「日本支部崩壊の危機にあたって」若干の解説

2016/11/26

 1973年冬、18才で上京した私は、翌年、国鉄に就職して以降、約20年間、第4インターナショナルという国際的な新左翼運動の日本支部に所属していました。
 第四インターナショナル日本支部は70年代初頭はベトナム反戦闘争を、70年代中ごろには、当時、様々な地方で闘われていた巨大開発・公害との闘いのなかで、最も激しく闘われた三里塚(成田)空港反対闘争を総力で闘っていました。
 1978年3月26日、自民党政府の3月末強行開港に反対する激しい実力闘争が現地で闘われ、第4インターなど3党派のコマンドが管制塔に突入して占拠するという激しい実力闘争の末、3月末開港は延期されました。
 この闘いで、第4インターは200名を超える逮捕者を出して大きな打撃を受け、その後、組織は内部対立と分解に向かいます。
 国鉄労働組合の中で活動していた私は、突出した実力闘争が権力の壁にはね返されるなかで、再度、職場を基礎にした闘いへと方針を転換すべきだと思いました。1988年に書かれたこの文章は、私の思いに反して、観念的な極左方針(と、私には思えた)を放棄しない組織中央に対する意見表明として書かれたものです。当初は政治組織内の内部文書として、その後、手製のパンフレットとして公表されました。

(注)この文章は、第4インターナショナルの運動に関わった方以外にはほとんど意味を持たないものです。当時の関係者、まあ3人くらい(笑い)が読んでくれたらいいなあと思って公開します。

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