にしか渡せなかった。闘いは手詰まりとなった。
さらに本年(2016年)1月、立候補してくれた出札班長に突然、出向を解いて直営の駅に転勤する辞令が出た。彼は強制的な出向に苦情を申し立て、JR本体に戻すよう要求していたので、「本人の希望に沿っていた」が、次の選挙を目前にして国労から立候補させないための露骨な人事だった。
私は、残念ながら次の選挙は不戦敗にならざるを得ないと思った。母親の状態は確実に悪化して、私は4月末で退職することを決断していたし、出札班の仲間に闘いを引き継ぐことを強制することはできなかったからだ。
しかし1月、母親のために介護休職中だった私に、東京駅分会の執行部から、次の「過半数代表者選挙」に立候補してくれる仲間が見つかったという連絡があった。立候補を決意してくれたのはプロパーの大勢働く新幹線の職場ではなく、在来線の改札で働く組合員だったが、不戦敗は避けられた。最後にもう一度闘うことができると思った。
2月に行われた3度目の選挙では、会社によって前2回にまして活動が制限された。会社は前回許可した休憩室でのチラシ配布さえ認めず、出退勤時に使う更衣室だけに制限し、理由を問いただしても答えなかった。36協定締結にあたって、繁忙手当と十分な要員配置などを求める私たちの主張を260名に届けることは前回よりも困難だった。
本年2月選挙の結果
国労側候補 114票
相手側候補 140票
相手側は一票伸ばし過半数を7票上回って当選、私たちは11票後退した。選挙後、支援御礼のチラシも十分には配布できずに選挙は終わった。選挙の期間中、営業所は私服でチラシを配布したというようなささいなことを、さも重大な犯罪であるかのごとく言い、立候補した仲間を事情聴取と称して威圧した。私と一緒にチラシを配布して、後日事情聴取で脅された仲間からは、「気分はボロボロです。10年近く会社や助役と言い合いがなかったので辟易しました」というメールが来た。
私は3月下旬から、たまっていた年休を消化する休みに入り、4月末、ほぼ42年間働いた鉄道を最終的に退職し、母親の介護のために郷里に戻った。
●下請け化による労働条件切り下げとの闘い
私たちの闘いは、会社に労働基準法を順守させる初歩的な闘いだったが、一方では、下請け化によって労働条件を切り下げる、企業のやり口との闘いでもあった。
JESSには、JRにある定期昇給制度がない。5年間勤務して初めて最大1万円の幅で昇給するが、額は会社の裁量にまかされている。JRにある、変形労働に従事した際の手当も業務量に応じた都市手当もない。社宅もなければ独身寮もない。JRの社員に支給されている乗車証もない。JR東日本の列車に乗る際の割引もない。そして、一昨年、昨年、本年と、JR東日本ではベースアップが実施されたがJESSではベースアップは実施されなかった。3度の選挙の中で、私たちはプロパーの若い仲間とこうした格差について様々な議論を交わした。
JR東日本には最長5年まで働ける契約社員制度があり、3年働けば正社員試験を受けることができる。しかし合格率は3割を下回っており、多くの若者は契約満了で解雇されている。JESSはそうした若者の受け皿になっている。JESSに採用されればとりあえず雇用不安は解消されるが、待遇は契約社員より下がる。JRとJESSの格差について、契約社員を経てJESSに来た仲間たちは大きな差別を感じており、彼らの多くが私たちを支持してくれた。むしろ、新卒でJESSに雇用されたより若い人たちの中に「JESSは働きやすい」という仲間がいた。彼らによれば、同期で別の企業に就職した仲間の中には、残業手当も出ずに毎日深夜まで働かされているような者も多いのだ。「残業したら手当も出るし、明番で遊びにも行ける。育児休業もちゃんと取れるし女子には働きやすい」という女性もいた。世の中全体がブラック化している中ではいいほうだというのだ。私はそういう彼らには、「残業手当がちゃんと出るのは、労働組合があるからだ」と言った。
●闘って、そして勝つために
私が退職するにあたって、国労の仲間が盛大な送別会をしてくれた。プロパーの若者も、前の職場の非正規の若者も、たくさん参加してくれた。私は彼らに向かって、
「私はこれまで働いてきたいくつかの駅で、契約社員の優秀な若者が契約満了で解雇されていくことに、何も抵抗できないことを心から恥じてきた。JESSで職場代表選挙を闘おうと思ったのは、非正規、下請けの問題を闘えなかったことを悔いてきたからだ。しかし、勝つことはできず、ただ騒ぎを起こしただけになってしまったのではないかと、今また悔いている」
と詫びた。プロパーの若者の何人かが「そうではない。問題があるとはっきり表明してくれただけでもよかった」という趣旨のことを言って慰めてくれた。彼らの優しさは身に染みた。嬉しかったし、国鉄労働組合の組合員として働き、闘い、生きてきて幸せだったという思いが湧いてくるのをかみしめた。しかし、やはり問題を提出しただけで終わってはいけなかったと思う。会社は様々なところで「あいつらはできもしないことを、大声で言って騒いで迷惑かけただけだ」と、今日も飲みながら宣伝しているだろう。それを乗り越えるためには、闘って、そして勝たねばならない。
残念ながら、東京駅分会の闘いを経た今も、JESSの多くの職場では、会社が一方的に「過半数代表者」を指名する法律違反がまかり通っている。私は闘いを横に広げることを考えたが、果たせないままになってしまった。しかし、東京駅営業所での3度の選挙戦の経験は、下請け労働者の直面している課題を自らの課題としてとらえ、犠牲を恐れず一歩前に踏み出すならば、労働基準法をてこにして、職場から、下請け労働者と連帯した闘いを作り出す条件が存在していることを示せたと思う。退職した今、私は仲間たちがそうした闘いを引き継いでくれることを心から願っている。