「危機にあたって」を書いた時期、私はまだ、いわば「決定論的な唯物論」の立場に立っていました。それは、歴史には必然的に資本主義から社会主義に移行する力学が内包されているという考え方です。
情勢分析とは客観的に社会主義か野蛮かの二者択一にむかって押しやられざるを得ないブルジョア社会の現在の姿を認識することであり、このことを通じて共産主義者は、客観的過程を意識化し、プロレタリアートの即時的あり方と即時的闘いを、社会主義にむけた意識的な闘いに転化するための介入の現在の方向を明らかにしようとする。 (8ページ10行目)
こうした、「決定論的な唯物論」は第四インターナショナル自体の歴史的立場でもありました。しかし、ソ連東欧の現存社会主義圏崩壊以降、私は「不確定な唯物論」の立場に移行しました。「不確定な唯物論」を一言で言えば、「歴史には必然性はない」という立場です。(参照・アルチュセール「不確定な唯物論のために」・大村書店・1993)。歴史は人類のその時々の営みによって具体的に、しかも偶然性を内包しながら積み重ねられるしかない。十九~二十世紀の共産主義者が確信していたような、人類にとって約束された理想社会(共産主義社会)に向かう歴史の必然性はない。だから一層、人々の主体的な努力が重要になるのだというのが今の私の立場です。歴史に対するこうした理解はまた、労働者階級に対して歴史的な特殊性(=自らの解放を通じて人類総体の解放を成し遂げる主体)を付与する考え方の再考にもつながるものです。
第四インターナショナル各国支部の同志たちは現在、改良主義、スターリニズム、民族主義的人民主義(ポピュリズム)など、様々な政治傾向から分化しつつある革命的潮流と、共同の闘いを強めることによって、将来の、大衆的革命的インターナショナル建設を準備する闘いを押し進めている。 (41ページ14行目)
「危機にあたって」では右のように書いて、国際組織としての第四インターナショナルが、自身の同心円的な成長による世界的な前衛党建設という立場から離れていることを指摘したのですが、現在、私はそうした考えをますます強めています。時代が要請する新しい左翼は、さまざまな出自を持つさまざまな人々の共同の作業として、とりわけ、新しい時代に立ち上がる新しい人々と歴史的左翼の共同の作業として生まれる。
今、格差と腐敗が極限まで進行する日本社会のなかに、民衆にしっかり根を張った新しい左翼を登場させることが問われています。書いてから三十年後、私が「危機にあたって」をインターネット上で公表したのは、一九八〇年代における第四インターナショナル日本支部崩壊の過程を検証することが、時代が要請する新しい左翼を誕生させる闘いに、ほんの少しだけでも役にたつと考えたからです。
何より、二十世紀末の数十年間を第四インターナショナル日本支部に結集して闘った仲間の、そしてセクト主義を排し、第四インターナショナル日本支部とともに闘ってくれた友人の皆さんの、願わくば、私たちよりも若い世代の仲間からの痛烈な批判が寄せられることを、心から願っています。
東京南部地区委員会 早川謡児
一九八八年一二月
日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)--以下、同盟--はいま、崩壊の危機にある。この危機にあたって、労働現場に第四インターナショナルの組織を建設するために、国鉄労働組合の中で活動してきた者として、見解を表明したい。
われわれは現在、地区における組織の崩壊状況に規定されて、第四インターナショナルを支持する関東規模の産別グループとして活動することを余儀無くされている。この文章は、七〇年代はじめから現在までのわれわれの国労内部での活動をふまえて、日本支部のこの間の理論的立場と組織的な有り方に対する見解を表明しようするものであり、当然、この間の日本支部の崩壊的危機の根拠を全面的に明らかにしようとするものではない。さらに、この文章では、いくつかの情勢の節目においては、できるだけ、関東において国労内部で活動してきた者全体の共通した経験に照らして、事態を明らかにしようとしたが、文章の責任が私個人のものであることは言うまでもない。
同盟とわれわれの職場活動の関係を考えると、七〇年代はじめにわれわれが国労内部で活動を開始して以来、今日までを大きく三つの時期に分けることが出来る。それは1)七八年三・二六闘争までの同盟・共青同の方針と職場での活動が一体感を持っていた時期、2)それ以降、反処分闘争などを契機に同盟・共青同の方針と職場活動の矛盾が拡大し、「勝手にやるしかない」となった時期、3)分派闘争の開始と地区組織の崩壊のなかで産別グループ化に踏み切って以降である。以下、順に述べていきたい。
1.「全人民の急進化」路線のもとで
七八年三・二六~五・二〇闘争にいたる時期、われわれの政治的な意識は同盟五~六回大会で定式化された「全人民の急進化」路線の枠の中にあった。
六〇年代末~七一年にかけての急進主義運動の高揚と敗北の後、七〇年代はじめ、反マル生闘争を中心に総評青年労働者の闘いが発展する一方で、革新自治体の拡大・国会での共産党の躍進など議会内での左翼の伸長があり、さらには三里塚闘争をはじめとする各地の反公害住民運動、そして部落解放闘争など被差別諸階層の闘争が発展した。同盟はこうした情勢を「全人民の急進化」と位置づけた。そして、こうした国内情勢はベトナム革命の勝利的前進によるアメリカ帝国主義の衰退という歴史的趨勢、それに規定された韓国-日本(=極東)の帝国主義体制の歴史的危機にもとづいており、学生・青年にとどまらない人民総体の急進化は、早晩「権力をめぐる闘い」を不可避にすると確信したのである。こうした情勢分析にもとづいて、同盟は、当時、内ゲバ主義と軍事主義に傾斜していった中核派や、敗北した急進主義運動の幻にしがみついているようなブント諸派などの堕落を批判して、「大衆のなかへ、大衆の獲得を通じて権力を」との立場から、主要に、総評青年労働者運動の組織化へと向かったのである。関東において各職場への共青同の初歩的な配置が始まったのはこの時期だったし、私自身も、この時期に「労働者を獲得しよう」という目的意識のもとに国鉄に入ったのである。
今から、振り返れば、当時の情勢分析が決定的に楽観的にすぎた事は明白である。しかし、新左翼運動の破産と堕落の中で、われわれが、急進主義運動から「大衆の中へ」と向かったこと自体の意義は大きかった。労働者階級総体に向かうという方向性なしには、われわれもまた、この時期に、新左翼運動総体と同じような破産と堕落をまぬがれなかっただろう。学生・高校生出身の活動家は、職場に入り、労働者の生活と闘争のリズムを学び、戦闘的な職場活動家として、主要に青年部機関の中に位置を占めていった。「日本労働運動の中にトロツキズムを土着させるのだ」というのが、当時、私が意識していたことである。
七〇年代の中盤には、すでに七五年のスト権ストの敗北以降の総評労働運動の麻痺、革新自治体の破産と、国会での野党勢力の後退という状況が始まり、「全人民の急進化」が直線的に「権力の問題」を提起するにいたらないことが明らかになってきた。しかし、われわれには、それが、アメリカ帝国主義・日本帝国主義の歴史的危機のますますの深まり、アジア規模での革命の前進という認識それ自身の再検討を迫るものには思えなかったし、「日本帝国主義の危機の深化と強権化、階級矛盾の激化」という構図の変更を迫るものには思えなかった。七五年にはベトナム・インドシナ革命が完全勝利し、韓国の危機も深まっていた。そして、日本の労働者階級の戦闘性も解体していないと思えたが、そうした判断の根拠は、実は、いまだに強固であった国労・動労や全逓など公労協労働者の下部における戦闘性だったのである。
当時、国労○○支部の社会党左派は、国鉄再建合理化に対して、支部方針として「合理化絶対反対」をかかげ、貨物・駅・小荷物などの合理化案件ごとに現場横断的な「反合共闘会議」運動を組織し、上部機関を突き上げて闘っていた。かれらは、合理化によるスクラップ・アンド・ビルドに対して「スクラップ職場の労働不安が解消されるまでは、ビルド部門の妥結に応じない」という「スクラップとビルドの同時決着」を唱え、いち早くビルド部門への配転に応じて組織の温存をはかる動労と、国労内革マル派を批判して、社会党員協から革マル派を排除するとともに、三里塚現地闘争や狭山闘争に青年組織を動員して、われわれとの友好的な関係を結んだ。
われわれは、富塚派の「節度ある労働運動」論や「国民のための国鉄再建」論など資本主義下の国鉄再建路線に反対し、国鉄危機の解決は社会主義的にしかないと主張し、「全交通産業の無償国有化と労働者管理」を宣伝した。そして、反合全国闘争の政治闘争化や春闘ストライキの政府打倒闘争への発展を主張する一方、青年労働者を中心とする職場闘争のなかに公然と三里塚闘争や狭山闘争を持ち込んだ。青年部の機関選挙で、合理化絶対反対闘争や、国鉄赤字の資本家への転嫁と並んで「三里塚・狭山闘争への結集」や「ベトナム人民支援」を公然と訴えて登場し、○○駅では革マル派との党派闘争に勝利して分会青年部を掌握した。
こうして、われわれが関東の国労内において、ごく初歩的な活動家の配置を終えた段階であった七七年、福田内閣の「強行開港」方針があきらかにされ、三里塚闘争が情勢の焦点に浮かび上がったのである。
2.最初の対立
同盟の方針との最初の対立を、私が最初に意識したのは七七年八月の同盟八回大会九回中央委員会-以下、九中委-での方針の転換をめぐってであった。九中委は、それまでの組織建設の中心であった、労働組合内部で青年部を中心とする機関を掌握していくという方針から、三里塚闘争の「総評民同の改良主義運動構造から独立した、戦闘的全国大衆闘争」としての展開を通した組織建設へと転換した。その転換にあたって、九中委は総評をめぐる状況について
「総評青年労働者大衆の急進的エネルギーは…基本的に保持されている。…だが、総評青年労働者の大衆的戦闘性は、新日本帝国主義とそのブルジョア民主主義の危機という条件下における伝統的民同改良主義運動構造の破産と完全な行き詰まりによって官僚的に抑制され、拡散されているのであって、もはや総評民同官僚の改良主義運動構造をつうじて、青年労働者の大衆的戦闘性と行動的自主性をひきだすことは不可能である。」
と、評価して
「青年労働者大衆をまず最初に労働組合的に結集し、それからこれを政治化しようという二段階的方法をわれわれはとることはできない。総評民同の改良主義運動構造から独立した戦闘的全国大衆闘争、総評民同官僚機構に対する反官僚闘争を一貫して発展させんとする立場、そして彼ら民同官僚が今日とりつつある新階級協調主義的構造改良路線と階級的に対決する国際・国内的な政治的展望にもとづいてのみ、彼ら青年労働者の政治的拡散状況の克服と彼らの戦闘的結集のために闘いうるのである」(わが同盟の当面する基本任務 第四インターナショナル誌 二五号六一頁)
という「基本方針」を決定した。
私には、総評官僚と大衆の関係をこのように、もはや固定したものとしてとらえることは間違いだと思えた。三里塚闘争をめぐる当時の情勢から考える時、当面、総評運動から独立した大衆闘争として闘わざるを得ないことは明らかであった。だから、共青同を中心に、青年共闘を党派行動隊とするのか、組合機関をも含めた共闘組織とするのかをめぐる議論がおきた時、私は、実態としては党派行動隊として組織する方針に賛成した。しかし、次の情勢では、大衆が官僚を押し上げて、既成の労働組合機構をとおした闘いが発展する可能性はないのか。私にはあると思えたし、九中委路線はその為の労働組合内での闘いを放棄して、五~六回大会を通して大衆に向かった路線から、再度、急進派統一戦線路線にまい戻るものに思えた。
「青年労働者大衆をまず最初に労働組合に結集し、それからこれを政治化しようという二段階的方法をわれわれはとることはできない」という断定は、労働組合内における基本的な組織活動の放棄につながるものに思えた。労働組合内における活動には、当然にもほんの些細な要求から始まる労働者の全生活領域に対応した方針と活動が不可欠である。労働組合内において多数派を獲得する闘いでは、政治情勢全般に対する正しい路線を提起するだけでは不十分であり、日常の組合活動を通して労働者からの信頼を獲得する基礎的な闘いの一定の蓄積は、どんなに反動的な労働組合内における活動においても不可欠である。九中委路線は、労働組合内における活動方針を政治闘争(三里塚闘争)の持ち込みという一面に切り縮めるものであるように思えたのである。
しかし、九中委路線に対する以上のような批判は、主要には私個人のものであり、関東の国労メンバー全体の意識ではなかった。当面、開港阻止闘争に青年労働者を総力で結集する事に全力を上げることには、私も含め、全員がまったく異存なかったし、われわれは開港実力阻止を公然と掲げて職場に登場して三・二六~五・二〇にいたる過程を闘い抜き、新たな仲間を共青同に獲得した。この闘いの過程で、われわれは国労内の三名の同志を権力によって獄中に奪われ、国鉄当局は三名の同志に対して懲戒免職処分を発令した。
福田内閣の「成田強行開港」方針の決定によって、三里塚闘争が当面する政治情勢の焦点となって以降、同盟は総力を上げて、開港阻止の大衆的実力闘争を闘い抜いたし、この闘いが、基本的には総評運動の枠の外で闘われなければならなかったこと、そして、五~六回大会以降、同盟が主要な組織建設の場所として設定してきた、総評傘下の各組合(青年部)機関の運動によっては、必要とされる実力闘争を担うことは問題にならないことも明らかであった。だから、われわれが青年共闘を組織して闘った方針には必然性があったのである。しかし、その事と、もはや、既成の労働組合機構を通じた闘いの発展はあり得ないと断定すること、労働組合を獲得する為の一から始まる基本的な闘いを否定する事とはまったく違う。いくら、三里塚闘争が政治情勢の焦点になったとはいえ、三里塚現地の実力闘争で、労働組合内部における組織建設の闘いと、労働者階級自身の要求を権力に向けて発展させる闘いを代行することはできないのである。
九中委は、三里塚闘争が情勢の焦点となり、総評運動が麻痺状況にあるという状況の中で、われわれが組織の総力を上げて三里塚闘争を闘いぬくことを準備した。しかし、それは、急進主義運動の敗北と堕落の中で「大衆の中へ、大衆の獲得を通じた権力を」として、労働者階級の総体にむかおうとした五~六回大会の方針のうちの積極的部分を放棄して、再び急進主義に後退する方向で準備されたのである。
当時の私の九中委に対する批判は、「全人民の急進化」路線の枠の中のものであった。「総評運動の麻痺にもかかわらず、次の情勢では大衆は再び総評官僚を突き上げ、既成の組合機構を通した闘いが発展する可能性はある」というのが、私の主要な議論だった。しかし、にもかかわらず、労働者階級の内部にトロツキスト党を建設するという「大衆の中へ」という五~六大会路線の正しい側面からの後退、急進主義への舞い戻りという九中委路線への批判は、今でも正当だと考えている。
七八年に三里塚現地で闘われた二つの実力闘争を、同盟は二〇〇名を上回る逮捕者を出しつつも総力で闘い抜いた。当時の福田内閣が、六〇年代末以降の急進的大衆闘争派の拠点であった「成田」を解体する事を宣言してから、この現地における実力対決は不可避であったし、同盟はこの闘いで、主体的力量を越えるこの任務を総力で担い抜いたのである。
成田空港は強行開港したが、福田内閣は三里塚闘争を解体することは出来ず、現地農民は「三里塚空港廃港」のスローガンを掲げた新たな闘いを開始した。しかし、当時、急進派が持っていた主体的力量のすべてをかけた、二つの現地実力闘争の貫徹にもかかわらず、福田内閣の強行開港を阻止出来なかったという明白な事実は、次の闘いの展望をどう切り開くのかという課題を、否応なしに同盟に突きつけた。そして、その問いに対して、同盟は完全に間違った答えを出してしまった。それは、国鉄産別で闘っていたほとんどの同盟・共青同のメンバーが同盟との一体感を喪失していく契機となっていく。
当時、何が問われていたのか。私にとってそれを明らかにしていたと思われる事実を二つ上げたい。
第一は、三・二六闘争の直後に開催した政治集会である。要塞戦から、開港阻止闘争へと引き続いた現地実力闘争への社会的共感の広がりは大きなものがあった。国労内部で私の知っているだけでも、△△支部執行委員で「あの鉄塔にしがみついて放水を受けている若者の姿を見て感動しない者はいない」などと言っている者がいたし、○○支部でわれわれとの友好関係にあった社会党系の活動家たちは、「次に行く党派は決まったな」などと冗談を言っていた。実力闘争に参加することを職場に告げて闘争に参加した者は、無事に帰ると職場の仲間から抱擁された。私は、こうした共感の大きさから見て、政治集会は大きな結集をかちとるだろうと予想していたが、結果は、そうした自然発生的な大衆の結集は少なく、すこしがっかりした。
労働者内部での共感のひろがりを同盟に結集するだけの、日常的な組織活動、労働者との職場での日常的な関係の積み重ねなしには、自然発生的な共感の広がりは組織建設に結びつかないという事を、政治集会への結集状況は示したと、当時の私には思えた。
第二は、当時、関東において各産別に配置されつつあった若い活動家達の結末である。七八年の三里塚現地での実力闘争で同盟は大きな痛手を受けたが、すべての活動家が逮捕された訳ではなかったし、関東では、自治労、全逓、国労、電機、その他に共青同の若い活動家群がいた。私には彼らは「宝」だと思えた。彼らこそ、トロツキズムを日本労働運動に根づかすために絶対に不可欠な第一期生であると思えたのである。「宝」であった彼らを、同盟はいとも簡単に、何の痛みさえ感じることなく「つぶしてしまった」のではないだろうか。根本的には政治路線の破産の問題として後に述べるが、反処分闘争の位置づけや、職場の課題と三里塚闘争の位置づけの問題などを直接の契機にしながら、若い共青同メンバーが次々と組織不信におちいり、組織から離脱していくのを、関東の同盟・共青同指導部は、まったく意に介さないように思えた。「宝」を失う事に対しての無感覚は、私の組織不信を決定づけていく。
各産別の職場にいた多くのメンバーにとって、三里塚闘争への結集だけでは、まったく状況に対応できないことが明確になってきた。われわれは、後の「国鉄分割・民営化」攻撃につながっていく、三五万人体制合理化が強行されていくという事態に対して、国鉄労研として「五五・一〇ダイヤ改悪阻止のために」というパンフをつくった。このパンフを印刷するために、新時代社に原稿を持って行った共青同のメンバーが、当時の共青同の三役の一人から
「国鉄は、ごーごー・とお(五五・一〇)とか、何とかばっかり言っていて何もやってないじゃないか」
と、あからさまに厭味を言われたことがある。再度、職場からの闘いをつくり出す事を主張するわれわれは、当時、共青同の指導部からは「組合主義」と見られていて、特に、共青同の指導部はまったく官僚的だった。われわれは、こんな奴等につきあっていられないという感じになって、共青同の指導部をまったく信用しなくなっていく。彼らが戦線を離脱したことを聞いた時、わたしは何の感慨もなかったし、「あいつらを信用しなかったから、つぶれなくてすんだ」というわれわれの感覚は正しいと信じている。
七八年の二つの三里塚現地実力闘争の勝利と敗北は、いわば、「三里塚闘争で労働者を組織する」という、この時までの同盟の路線の限界をさし示し、比喩的に言えば、「労働者階級を組織することなしには、三里塚闘争の勝利も有り得ない」という事実を明らかにしたと、私には思えた。そして、労働者階級を組織するための体系的な路線のためには、九中委路線の急進主義的な側面を再度見直すことが必要だと思えた。しかし、実際には、同盟は、九中委の急進主義的側面を更に強める方向に、現実の要請とはまったく逆の方向に方針を決めていく。七九年一〇月の同盟九回大会である。
この文章を書くにあたって、九回大会の膨大な文書をすべて読み直した訳ではないが、九回大会の公表文書(第四インターナショナル誌、八〇年一月、臨時号)は、奇妙な文書である。各政治報告に、方法上の統一がなく、特に、東アジア情勢の報告と日本情勢・任務についての報告は切断されたような印象を受ける。それはともかく、同盟の方向を決定づけたのは報告第Ⅲ部(日本政治情勢と基本任務)であり、当時私は、この「情勢と任務」を批判する簡単なレジュメを作った。当時の私の結論は、「情勢と任務」は、①情勢認識についての主体主義=主観主義、②党建設における大衆運動主義とセクト主義、であるというもので、以下、レジュメからの抜粋である。
×主体=三里塚闘争が総評労働者を獲得する度合いにおいて、階級闘争の前進があるとの情勢認識
3-b その真に突出した孤立にもかかわらず、二月の要塞戦と三・二六の劇的勝利は、福田政府の強権路線を突破することによって、労働者運動がブルジョアジーとその自民党政府体制と闘う最先端かつ全国的極としての三里塚闘争の位置と構造を最後的に確立していったのである。(一五〇頁上)
3-c 日本政治情勢は、帝国主義の危機の条件の下で、ブルジョアジーとプロレタリアートのそれぞれの側の主体の問題を媒介とした直接的な階級関係が政治情勢展開の直接的な中心軸となる局面、この二つの階級のまさに主体的な直接的相互関係がブルジョア議会制国家の均衡と危機の公然化、自民党政府体制の存立を直接に左右する局面に決定的にはいりこんでいた。そして三・二六の勝利にいたる三里塚闘争が、以上のような危機下の政治情勢と階級闘争の情勢に労働者の側からする新しい階級的主体の要因を決定的にもちこんでいったのである。(一五一頁上)
×三里塚闘争を総評労働運動に持ち込むことを大衆運動と組織建設の軸とする方針
33 わが同盟の基本任務-b 三里塚闘争は、三・二六の勝利と五・二〇闘争の貫徹によって、ブルジョア国家権力と真正面から対決する地平において、自民党政府そのものと直接かつ最先端に対抗する戦闘的全国政治闘争としての位置を決定的に獲得した。この三里塚闘争を、三・二六~五・二〇の闘いの限界をこえて、ブルジョアジーと大平自民党政府にたいする総評労働者を中心とする労働者農民大衆の攻撃的な戦闘的全国政治闘争へと新たに飛躍させつつ、同時に、ブルジョアジーと大平自民党政府の経済・財政・産業構造政策総体と国家財政〃改革〃・公企体合理化・地方自治体行財政合理化・農業の再編・合理化にたいする国家権力との対決をかけた総評労働者を中心とする新たな社会階級闘争の主体的陣型・構造を三里塚闘争をその最先端としてつくりだしてゆくこと(二三九頁上)
34-a 総評民同官僚主力の新たなブルジョア改良主義的右傾化と共産党官僚機構の議会改良主義的屈服に全面的に抗し、彼ら二大既成〃指導〃部にたいする政治的闘いを総体としての総評労働者運動における全国分派闘争として展開しつつ、ブルジョアジーと大平政府の国家財政〃改革〃を中心とする経済・財政・産業構造政策に対決する新たな社会階級闘争、大平政府の帝国主義国際政策と日米共同軍事体制にたいする新たな反帝・反軍国主義闘争、そして現ブルジョア議会制国家の深まりゆく様々な強権化にたいする新たな民主主義的闘争を相互に結合して展開せんとする一つの戦闘的プロレタリア階級闘争・・この新しい闘いを総評労働者運動それ自体のなかに独自に構築してゆくという課題の実現を、われわれは、三・二六~五・二〇の闘いのうえにたつ三里塚闘争を総評労働者の闘いへと真に飛躍させることをつうじて実践的に貫徹して行こうとする。(二四〇頁上)
35-b かくして、三里塚闘争にむけて総評労働者を大衆運動として獲得する闘いは、同時に、公企体・自治体合理化に対する官公労労働者の闘いと中小企業労働者の反失業を中心とする闘いをブルジョア国家権力と公然と対決するものとして攻勢的に組織してゆく主体的闘いのカナメをなすものである。(二四三頁上)
×情勢分析における主体主義=主観主義
・情勢分析とは、ブルジョア社会がはらむ矛盾がブルジョアジーとプロレタリアートならびにプチブルジョアジーのあり方におよぼす力を客観的にとらえ、それぞれの階級の存在のあり方を変化させようとする方向を明らかにすること。
・情勢分析とは客観的に社会主義か野蛮かの二者択一にむかって押しやられざるを得ないブルジョア社会の現在の姿を認識することであり、このことを通じて共産主義者は、客観的過程を意識化し、プロレタリアートの即時的あり方と即時的闘いを、社会主義にむけた意識的な闘いに転化するための介入の現在の方向を明らかにしようとする。
・共産主義者とプロレタリアートの関係は、この客観的な情勢をいかに正確に深く理解するかに、まず第一にかかっている。
・9NC「情勢と任務」は、主体=三里塚闘争が総評労働運動を獲得する度合いに応じて、情勢が決定されるとして、労働者階級内部の党派闘争の動向が情勢を動かす原因であるとした。
・共産主義者の主体的闘いと客観的情勢認識を混同する情勢分析における主体主義=主観主義
×三里塚闘争が情勢の焦点でありつづけるとしたことは正しかったのか
・3-b)(その真に…)という認識のもとで、9NCは三里塚闘争が情勢の焦点でありつづけるとした。
社共民同下の大衆運動の限界との前提のもとで、革命派に指導された三里塚という理解
・しかし、革命派の主体的拠点としての三里塚が、常に客観的情勢にあっても焦点でありつづけるという理解はちがうのではないか
福田政権下の三里塚闘争
話し合い路線下での三里塚闘争
・わが同盟の主体的闘いぬきに、三里塚以外の戦線が情勢の先頭に立ったとき、「情勢と任務」の情勢認識はふいを打たれた。
全逓反マル生闘争 日韓連帯闘争
・また、わが同盟の主体的前進の度合いを情勢の進展と同一視するところからは、主体的力量を越える情勢の進展に対しては主体的力量から方針を打ち出す日和見主義に通じた。
大平内閣の自壊と同時選挙……立候補問題
×党建設における大衆運動(カンパニア)主義とセクト主義
・9NCの任務は、三里塚闘争が三・二六闘争を頂点とする勝利をかちとった根拠を、情勢の客観的性格と同盟の主体的闘いの双方から明らかにすることであり、さらに五・二〇闘争以降、労働者階級の多数を獲得する展望なしには三里塚闘争の勝利すらあり得ないことが明らかな中で、わが同盟が労働者階級に根をはった党にならなねばならないこと、また、なることができるということを、情勢の客観的性格の分析と、同盟の任務の決定によって明らかにすることだった。
・「情勢と任務」はそれを、「三里塚闘争を総評労働運 動に持ち込む」闘いによってなそうとした。
・労働者階級の闘いは不均等にしか前進することができない。三里塚闘争に限っても、政府に「話し合い」路線への転換を許したものは、三里塚闘争と労働運動の間にある不均等な発展、ギャップの存在であった。
三里塚三・二六闘争の勝利と七八春闘の敗北
・党を階級の中に建設する闘いは、不均等に発展せざるを得ない階級闘争の中で、客観的情勢が要求する闘いへと、さまざまなレベルから出発せざるを得ない大衆闘争を、大衆と共に闘い、大衆自身の経験を通して発展させようとする努力ぬきにしてはあり得ない。
・「情勢と任務」はこの党建設の切迫した課題を三里塚闘争という大衆闘争に代行させる大衆運動主義、カンパニア主義である。
・さらに、諸戦線での課題、諸戦線の前進が三里塚闘争への結集を通じて行われるとする方法は、直面する課題と真剣に闘う方針をさぐる労働者にたいする極端なセクト主義である。
31-b …国家権力との対決の最先端にたっているのは三里塚闘争であり、とりわけ官公労労働者のブルジョア国家権力と対決した政治的組織化は、まさに現在、三里塚闘争にむけた彼らの徹底的な結集によってもっとも容易かつ一切の中間性なしに貫徹できるのである。…ただかくしてのみ、官公労労働者は、ブルジョアジーと国家との階級協調的癒着にむけてすすみつつある総評民同官僚の主力と非妥協的に対決することができるのである。(二三五頁上)
×社共・民同批判における力学主義的(綱領的でない)批判
・26~29(二二〇頁下~二三〇頁上)
・30-c) …ブルジョアジーと国家権力そのものとの全面的な対決と激突をかけた新たな階級的闘い、したがってまた自民党政府体制の階級的打倒に集約される総評労働者の戦闘的大衆闘争の実現…(二三三頁上)
・国家権力との実力対決以外の結論は出されず、官公労労働者を三里塚に結集させるという方針が課題となり、官公、中小、JC下での労働者が立ち向かっている「綱領的」課題を明らかにするという党の任務は三里塚闘争への結集という大衆運動の任務にすりかえられている。
1.沖電闘争と全逓越年闘争--テストされた同盟
私がこのレジュメを書いた時、同盟と共青同の大衆闘争と組織建設方針はあまりにも三里塚闘争一辺倒になっており、労働者階級が日々直面する様々な課題を、その課題自身をいかに闘うかという観点からの指導はまったくないといってもいいほどになっていた。しかし、現実には、同盟が九中委から九回大会にかけて断定した「社共・民同体制の挙国一致構造への包摂」という状況は、様々な戦線で様々な闘いによって食い破られ、同盟はテストされたのである。
労働戦線では、七八年秋には沖電気で三井三池以来の大量指名解雇攻撃にたいして、後の沖電気争議団の共産党から新左翼までを包摂する歴史的な統一闘争に発展する闘いが開始されたし、年末には全逓が反マル生越年闘争を闘った。われわれは、この二つの闘争に国労青年部を動員するために闘い、○○支部の二つの青年部をそれぞれの地域の全逓支援に動員することに成功した。うちの一つは、現在まで継続する東京南部の地域共闘へと発展していく最初の闘いになった。
当時、わたしは「全逓がはじめて年賀を《とばす》という歴史的闘争をやっている時、正月田舎で寝ている奴は共青同ではない」と思い、東京南部地区の会議で全逓支援闘争を提起し、南部の共青同と同盟は全逓各支部への支援のビラまきや支援行動への動員で年を越した。同盟(共青同だったか?)南部地区委員会のビラは、「職場闘争委員会をつくり下部労働者が闘いのヘゲモニーをにぎれ!地域共闘をつくれ!」といった内容だったと思う。わたしはすべての地区が総力で全逓支援を闘うべきで、組合を動かせるものは組合を、動かせないなら、様々なサークルの名前でもいいから、各地区の全逓支部を訪れて、激布を渡し、差し入れに蜜柑の一箱でも置いてくる闘いから始めるべきだと思った。しかし、関東ではそのような指導はなされず、一番象徴的だったのは「今、全逓に入れるビラは、最初に全逓三里塚被告の救援運動への結集を呼びかけるべきだ」という批判が他の地区の同盟員から聞こえてきた事である。
私は当時、沖電気闘争の開始や全逓反マル生闘争の爆発という新しい状況こそ、九中委が「もはや総評民同官僚の改良主義運動構造をつうじて、青年労働者の大衆的戦闘性と行動的自主性をひきだすことは不可能である」と断定したこと、九回大会が「最後的に確立した」と断定した「自民党政府と闘う最先端かつ全国的極としての三里塚闘争」という構図を越える新しい情勢であり、「次の情勢では大衆は総評官僚を突き上げ、既成の組合機構を通した闘いが発展する可能性はある」という、私の九中委への批判を実証するものに思えた。そして、こうした新しい情勢に対応するためには、三里塚闘争という「穴」を通してしかすべての状況を見ることの出来なくなっている九回大会路線を批判することが是非とも必要に思えた。レジュメを書いた時の問題意識である。
2.防衛と攻勢--場所のとりちがえ
九回大会の路線は、現場には三里塚反処分闘争を通して労働者を組織するという方針となり、管制塔被告奪還の一〇万人署名も、その中に位置づけられた。しかし、実際にはこの方針は機能しなかった。なぜか?
私自身の実感で言えば、一〇万人署名運動は非常に重たかった。職場で公然と署名を頼むことに非常に勇気がいった。三・二六闘争と総評傘下の労働者の現状とのギャップは勿論非常に大きかった。そして、実際には「反処分闘争で組織する」というよりは、これまでの様々な闘いを通して職場でかちえた信頼に依拠して「署名に協力してもらう」という方針とは逆転した取り組みにならざるを得なかった。それは、三里塚闘争の位置自体が、開港以降の政府の迂回策である「話し合い」路線のもとで、第一級の政治的焦点たりえなくなっていることとの関係でもあった。
しかし、二〇〇名にのぼる同志を獄中に囚われたわが同盟にとって、反処分闘争・救援運動は死活をかけた闘いとして闘われる必要があることは当然であった。国鉄産別も三名の同志に対する起訴即懲戒免職という攻撃に直面していた。われわれは家族をオルグし、職場の仲間をまわってカンパを集め、獄中の同志を励ます面会を組織した。そして、青年部の機関選挙では、反合理化や春闘の課題などと共に「正義の三里塚戦士=○○君を守れ!」というビラを出して闘った。しかし、今振り返ると、こうした反処分・救援の運動は当時同盟が提起したような《攻勢》の闘いではなく、《防衛》の闘いであったと思う。それは、突出した三・二六闘争と総評傘下の労働者の状況との巨大なギャップを突いて、三里塚勢力を職場から放逐するために総力をかけてきた政府権力の攻撃から、われわれが築いた総評労働者内部への橋頭堡を守るための《防衛戦》として位置づけなければならなかった。そして、攻勢は別の戦線で、当時、一時の「凍結」状態を脱して動きだしていた新しい戦線でこそとられなければならなかった。それは、全逓の越年闘争や沖電気闘争への結集であり、都職労でも高齢者への定年制での流動が見られたし、そこへの青年部機関の動員を主張した共青同メンバーもいたが、彼らの主張を関東の同盟・共青同の指導部はまったく受けとめられなかった。
3.「頭の固い中堅」
求められていたのは労働者階級の獲得に向かう体系的な方針であった。福田内閣が「成田開港」を宣言し、新左翼運動の拠点であり、わが同盟が総力をあげて闘ってきた三里塚闘争が政治情勢の全面に登場して以降、現実性をもっていた「三里塚闘争で組織する」という方針は七八年の二つの実力闘争から日がたつにつれて有効性を失っていった。三里塚闘争は依然として新左翼運動の主体的拠点であり続けたが、主体的拠点がいつも全体的政治情勢の中でも焦点である訳ではない。同盟に問われていたのは、主体的拠点としての三里塚闘争に結集すること以上のことだったのであり、いわば、「三里塚闘争で労働者を組織する」路線から、「三里塚闘争を闘える労働運動を組織する」路線への転換であった。
しかし、九回大会は求められていた要請とまったく逆の方向へと舵を取った。「労働者運動がブルジョアジーとその自民党政府体制と闘う最先端かつ全国的極としての三里塚闘争の位置と構造(が)最後的に確立(した)」という主張は三里塚闘争を《特別の何か》にしてしまい、それへの結集が大衆運動方針であり組織建設方針でもあるという九中委以来の方針はさらに「発展」させられた。
こうした中で、関東各地区に配置された学生出身の若い共青同の専従は、九回大会の路線で地区の共青同を「指導」しようとした。かれらは、「それだけでは駄目だ」という現実にぶつかっていた職場メンバーの実感を受け止めることが出来ず、職場メンバーの「日和見主義と闘う」ことになる。三・二六~五・二〇の二つの実力闘争をやり抜いたという自信に裏うちされて、共青同の指導部は非常に尊大であり、当時、「頭の固い中堅」というような言い方がされた。職場に入ってかなりたつ「頭の固い中堅」は、三里塚闘争の作りだした新しい情勢を分かっておらず、三・二六以降に獲得された新しいメンバーの方が、ストレートに情勢を理解するというくらいの意味である。しかし、問題のありかをつかんでいたのは、二つの実力闘争を、逮捕・投獄を決意して闘い、職場に帰ってから「それだけでは駄目だ」という現実に直面していた「頭の固い中堅」の方だったことは間違いない。こうした官僚的な「指導」の中で、私が「宝だ」と思っていた多くの現場メンバーを同盟・共青同は失った。そして、当時配置された若い専従達も今はほとんど同盟に残っていないが、やめていった彼らから実のある総括を聞いた記憶もない。
この時期の同盟・共青同の状況について、最後に二つの点だけ付け加えておく。
一つは、これまで述べてきたような、党建設と大衆運動についての方法上の急進主義には、やはり、三里塚闘争自身の過大評価が結びついていたということである。三・二六闘争の前後、共青同の文章には頻繁に「政府権力闘争としての三里塚闘争」という表現があらわれた。…権力闘争?? 権力闘争とはマルクス主義の用語では「プロレタリア独裁の樹立をめぐる闘い」をさす言葉であり、ブルジョアジーの権力にかわる新しい権力の機関が準備されていることが前提になっているはずである。どこにもそんなものはなかった。
「『政府権力闘争』という言い方は間違いだ。自民党政府にかわる新しい権力機関は準備されていない。政府打倒闘争と言うべきではないか」
という私の提起に対して
「俺はこの言い方でいいと思うし、さらに言えば、そういう議論は当面する任務への集中を曖昧にすると思う」
と言うのが、当時の共青同中執の答えだった。
二つは、「三里塚反処分闘争を通じて労働者を組織する」として、「攻勢的に提起された」はずの反処分闘争は、それ自身もまったく不十分にしか闘われなかった事である。獄中者を守り、家族をオルグし、そして、職場の労働者と労働組合を組織するという闘いでは、カンパニア主義ではない、粘り強い闘いが必要である。しかし、少なくとも関東において幾つか発生した、被告と産別のメンバー間の不信の広がり、救援運動を担っている現場メンバーと地区専従間の不信の広がりは、同盟が、この粘り強い闘いを闘い抜く資質を欠いていたことを暴露した。国鉄産別も、奪われた三名の同志のうち、若い二名は現在、階級闘争の戦線についていない。この事はわれわれ自身の闘いの質を問うていると自覚している。
4.「全人民の急進化」路線の枠内の対立だったが
九回大会の路線も、その路線に対する当時の私の批判もまた、「全人民の急進化」路線の枠の中のものであったと言える。九回大会は「全世界に赤旗が翻る時代が始まった」と宣言した。七五年のベトナム革命の勝利に続き、世界帝国主義体制のエネルギー基地=イランで王政を打倒したイスラム革命は世界を揺さぶっていた。アメリカ帝国主義の衰退は世界的規模で労働者階級と資本家階級の間の権力をめぐる闘いを不可避にする、つまり、アメリカ帝国主義に変わりうる、「帝国主義体制の『次の盟主』はいない」という感覚は、同盟員全体に共通していたといえるし、三里塚三・二六闘争の劇的勝利は、そうした、世界的規模での闘いの戦線に参加する、日本人民の主体が準備されつつあるという確信を与えたのである。
私もまた、「世界的規模での『権力をめぐる闘い』の接近」という世界認識にはまったく同意していたし、日本における「権力をめぐる闘い」の情勢に間に合って、労働者階級の中に勝利を保障する党をいかに建設するのかが問題だと考えた。そのためには、たしかに三・二六では勝利したが、それ以降、労働者階級の現実の闘争から目をそむける役目を果たしている九中委-九回大会路線の急進主義を克服することが必要だと思えたのである。ここでもまた、対立の前提となっていた共通の世界認識そのものが決定的に楽観的にすぎたことは今や明確である。にもかかわらず、①情勢認識についての主体主義=主観主義、②党建設における大衆運動主義とセクト主義、(もっと縮めて言えば、情勢認識における主体主義と党建設における客観主義)という私の批判は、七〇年代末から現在にいたる同盟の崩壊状況を理解する上で基本的に正しいと考えている。
三里塚闘争への結集が大衆運動方針であり組織建設方針であるとした九中委-九大会路線は重大な桎梏になっていた。共青同の現場メンバーは、ある者は労働者の現実の闘いに目を向けようとしない若い共青同専従の「指導」にへきえきして、また、ある者は九中委-九回大会路線が必然的につくり上げた三里塚闘争を過大評価する展望が、裏切られたことへの挫折によって組織を離れていった。
国鉄産別でも、先ほど触れた「五五・一〇ダイヤ改悪阻止」のパンフを作った頃は、地区の専従への不信という形をとった同盟・共青同への批判はほとんどのメンバーの共通の意識になっていた。
「労働運動のことを何も知らない専従が、あれをやれこれをやれと言って来るけれど、組合運動というのはそんなもんじゃない」
こんな意識が、現場で青年部運動にかかわっている共青同メンバーの意識ではなかったかと思う。労働組合における基本的な組織活動、日常的な活動を基礎にした組合員からの信頼の獲得などという契機を持たない急進主義的路線からは、例えば「反処分闘争」、例えば「アジア青年集会への動員」、例えば…、というふうな「課題の持ち込み」という以外の「指導」は出て来ない。よく言われた「情勢の最先端で運動と組織をつくる」と言うことは、実際にはそういう事だった。
分派闘争は、この時期に、九回大会路線をめぐって開始されるべきであった。実際、国鉄産別の共青同のメンバーは、コミンテルン三回大会の「戦術にかんするテーゼ」第五章「部分的闘争と部分的要求」を引用した意見書を作り、中央委員会で「プロレタリアートの実際の闘争の先頭にみずからをおくこと」「労働組合内での日常的闘争への参加」の重要性を訴えた。しかし、「労働組合活動の事を言うこと自体が組合主義であるという雰囲気すらあった」当時の共青同中央委員会ではこの意見書に対して大した反応はなかった。
また、当時の内部討論用の資料には、国鉄産別の同志による文章がいくつか見られるが、そのうちの一つは
「私の結論は、三・二六~五・二〇の闘いを含め、今日までのすべての闘いを通じて、依然としてわれわれは急進主義であり、あるいは急進主義の残りかすをいっぱい身につけており、それを徹底的に落とさないかぎりどうしようもないということである。」
と、結論を述べたあとで、三・二六闘争は闘えても、その直後の春闘ストライキには方針を持たないばかりか、政治集会があるから、「その前にストが終わってほしい」と願うような状況があったことを指摘し
「こうした傾向があらたまらないこそ全逓反マル生闘争への立ち遅れがつくり出された」
と、批判している。この文章は、「三・二六の偉大さをどこでとらえるか」という項で、九中委路線を
「挙国一致構造に対抗する革命派独自ヘゲモニーによる闘争の路線」
と定義した上で、三・二六闘争が挙国一致構造を左から崩壊させはじめたとして、成田立法をめぐる社共の動揺と、有事立法反対闘争への社共総評の動員を例に上げ
「三・二六闘争を転換点にして、九中委路線を規定した情勢の基本構造がかわった(のであり)、九中委路線からの転換が要求された…にもかかわらず、わが同盟の多数は三・二六までの九中委路線をそれ以後も踏襲し、三・二六スタイルに固執し、大衆の動向をすなおに受けとめることに及び腰になってしまった。これが全逓反マル生闘争への立ち遅れの直接の根拠である」
としている。この文章も全体的には、「権力をめぐる闘いの接近」という、当時の前提的な情勢認識は承認した上で、現実の大衆闘争への参加を訴えるものだったと言える。〔①〕
こうして、九中委-九回大会路線に対する部分的な闘いを行いながらも、われわれは、基本的には分派闘争に踏み出さなかったばかりか、この一時期を例外にして、同盟の路線と組織の有り方に対する、われわれの立場からする批判を継続し、広く同盟に投げかけるという事も行わないまま、現在にいたった。われわれは、この時期以降、一貫して同盟の方針に批判的であり、同盟の提起する情勢分析や大衆運動方針は、「決定的な間違い」ではないにせよ、信ずるに足らないものであり、「われわれは、われわれの方針でやる」という立場から、三・二六闘争から日を重ねるにしたがって、ますます、同盟の国労組織と共青同の国鉄班協そして国鉄におけるフラクションの中に閉じこもるようになっていった。われわれには、この時期に同盟の方針から自立することなしには、現在のささやかな関東の国労内の組織すら「残らなかった」ことは確実だと思われる。しかし、「われわれは、われわれの方針でやる」という態度は、もちろん、組織活動における初歩的な日和見主義である。われわれは、とわれていた分派闘争を展開することなく、日がたつにつれて、同盟活動からますます召還する形で現在にいたった。
われわれがこうした態度を取った原因の第一は、われわれが八〇年前後にあげた小さな声に対して、同盟内から呼応する声が聞こえなかったことである。しかし、第二には、これは私個人に限ったことだが、組織建設の課題すら、大衆運動の前進が解決してくれるのではないか、と考える、ウルトラに自然発生主義的な感覚に侵されていたという主体的な原因がある。「俺は現場で組織をつくればいい。大衆が動き出せば、同盟も変わるだろう」という、漠然とした期待感のようなものがあった。「なにせ、われわれはトロツキストなのだから」。
この期待は、「権力をめぐる闘いがとわれる情勢の接近」という、前提としていた世界認識の誤りによって、そして、決定的には、内部での闘い抜きに、状況の変化が政治的方針を正すだろうという、まったく没主体的な同盟とのかかわり方の誤りによって、まったく当たり前のことだが裏切られた。政治的誤りは、厳密な政治的論争の展開以外に正すことが出来ないという、当たり前の結論を、私は、日本支部の実質的な崩壊状況から痛いほど教えられている。
しかし、とにかくわれわれは、「われわれは、われわれの方針でやる」ということでずっとやってきた。これがわれわれの「分派闘争」だった。
1.「大衆は敗北していない」か?
わが同盟が、五回大会で定式化した「全人民の急進化」という情勢のとらえ方は、形を変えながら、少なくとも八〇年前後までは、わが同盟の状況認識の根幹にあったと言える。それは、社共・総評指導部と自民党・国家権力の関係、社共・総評指導部と大衆の関係、また、それらと革命派の主体的な闘いの位置関係などをめぐって、何度か修正されながらも、根底にある、「権力をめぐる闘いの接近」というみかたは一貫していた。われわれは、当時、社会主義革命が接近しつつあると確信していたのだ。(実際には、七〇年代なかば、革新自治体の破産とスト権利ストの敗北などを通して歴史的サイクルを閉じたと思われる日本労働者階級の一時期の闘いについて、われわれは厳密な総括を行わなければならない)
しかし、七〇年代のはじめには、大衆の攻勢が既成指導部を乗り越えるという側面が強調されたのに比べて、七〇年代の後半には、既成指導部が大衆を統制するという側面の方が強調されるようになり、一時期、よく「指導部は敗北したが、大衆は敗北していない」という言い方がされた。そして、既成指導部の統制を突破する「革命派の主体的な闘い」が強調されて、三里塚闘争の意義がそこで語られたのである。しかし、そうは言えないのではないか。「大衆は敗北していないのか?」という問題意識がしだいに生まれてきた。
すでに、「五五・一〇ダイヤ改悪阻止」のパンフレットを作ったさい(八〇/七)、われわれは、「どうせ闘ってもだめとあきらめていいのか」という項目を作らねばならなかった。「指導部は敗北しているが大衆は敗北していない」とするならば、四三万人いた当時の国鉄労働者を三五万人にまで削減しようとする大合理化に対して、企業主義におちいった本部が闘争を放棄することは当然であっても、われわれが、合理化絶対反対の全国闘争と政府との対決という正しい方針を提起すれば、大衆は立ち上がるはずである。しかし、現実は、われわれが依拠すべき職場から反合闘争が風化し、一からそれを再構築しなければならない状況であった。われわれは、パンフレットで「ダイヤ改悪阻止の全国実力闘争!敵の本陣=政府・運輸省を包囲する対政府デモを!」と主張していたけれども、実際には、当時、すで、にそれを実現することのできる根拠が生産点からもなくなっていたと言ってよい。
世論調査は、社共の支持率の低下と「支持政党なし」層の拡大、「支持政党なし」が第一党に、と報じていたが、同盟内では、こうした傾向さえ「既成指導部からの離反、拡散という状況は革命派が直接大衆を獲得できる条件を拡大している」というような強引な意味付与さえ行われる状況だった。しかし、「支配的イデオロギーは支配階級のイデオロギーである」という引用をするまでもなく、既成指導部からの離反が、より左翼からの意識的な働きかけによるものでない以上、支持政党なし層の拡大は、階級としての意識の希薄化の結果というよりなかった。指導部とともに大衆もまた敗北しているのだ、という結論にわれわれはいたった。そして、われわれが、新左翼的「主観主義者」でない以上、大衆が敗北しつつあるとき、われわれもまた、大衆とともに敗北するのは必然である。
われわれに問われているのは「階級闘争の後退局面を、大衆と共にいかに闘うのか」という事であり、この後退戦の中から「次の前進のために、いかなる組織的陣地と、政治的財産をつくり上げるのか」ということではないのか。われわれは、こうした観点から、八二年から本格化する右翼労戦再編反対の闘いと、国鉄分割・民営化反対の闘いを、この間精一杯闘ってきたのである。
2.十二回大会--急進主義的展望からの転換
「全人民の急進化」「社会主義革命の接近」というわれわれの展望の根幹が間違っていたのだから、われわれの敗北は、あらかじめ、定められていたと言える。しかし、これは何もわが同盟にかぎったことではない。七〇年代のはじめに、日本共産党が「七〇年代の遅くない時期に民主連合政府を樹立する」という展望を持ち、中核派が「内乱的死闘の七〇年代」と言い、わが同盟が「全人民の急進化」と言った時、これらは、すべて同じものを指していたのであり、そして、同じように、それらの展望は現実によって破産したのである。そういう意味では、わが同盟の急進主義的な情勢認識の敗北は、産別会議から総評労働運動へと引き継がれてきた、戦後日本労働運動の歴史的敗北の一部をなしており、それは、戦後マルクス主義の理論的敗北の一部でもある。〔②〕
ところで、「権力をめぐる闘いの接近」という同盟の急進主義的情勢展望は、八四年九月に開かれた同盟一二回大会を前にして提起された「労働者階級の敗北」という考え方によって最終的に放棄された。「階級の敗北」という表現は、一二回大会を前にした論争を通じて「戦後改良主義労働運動の敗北」と改められたが、とにかく、情勢は階級と階級の激突に向かっているという直線的な情勢認識は、一二回大会で放棄されたのである。
総評労働運動が体現していた(政党まで含めて考えれば社会党-総評ブロックが体現し、共産党をその内部の反対派としてもった)日本労働者階級の一時代の闘いが、今日、総評の解体と連合への合流によって(新宣言にもとずく、社会党の帝国主義社民としての完成と野党再編の動きと対になって)歴史的に敗北したことはまぎれもない事実である。この事を、様々な理由をつけて認めないとか、言い訳することはよしたほうがいい。改良主義労働者運動として存在してきた日本労働者階級の一時代の闘いが敗北したのであり、「階級の敗北」という考え方に変えて(対立させて)、「戦後改良主義労働運動の敗北」という考え方を提起した一二回大会の立場は中間的である。わたしには、「階級の敗北」いう立場に立った上で、日本労働者階級のこの一時代の闘いを、徹底して現実に即して捉えなおすことこそが必要であると思われる。われわれもまたその一部であった、この一時代の日本労働者階級の闘いの現実の姿を、現在の時点から振り返って明らかにする作業を土台にしてこそ、はじめてわが同盟は、破産した急進主義的展望にかわる、社会主義革命にむけた新しい展望を持つ可能性を与えられる。そして、私には同盟はこのことにまったく成功していないと思われる。つまり、同盟は現在、社会主義革命にむかう現実的な展望を持っていないと思うのだ。
3.同盟の敗北における主体的側面
しかし、私は、もしも同盟の敗北を、こうした労働者階級の歴史的敗北という現実から自動的に導かれるものとしてのみ、つまり、客観的必然性の立場からのみ、説明しようという傾向があるとすれば、それは絶対に不十分であると思う。それは、階級闘争の敗北の過程を、階級と共に歩まなかったという、同盟の組織的な有り方に関する問題を捨象してしまうからだ。
階級闘争の敗北の過程を主観的意識性によって逆転することが出来ないとすれば、われわれに出来る事は、この過程を労働者階級とともに闘い、ともに経験する事を通して、その過程を意識化し、理論化することで、労働者階級の中に、「次の時代」に向けた闘いの主体的根拠をつくりあげることであろう。まさに、この間の国鉄分割・民営化反対!国労防衛の闘いは、階級闘争総体の敗北の過程の中で、労働者階級の闘いの武器としての労働組合を防衛することを通して、「次の時代」に向かう労働者階級の拠点を作り上げようとする闘いであったし、こうした国鉄闘争を中心としながら、総評にかわる、新しい闘うナショナルセンターを建設しようとする闘いが、さまざまな政治的勢力の共同した苦闘として闘われているのである。この闘いは基本的に、七〇年代の末までに様々な場所で、様々な政治的勢力によって作られてきた拠点的労働組合を防衛する闘いを通して展開されている。それは、大雑把に言えば、労研センターに結集している社会党左派系組合、独立左派組合、幾つかの地県評に、統一労組懇の共産党系組合が担っていると言える。
だが、東北を除けばほとんどの地方で七〇年代末までにつくった主体的力量を、ほぼ解体しているわが同盟は、この闘いに力をもって参加することが出来ないでいる。こうした、わが同盟の、総評各産別を中心とした現場組織の総崩壊と言える事態は、階級闘争の敗北の過程から《自動的に》導き出される《必然》ではない。私には、先に書いたように、九回大会以降の、①情勢認識における主体主義、②党建設における客観主義、という路線的な誤りを直接の根拠として、わが同盟は八〇年代において労働組合運動における拠点の防衛に失敗し、階級との関係を切断してきたのだと思える。その結果、総評労働運動の敗北の中から、労働者階級の新たな闘うナショナルセンターを建設するという現在の闘いと、わが同盟はますます無縁な存在になっているのだと思える。
一体、わが同盟の敗北が必然であったとしても、総評各産別を中心にした現場組織の総崩壊と言える事態は「必然」であったのか? その事にふれた議論はあまりにも少ないのではないか。
そして、組織内部での強姦事件の発生、その後、結局、解明されなかったが、政治局内での「金銭疑惑」の発生と混乱、八〇年代の同盟の有り方をしめす、この二つの問題を解決することが出来ず、同盟の解体状況へ到っているという現実は、階級に責任を持とうとしない、典型的な「小ブルジョア急進主義」組織の破産を示しているのではないか。
労働者階級の敗北の過程を理論的に解明する作業は、同時に、同盟の解体的状況にいたる中で、何が避けられず、何が避けられたのか、つまり、同盟の敗北のうちの客観的な必然性に属する部分と主体的な部分を、厳密に検証することと同時になされねばならない。しかし、現実には、労働組合内部での組織の、総崩壊という問題のうちの主体的な側面はほうかむりされているのではないか。現在、同盟に存在する主要な分派はいずれも「階級の敗北」という考え方をとることを拒否しているが、多数派であるレーニン主義派の中からは「日本労働者階級は、大英帝国下のプロレタリアートが、かつて置かれたような位置にあるのでは」というような声も聞こえる。だが、同盟の方針上の誤りによる労働組合運動における拠点の崩壊という主体的問題と、総評労働運動の敗北という客観的困難を区別せずにこうした絶望の声を上げることは、主体性を重んずるはずの「レーニン主義派」のみごとな客観主義的無責任性を示していると、私には思える。
労働者階級の敗北とは無縁な「小ブルジョア急進主義」組織の敗北としての同盟の敗北。敗北は必然であったにしろ、同盟は「敗北のしかたに敗北した」のであって、これは、ほとんど致命傷だと思える。
② 一六頁 こうした考え方を、私は織田同志から学んだ。 織田同志は、討論ブレチン一五一号の「われわれの現在の段階」という文章の、(3)「階級の敗北」について、の章で戦後階級闘争の総括にふれ、
「戦後プロレタリア運動は、幽霊をおいかけたわけではなかったし、それ自身幽霊でもなかった」
「われわれの今日までの闘いは、この戦後プロレタリア運動の有する一定の可能性を、身をもって探る闘いであった」
「戦後プロレタリア運動が、いかなる現実的構造であり、この意味でいかなる可能性を有し、またそれを実現したか、またさらにそれが、いかなる限界を内包し、露呈し、そして敗れ去っていったかを明らかにすることは、歴史的唯物論の役割ではなかろうか」
「今日、歴史的な敗北を喫した日本プロレタリアートとともに、われわれは、新しい時代にはいっていかなければならない。敗北したからといって、ふたたび勝利をめざす権利を失ったわけではない。だが、新しい方法を模索することなしには、新しい闘いを階級として再開することはできない。綱領のための闘争が、いま、真に階級の課題となっているのである」
などと書いているが、まさにその通りであろう。
1.清水氏の「ゼネラルユニオン」と同盟の組織方針
九回大会以降の同盟の労働運動方針は、基本的には九回大会の枠組みの中にあったと言えるが、独立組合の組織方針にだけはふれておきたい。
八一年に清水慎三氏によって提唱された「ゼネラルユニオン」は、総評労働運動の敗北、右翼的労戦統一は避けがたいという認識の上で、「日本資本主義の最強の砦」であるところの「企業社会」と、それを基盤にした独占企業下の企業別組合の主導する右翼的潮流が包摂できない大企業内の少数派と中小未組織労働者層に基盤をおいて構想されていたが、後に整理されて提起されるように、それは、資本主義内部の労働者階級の「対抗社会」として位置づけられるものであった。つまり、それは当面、資本家階級の支配と労働運動における右翼的潮流の主導権を前提とした上で、企業社会の競争万能の理念が包摂することの出来ない領域に左翼の根拠地をつくり上げようとするものであった。そして、清水氏は、「ゼネラルユニオン」の形成にあたって、大企業下の総評系第一組合、JCに反対してきたいくつかの中小単産、地・県評組織などを糾合することを構想した。
これに対して、清水氏の「ゼネラルユニオン」の提起を支持したわが同盟の、労働組合組織方針はどうだったのか。
八〇年代のはじめ、労働組合組織方針についての同盟内の平均的意識は、
「(危機の時代における労働組合は)労働者を従属させ規律の枠におしこみ、革命を妨害するための帝国主義的資本主義の補助手段として役割を果たすか、あるいはその反対にプロレタリアートの革命運動の手段になるか、このいずれかしかない」
という、トロツキーの文章を引きながら、右翼的潮流との分裂の不可避性を確認し、革命の機関としての労働組合をつくりあげようとするものだったろう。そして、「危機の深化とともに」「ますます資本主義の支柱に転化する」右翼的潮流との党派闘争を通した革命的労働組合の建設の教訓として、初期プロフィンテルンの経験が語られた。これは、清水氏が、当面の資本主義の支配と右翼的潮流の支配権を前提とした上で、「ゼネラルユニオン」を構想したことに対して、「ゼネラルユニオン」の組織方針は支持しつつ、それを社会主義革命にむかう展望の中に位置づけなおしたものと言える。
しかし、今考えると、社会主義革命にむかう展望の中に「ゼネラルユニオン」を位置づけようとした同盟の試みは、当時から非常にあいまいな性格を持っていたと言える。
2.プロフィンテルンの教訓
スターリン主義者に主導権がわたる前のコミンテルンの最初の四回の大会に対応する初期プロフィンテルンの闘いの経過は、藤原同志が、柘植書房の発行した「プロフィンテルン行動綱領」の後書きで詳しく解説している。それによれば、プロフィンテルンは、コミンテルンの三~四回大会の時期、コミンテルンの統一戦線戦術、「まず大衆の獲得を通じて権力を」の時期に対応して、労働組合の闘いを資本主義の枠の中に閉じ込めようとする黄色インターナショナルに対抗して、労働組合を社会主義にむけた闘いの機関として獲得する為に闘ったのであるが、その場合、労働者階級の統一を擁護するのはプロフィンテルンの基本的立場であり、労働組合を分裂させるのは「労働組合を労働貴族の組織として維持することにつとめる」黄色インターナショナルの側であるということを、闘いの中で大衆に暴露していくことが、重要な問題として指摘されている。
つまり、労働組合の闘いを資本主義の枠内に閉じ込め、労働組合を労働貴族の組織として維持しようとする改良主義者こそが労働組合を分裂させるのであり、労働者階級の根本的な利害を代表する共産主義者にとっては、「所与の組織の大衆が多ければ多いほど…可能性が大きい」のであり、共産主義者こそが階級を統一することができる事を闘いの中で示すことに大きな戦術上の配慮がなされたのである。だから、改良主義的労働組合内での共産主義者はまず
「労働組合…内の少数派がどの程度のものであれ、共産主義者は、この少数派が当該の組織にとどまって、少数派の綱領と戦術の実現のためにたたかうよう、これにはたらきかけなければならない…」
とされ、
「われわれは、全国的労働組合連合体…にとどまるし、われわれが多数者を赤色労働組合インターナショナルの原則に獲得したときにはじめて、プロフィンテルンに組織的に加盟する」 として、大衆的労働組合を内部から変革するために闘うことが、まず第一の原則とされたのである。しかし、社会主義革命にむかう闘いの中では、あらゆる労働組合は
「…自己目的ではなく、目的への手段である。それゆえ、分裂にせよ、統一にせよ、絶対的なものではない」
「…組合の分裂を避けることが、組合内での革命的仕事を放棄し、組合を革命的闘争の道具たらしめ、プロレタリアートの最も搾取されている層を組織するという企てを放棄することになるような場合には、共産主義者は組合の分裂をためらうべきではない」
が、その場合でも
「(闘いを通して)大衆がまだ理解していないようなはるか先の革命的目的のためにではなくて、彼らの経済闘争における労働者階級の最も直接かつ実際上のりかきのために分裂が必要であることを、広範な大衆に納得させえた時にのみ…分裂が実行されるべき」
「分裂のために労働者大衆からの共産主義者の孤立をもたらすおそれがないかどうかたえず、注意深く検討せねばならない」
とされたのである。また、改良主義的組合からの共産主義者の除名に反対する闘いにおいても、除名者を特別の「被処分者組合」に組織しなければならないが、「被処分者組合」の中心的任務は、労働組合への再加入要求の闘いであり、
「どんな場合にも、被処分者に同情する反対派分子を古い組合から脱退させてはならない」
とされた。この文章にはじめて接した時、私は
「あれっ」
と思った。当時、全電通から分裂した電通労組の核となったものは福島での再登録拒否者と宮城での被処分者であったが、電通労組は、自らを被処分者組合とは位置づけず、全電通内からの脱退を組織しつつあったし、全電通への再加入のスローガンを掲げることなく、独自の闘い展開していた。それは、その後の鉄産労の結成にさいしても同様であった。その時は深く考えず、「状況が違うからかな」くらいに考えてきたが、ここの所はよく考える必要がありそうだ。
3.情勢の違い--理論と実践の乖離した背景
こうした労働組合の分裂と統一をめぐるプロフィンテルンの闘いを、当時の情勢との関係で考えねばならない。コミンテルンの三~四回大会の当時(一九二一~二二)、ヨーロッパ各国は、一九一七年のロシア革命直後の各国での労働者階級の一連の蜂起が、革命的指導部の未成熟という主体的条件を主要な原因にして敗北するという中で、資本家階級の支配が相対的に安定するという状況にあった。また、労働者階級内部の情勢でも、改良主義者の影響力が強化されていた。こうした中で、コミンテルンは、ヨーロッパ革命の急速な勝利という一~二回大会の展望をあらため、統一戦線戦術の行使を柱とした「まず大衆の獲得を、それを通じた権力を」とする路線に転換していた。しかし、資本家の支配の長期的な安定は問題にならず、トロツキーの起草したコミンテルン第三回大会の「世界情勢と任務」に関するテーゼは、ヨーロッパの資本主義的安定のためには、プロレタリアートが、第一次大戦前よりもはるかに過酷で残忍な労働条件を受け入れることが不可欠であるが、プロレタリアートはそれを拒否しているとして、
「…プロレタリアートが革命的闘争を放棄すれば他方(ブルジョアジー)は新しい資本主義的均衡、すなわち、新しい恐慌と新しい戦争と、すべての諸国の貧窮化と数百万労働者の死とによる物質的および道義的衰退の均衡を達成することは疑いあるまい。だが国際プロレタリアートの心理状態は、このような予断となるような根拠を絶対に提供していない…」
と、情勢が基本的に革命的であると述べている。
既成の労働組合内の活動を通じて、労働組合のプロフィンテルン加盟をめざす闘い、改良主義者の分裂策動に対する労働組合の統一のための闘い、そして、改良主義的労働組合からの除名に対する「被処分者組合」の結成と労働組合への再加入をめざす闘い、こうしたすべての闘いを条件づけていたものは、一時的な資本主義の立ちなおりにもかかわらず、労働者階級の最低限の生存条件を確保するための闘いすら、許容することのできないという、当時のヨーロッパ資本主義の置かれていた根本的な条件であった。こうした情勢にあって、プロフィンテルンのとった戦術は、改良主義者の影響力が強まったとはいえ、それはきわめて一時的事態にほかならず、分裂や除名による共産主義者の排除に対して、共産主義者が統一戦線戦術を有効に行使するならば、改良主義者の支配から労働組合の指導権を奪取することはきわめてさしせまった現実的課題でるという情勢分析を基礎としていたのである。大衆的労働組合を革命の機関に転化するという任務は、きわめて現実的任務であった。一時の迂回戦術の行使を余儀なくされたとはいえ、ここにあっては攻勢は共産主義者の側であって、改良主義者と資本家の側が守勢に立っていた。
しかし、こうしたプロフィンテルンの経験から「学んだ」はずのわが同盟の労働組合政策はどうであったのか。右翼的労戦統一の動きは帝国主義の危機から説明された。そして、左翼的部分を排除する動向も、危機の中で「改良主義的ですらあることができなくなっている」労働組合の置かれた状況から説明された。改良と革命の分裂の時代に、革命に向かう労働組合をつくるのだとされた。こうした立場から、われわれの少数分裂を説明するとすれば、論理的には当然、改良主義的労働組合との再統一のスローガンが提起されねばならなかったし、改良主義的組合からの脱退の組織化ではなく、改良主義的組合内部での除名撤回の闘いが提起されるべきだったろう。なぜなら、「資本主義がもはや持続的な改良の余地をますます失い、労働者階級の生活条件を切り下げつつある」危機の情勢にあっては、統一戦線戦術を通して、労働者階級の多数を革命の展望に獲得する闘いが、さしせまった現実的課題であることをプロフィンテルンの闘いは教えているからである。われわれがそれをしなかったのは、理論的な結論にもとづいてではなく、「理論的にはともかく、現実には」全電通官僚、動労革マルの支配を急速に瓦解させる条件がないこと、当面、改良主義者の主導権は承認した上で、その支配の外側にわれわれの組合運動を維持していくことに全力を上げねばならなかったからではないのか。
4.「長船の切り択いた地平での出発」とは?
当時、
「電通労組は…長船をはじめとする分裂独立組合の切り択いた地平において出発せざるをえなかった」
ということが言われた。それは、どういう事だったのか。
長船労組などの分裂少数組合は、六〇年代以降、民間において、資本によるQC運動の展開と、JC派による組合の主導権の獲得に抗して、階級的労働運動を展開してきた。その闘いは、清水慎三氏のいうところの「日本資本主義の最強の砦」であるところの「企業社会」の中で労働者階級の階級としての立場と普遍的な利害を防衛しようとする闘いであったし、彼らが、短期間にJC派の多数派組合にとってかわる展望ではなく、いわば、少数分裂組合運動の長期的展開の展望のもとで闘ってきたことは当然であった。なぜなら、この数十年間にわたる日本資本主義の成長を担ってきた心臓部にあって、共産主義者が短期間のうちに労働組合の指導権をにぎる展望は客観的になかったからである。電通労組と鉄産労という二つの分裂組合を結成するにあたって、われわれは、六〇年代~七〇年代にいたる資本主義の安定的成長期は終わり、資本主義の危機が深化しているという情勢認識にもとずいて、少数分裂組合の固定化の方針ではなく、「労働組合の多数における改良主義労働官僚の打倒、つまり、労働組合の多数を労農政府のための闘いに獲得、組織化していく」闘いへの一里塚として、一応、理論的には位置づけたのであるが、実際の組合結成のための闘いは、労働組合として生きのびることに、まず、当面全力を集中するというふうに、理論的位置づけとは乖離した闘いにならざるを得なかった。〔③〕
電通労組、鉄産労の結成は、「資本主義の危機の深化」「権力をめぐる闘いの接近」という、わが同盟の急進主義的展望の最後の時期に闘われたのだが、この展望自身が誤りであった。六〇年代から七〇年代にかけて、QCなど自主管理運動の展開を軸に、職場を労働組合運動の拠点から、資本の拠点にすることに成功し、JC派労働官僚との労資協調体制をつくることに成功した日本の独占資本は、七〇年代から八〇年代にかけて、行政改革の名によって、公的部門での合理化と競争原理の導入、労働組合の解体などの戦略的攻撃をかけてきた。その背景には、日本資本主義の国際化や、レーガン・サッチャー・中曽根に代表される、国際的な新自由主義路線の登場などがあり、それはそれでしっかり分析せねばならないが、大雑把に言えば、六〇年代に民間大企業の制圧に成功した独占資本が、公的部門からも労働組合運動を放逐し、公的部門の職場をも独占資本の制圧下に置こうとする攻撃に対抗するものとして、電通労組と鉄産労の結成はあったのである。つまり、その闘いは文字通り、長船をはじめとする分裂独立組合の闘いを公的部門で引き継ぐ闘いであり、「それ以外の闘いかたがあったけれどもそう出来なかった」のではなく、それ以外の闘いかたはなかったものとして、現在の時点では総括する必要があると思う。
そう考えるならば、「ゼネラルユニオン」をめぐる問題について、清水慎三氏の「対抗社会」論にもとづく提起と、わが同盟のプロフィンテルンの経験をもとにした提起をくらべると、清水氏の提起のほうがまったく現実的なものであったことは歴然としていると思える。
5.急進主義的展望の廃棄--組織路線はどうなったか?
ところで、同盟一二回大会は「階級の敗北」という考え方を提起して、それ以前の、急進主義的情勢展望は廃棄される訳だが、これ以降の、同盟の労働組合組織方針はどう変化したのか。階級的な労働組合運動の客観的基盤はどこに、どれほど存在しているのか?いないのか? 明らかにした文章を知らないので、感覚的に述べる。
プロフィンテルンの経験に依拠して、強制された少数分裂を説明していた頃、わが同盟の獲得すべき対象は理論的には既成の労働組合の多数であったが、現実的には、多数派に転化する具体的な道筋が見えない中で、少数分裂を目的化する傾向が当時から同盟内に存在していたと思う。一二回大会の立場は、当面、階級的労働組合運動が日本労働運動の主流になる可能性を排除したが、その事は、同盟の一定の部分に一層、少数分裂を自己目的化する傾向を強めたのではないか。
私は、先に書いたように、わが同盟は九回大会での①情勢認識における主体主義、②党建設における客観主義、という路線的誤りを直接の原因として、八〇年代に労働組合運動における拠点の防衛に失敗し、階級との関係を切断してきたと考えるがその過程を深刻に反省することなく、極少数の分裂少数組合・独立組合の結成を自己目的化していくとすれば、ますます同盟と階級の接点は失われていくばかりだと思うのだ。
プロフィンテルンは、労働組合の組織問題に対する共産主義者の慎重な姿勢を強調した。プロフィンテルンは、分裂が不可避である場合でも、先ほど引用したように、「(闘いを通して)大衆が分裂の必要を理解した時にのみ」と、分裂にいたるまでの共産主義者の組合内での闘いの重要性を指摘し「分裂にあたって共産主義者の孤立をもたらすおそれを、たえず注意ぶかく検討」しろとしている。既成の労働組合内部での闘いの蓄積と大衆との結びつきの一定の形成、そして、労働組合総体を闘いの機関として防衛するためにぎりぎりまでの努力という、共産主義者の主体的努力の一定の蓄積なしに組織分裂は問題にならないことを知らねばならない。
また、地域でつくった幾つかの独立組合を、いきなり「ゼネラルユニオン」として形成するというふうな主観主義的組織方針も問題にならない。清水氏が提起した「ゼネラルユニオン」は少なくとも全国性をもった組織実態なしにはつくれないことは明らかであり、その組合の置かれている組織的実態という客観的なあり方が、その政治性を規定するのであり、客観的な組織実態を無視した政治的意義づけがされるとすれば、それは労働組合の政治的引き回し、セクト主義的組合運営に直結する。
われわれは現在、総評の企業別組合と中産別という組織的あり方にかわる、企業の枠を越えた大衆的労働組合の可能性について真剣に考えねばならないところに来ている。当初の理論的枠組みでは、清水慎三氏が、当面は、連合派の主導権を前提とした、相対的には少数派による運動体として「ゼネラルユニオン」を構想したのに対して、われわれは、階級の多数派を獲得する展望を対置したはずであった。しかし、それが、いつの間にか、極小数の独立組合を自己目的化するようになっているとすれば、それは、理論的頽廃である。総評解体以降、大衆的労働組合の基盤はあるのか、ないのか? あるとするならば、いかなる組織路線をとり、いかなる基盤の上に建設するのか? 理論上の整理が必要であろう。
③ 二三頁 討論ブレチン八三号(八一・五)は、同盟一〇回大会にむけた文書の一部として「電通労組の結成とそれをめぐる総括と課題」という文章を掲載している。その2)の項では
「全世界労農革命と結合・合流する日本労農政府のためのプロレタリア階級闘争が、現在、一九八〇年代における直接的な実践的課題として提起されている」
「労働組合の多数を、労農政府のための闘いへ獲得、組織化してゆく…コミンテルン、初期プロフィンテルンの立場」
というのが同盟の立場であるが、電通労組結成に至る過程で、われわれがつくる労働組合運動の政治的性格とその展望を明確にしえず
「電通労組は、極端に言うなら、長船をはじめとする分裂独立組合の切り択いた地平において出発せざるを得なかった」
としている。ようするに、理論的には、少数分裂を自己目的化せず、労働組合の多数を獲得するための戦術として位置づけたプロフィンテルンの立場に立つが、少数分裂から多数派の獲得へむけた具体的道筋を明らかに出来なかったということである。そして、「被処分者組合」ではなく「独立組合」としたことの政治的理由を述べている1)の項が説得力がないのに比べ、電通労組結成にいたる職場活動の大変な困難に率直にふれたうえで、「統一と復帰」をめぐるスローガンにふれた3)の項は大変によくわかる。プロフィンテルンにあっては、労働官僚の分裂主義をあばき、官僚から労働組合の主導権を奪いとるための闘いにあって重要な戦術上のスローガンであった「被処分者の無条件復帰」のスローガンを電通労組は掲げなかった。そのことにふれて、文章は以下のように述べている。 「…組合員獲得オルグと平行していたが故に、『統一と復帰』のスローガンは、逆に獲得した組合員をして復帰の日までの労働組合ということにつながりかねない要素を…持っていた。このことは結成後予想される公社・官僚による弾圧と真正面から闘いきれない…危険性…。労金・共済等の問題が依然として目途が立たないという中での組合員オルグを想像してもらえば、事態は理解できるだろう」
「…『統一と復帰』をめぐる問題は、公社と官僚との間におけるヨミ、力関係の評価に深くかかわっている。われわれは公社・官僚との関係は厳しいという評価・分析の上に一切を組みたてようとした。したがって、結成以降の闘いは労働組合として打ち固め、『しのぐ』『生きのびる』というところに重点をおき、『労金・共済』問題、公労委の認定、交渉権問題に第一段階の展望をすえた」
1.分派闘争の現状--フランス支部の経験との落差
八五年末から八六年にかけて、わが同盟の内部に、主要にレーニン主義派とプロレタリア派という二つの分派が生まれた。しかし、分派闘争へといたる同盟内の対立の進展は私にははっきりしなかった。政治局員であったIをめぐる金銭上の「疑惑」が発生しIが脱盟したこと、その際、Iをめぐる問題の解明をめぐって対立が生じたことは伝わっていたが、分派の結成に行きつくような政治的な対立があるという報告は事前には受けておらず、分派の発生は唐突な感じがした。そして、分派間で何が対立しているのか? まさかIの脱盟にいたる問題をどう評価するかが、対立のすべてではあるまいと思えた。もっとも、政治的対立は、組織上の具体的方針の違いをめぐって激しく現れるのが常だとすれば、労働情報へのI派遣の是非その他の具体的な組織上の措置をめぐって対立が顕在化しているのはわからないでもなかった。しかし、分派を結成して組織内論争を行うのならば、少なくとも対立を政治的に表現し、政治的立場にかかわる違いとして論争しなければ生産的な論争にはならない。しかし、両分派が結成されてから現在まで、両派は政治的な立場の違いを鮮明にし、すべての同盟員をみずからの分派綱領のもとに獲得するために闘うという、あるべき分派闘争を充分になしえてはいない。
トロツキストは、スターリニストの一枚岩主義の党組織論を批判し、党内において指導部と異なる意見を発表する権利、見解を同じくする者によって分派を結成する権利を認めるとともに、こうした党内民主主義の保証こそ、官僚的な指導部無謬論にもとづく党組織では成しえない、本当に団結して闘う党を作り上げる条件であるという立場をとってきたし、そうした立場において、インターナショナル内部や各国支部内部での異なる意見を処理してきた。たとえば、「第四インターナショナル」誌二四号(七七.四)には、当時、フランス支部で、ミッテランを大統領候補とする左翼連合に対して、どういう立場を取るのかを主要な論点にしながらA、B、C、Dの四つの分派が結成され、革命的共産主義者同盟(第四インターナショナルフランス支部)の全国大会で五〇〇人の代議員が論争しながら、方針と指導部を決定していくありさまが掲載されている。各分派は、大会を前に、それぞれの主張を平等に機関紙に掲載し、党内だけでなく、支持者を含んだ大衆的討論を通じて、それぞれの主張はテストされて大会にのぞむ。そして、大会では、討論の後、それぞれの決議案の採決を通じて方針が決定されるが、公表された各分派の方針に何パーセントの支持があったのかは、機関紙に掲載されている。そして、大会の中で作られた指導部にはすべての分派のメンバーが加わっているのである。
フランス支部のその後の経験は、一度できた分派状況が固定する傾向を示し、「分派闘争の目的はそれを終えることであるにもかかわらず、分派状況を終わらせることは非常にむつかしい」ことを示した(世界革命紙九九〇号 八七.四.二七 ピエール・ルッセ同志の報告)。しかし、わが日本支部における分派闘争は、まったくこのような水準にまで、今にいたるも到達していない。それは、対立の直接の原因となった組織上の措置をめぐる問題の背景をなす、対立の政治的原因を明らかにすることが出来ていないということを示している。組織建設、大衆運動、そして、綱領をめぐる問題のいずれにおいても、問題を政治的な対立として明らかにすることなしには、分派闘争は公然と行いようがない。その結果、私のような末端の同盟員や、共青同の同志、そして、支持者にとっては分派闘争の意味が伝わらず、「何が何だか分からない」状況が生じる。分派闘争が、新しい次元での同盟の団結をつくりだす力にならず、共青同の同志や支持者が幻滅し、同盟の力が分散し解体していく力となるのである。
政治的な対立点がなかなか明確にならない中で、私は直観的に、この分派闘争の発生は「わが同盟における理念と現実の即自的な分裂である」と思った。
先に書いたように、私は同盟は第九回大会での方針上の誤りを直接の原因としながら、それ以降、労働組合内での拠点の防衛に失敗し、階級との関係を切断してきたと考えているが、それ以降、方針上の誤りは第九回大会の引いたレールの方向で強まり、ついには、現実の階級闘争の現場からの召還にとどまらず、同盟において現場・現実を代表する宮城を中心とした労働者拠点と、同盟における理念を代表する中央機関との分裂にまで到ったのだと思えたのである。
2.八六年年頭論文の非現実的で観念的な組織方針
同盟一二回大会を前にした、「労働者階級の敗北」という提起と、一二回大会の議論を通じて、同盟の七〇~八〇年代にいたる急進主義的情勢把握は放棄されたが、その事は、その後レーニン主義派に参加することになる、わが同盟中央機関の多数派にとっては、一層、現実の階級闘争から身を遠ざける方向に作用した。
八六年一月一日付の世界革命紙(九二一・二合併号)は、巻頭に「『55年体制』左派的限界克服し革命的潮流形成へ」とする無署名論文を掲載したが、この文章は一二回大会をへて、わが同盟機関の多数派がどこへ向かったかをよく示している。
論文は、「革命的潮流の形成にむけた闘い」と「階級的労働組合の全国結集を」という最後の二つの章で、総評解体に抗する労働組合結集のために、その政治的性格を提起しているが、それによれば
「…帝国主義国家と資本主義体制の改良ではなく、その打倒をめざす政治的立場、国家と資本から独立し、プロレタリア革命の武器として労働組合を位置づけ組織する立場、国際主義を貫き、全世界とアジアの労農人民との国際的反帝国主義的同盟を形成する立場、一切の差別を許さず自らの隊列に存在する差別主義を払拭し、ブルジョア・イデオロギーと闘い、労働者階級の階級的団結をめざす立場、そして、精神的にではなく実践的に国家と対決する階級的政治闘争を、その最先端で担い抜こうとする立場、労働組合主義とテロリズムから訣別し、労働者民主主義の方法を貫いたプロレタリア権力闘争の主体たろうとする立場、このような立場の実践的形成と検証の中で、階級的労働組合運動の全国的結集を追求していかねばならない。この政治的立場は、一言で言えば革命的祖国敗北主義の貫徹である」
とされている。このような立場を、現在の情勢において労働組合結集の基準にすることは、極度のセクト主義以外の何物でもない。この立場は、総評労働運動の敗北の過程の中で、連合に合流しつつある多数派に抗して、闘い続けようとする積極的要素登場しつつあるという、連合と左派との分化の現実を一切見ようとしていない。当時、労研センターの活動を通して、社会党左派と労働情報派の関係は七〇年代にくらべて格段に良くなっていたし、総評の解体を見通して、地域ユニオンを形成しようとする動きも各地で拡大していた。また、指導部が共産党から分裂した運輸一般関西生コン支部は、全日建運輸連帯労組関生支部として、一年間に一〇〇〇人の組織拡大を果たしながら、労働情報運動に参加してきた。そして、われわれは当時の国労旧主流派指導部が、社会党の全国一社の民営化案支持を決定し、分割・民営化攻撃に対してずるずると後退しつつあること、協会派と革同派がこれに対して明確な反撃の方針をもって対抗しようとしないことを批判して、あくまでも分割・民営化反対をつらぬき、分会・支部段階から地域と一体となった自主的な闘いをつくることを訴えていたが、この闘いはもちろん、国労を直接「プロレタリア革命の機関」にせよ、という闘いではなかった。
世界革命紙が提起した「プロレタリア革命の武器であることを自覚し、革命的祖国敗北主義の立場にたった」労働組合の結集という組織方針は、もしもその通り、強引に実践されたとしても、こうした現実の左派結集にむけた苦闘とはまったく別の所で、極々少数の第四インターナショナルを支持する労働組合の結集としてしかあり得ない、まったく非現実的なものであった。なぜ、このような非現実的で観念的な「組織方針」が生まれたのか。
3.一二回大会の政治路線
同盟一二回大会は、同盟組織の政治的組織的崩壊ともいえる状況に行き着いた同盟の七〇年代のあり方を「大衆運動主義的」であったと総括した。「労働者階級の自然発生的戦闘性にたいする拝詭をはらんだ大衆運動主義的全国組織の政治水準を越えることはできなかった。ひとことでいえば、大衆運動の発展に依拠し党建設を推し進めようとしてきた」(同盟建設に関する決議 第四インターナショナル誌 四九号五〇頁)として、大衆運動主義から「レーニン主義的党建設」という立場への路線転換を決め、こうした路線転換が不可避であるという情勢認識が以下のように説明された。
「…全民労協の成立、それは総評労働組合運動の延長上における自然発生性が完全に無力化されてしまったことをわれわれにあきらかにするものであった。まさにそれは戦後の改良主義労働者運動の敗北に他ならない。このことは、われわれに、階級の闘いの発展と前進、そして党建設のための闘いが、帝国主義ブルジョア国家に対する革命的祖国敗北主義の立場に貫かれる闘い以外には絶対にありえないという事実を突きつけているのであり…。
帝国主義ブルジョア『祖国』にたいして敗北主義の立場をとるのか、否か・・ここには一切の中間的改良主義が成立する余地はないし、あらゆる政治的中間主義が存在していく基盤はない。今日の政治的分化はここを軸にして進行していくのであり、すべての政治潮流・党派もこの点で綱領的にテストされるのである。…」(同誌五一頁)
わが同盟の七〇年代路線が大衆運動主義的であったことはその通りである。そして、労働者階級の内部にトロツキスト党を建設するための、党建設のための独自の闘いを強めねばならない事にも同意できる。しかし、問題は、社会主義革命の勝利をめざす党を建設する闘いを、労働者階級のいかなる現実的運動の中で進めるのかという、現実の階級闘争の過程と党建設を媒介する環をいかに把握するのかという事である。かりに労働者階級の圧倒的多数が資本家階級との労資一体の構造に組み込まれているならば、労働者階級の内部に、階級闘争派の労働組合運動が大衆的に存在する余地は、いかに、意識的に、主体的に党の立場から組織しようともあり得ないし、大衆的な党を建設する余地もあり得ない。その場合、党は、主要に階級闘争の歴史的経験を防衛し、次の局面まで持ちこたえる圧倒的に少数の「宣伝の党」にとどまらざるを得ないであろう。一方、そうでないとすれば、党建設のための土台となる大衆運動の情況、階級のおかれている情況を明らかにすることが是非とも必要である。この点で、「…戦後の改良主義労働運動の敗北」によって「階級の闘いの発展と前進、そして党建設のための闘いが、帝国主義ブルジョア国家に対する革命的敗北主義の立場に貫かれる闘い以外には絶対にありえない」という情況認識はあまりにも一面的であり、党を建設する闘いを労働者階級の現実的運動を土台として進める可能性を自ら閉ざすものであった。
同盟一二回大会の「同盟建設に関する決議」を貫く情勢認識の問題点は第一に、総評労働運動の敗北の過程を、すでに決着のついた、過去の出来事としてとらえ、総評労働運動の敗北の過程から、連合に与せず、階級闘争の立場を放棄しない「闘う潮流」が大衆的に分岐する可能性を最初から排除していることであった。
現在、連合に対抗して「闘うナショナルセンター」を建設しようとする広範な政治勢力の共同した闘いが成立しているが、この闘いは、連合の「労使一体」のイデオロギーに対して、いわば、「資本家階級と労働者階級の利害の基本的対立」という立場、《階級闘争》の立場に立つということを、闘いに参加している諸政治勢力の共通項として持っていると言える。、われわれの党建設の運動の現在的な基盤は、総評の解体と連合による右翼的労戦統一の進行の中から、《階級闘争》の立場に立つ大衆的な潮流が分化しつつあるというところに置かれねばならない。われわれの党建設は、「闘うナショナルセンター」をめざす現在の闘いを、もっとも断固として献身的に担うとともに、現在進行している共同した闘いの積極的側面と不充分な側面を、社会主義革命の観点から明らかにする闘いとして貫徹されねばならないと思うが、その後レーニン主義派を結成することになるわが同盟の機関多数派には、そもそも階級の先端で苦闘しているこうした人々の存在が視野から欠落していたのである。
第二に、「革命的祖国敗北主義を軸にした政治的分化」という考え方について。周知のように、《革命的祖国敗北主義》は、第一次世界大戦にあたって、帝国主義国の労働者階級が帝国主義戦争としての第一次世界大戦に対してとるべき態度としてレーニンによって提唱されたが、それは、単にその時代の、その戦争に対する戦術的スローガンにとどまらず、帝国主義国の労働者階級が自国帝国主義国家に対してとるべき基本的立場性として、普遍的な意味を持ち続けている。共産主義者は、自国帝国主義に対する祖国防衛主義に一ミリも妥協せず、《革命的祖国敗北主義》の立場性を守り抜き、その立場から労働者階級の中に大衆的な党組織を建設しなければならない。しかし、その事と、「階級の闘いの発展と前進が…帝国主義ブルジョア国家に対する革命的祖国敗北主義の立場に貫かれる闘い以外には絶対ありえない…」(前掲論文)と断定する事とはまったくことなると言わねばならない。事実、その後の事態は、連合と左派が《革命的祖国敗北主義》を軸に分化するというように単純にはいかなかった。
先に述べたとおり、現在、連合に対抗して「闘うナショナルセンター」をめざしている大衆的な潮流は、資本家階級と労働者階級の階級対立を認めず、資本主義を理想視して資本主義防衛の立場にたち、労使一体の立場にたつ連合に対して、いわば、「資本家階級と労働者階級の利害は対立している」という、階級闘争の立場にたつという一点で統一されている。しかし、階級闘争の立場にたつということと、《革命的祖国敗北主義》の立場性の間には非常に大きな隔たりがあることは自明であろう。たとえば、労研センターの代表の一人である大田薫氏は、「第三世界との連帯のスローガンなどは政治主義で必要ではない、そんな議論より、春闘相場を引き上げることの出来る勢力形成を」という立場であり、いわば帝国主義批判を欠落させた経済主義の立場にたっている。岩井章氏は、総評運動の内在的批判を通して、新たな政治性を獲得しつつあるかに思えるが、労研センターに結集する向坂協会派内の大部分もまた、帝国主義批判なしの経済主義的職場闘争主義が抜き難い。共産党-統一労組懇は「愛国者の党」とその指導下にある労働組合組織である。だから、現在の「闘うナショナルセンター」をめざす運動が、もっとも首尾よく成功したとしても、作られるナショナルセンターは非常に問題のある、中間主義的なものにとどまり、トロツキストと革命的潮流はその中でも少数派にとどまるであろう。しかし、だからといって、そんなものの為に努力する必要はないと言ってしまえば、わが同盟は現実の階級闘争からまったく遊離したセクト主義的集団に堕落してしまう。問題の核心は、非常に大きな弱点を抱えつつも、自民党政府-連合の国家的規模での労資一体の構造の外側に、国家から相対的に独立した労働組合のナショナルセンターを、社会党左派、共産党、そして革命的潮流の統一戦線構造によって、総評の解体をこえて作り上げる可能性があることである。総評労働運動の敗北という形をとった戦後階級闘争の歴史的敗北の中で、「闘うナショナルセンター」をいかなる勢力の力で、いかなる規模で、いかなる政治性を持つものとして残すことができるのか? これは現在、日本労働者階級に問われている極めて主体的な課題である。われわれはこの闘いに全力で参加するとともに、《革命的祖国敗北主義》の立場にたった共産主義者としての独自の立場から、現実の階級闘争の中での、連合と「闘うナショナルセンター」派の分化の意味を、その積極的側面とともにその限界をも指摘していかねばならないのである。
しかし、総評労働運動の敗北の過程を、もうすでに終わってしまった過去のものとし、《革命的祖国敗北主義》を軸にした政治的分化に基礎をおいて「レーニン主義的党」を建設するというわが同盟多数派の方針は、こうした現実の階級闘争の舞台とは遊離したところでの、観念的な「党建設」方針になったのである。九回大会の方針の大衆運動主義は批判され党建設が力説されたが、九回大会が三里塚闘争の持ち込みを労働運動方針にすることで、労働者階級の現実の闘いの中で党を建設するという任務を明らかにし得なかったとすれば、今回もまた、総評の最終的解体にむかう局面で、そこから分化しようとする現実の階級闘争の具体的な課題を明らかにすることが出来ず、大衆運動主義から「レーニン主義」への転換は、現実の課題と遊離したところで観念的に行われた。どちらの大会方針にも共通のものは、現実の階級闘争の戦場にはとどかない観念論であった。八六年一月一日付「世界革命」紙の、非現実的で観念的組織方針の根拠は、私には以上のような一二回大会路線にあると思われる。
4.破産した理念をこえる新たな理念のための公然とした分派闘争、騒然とした論争を
両分派のどちらにも属さず、分派闘争の具体的な過程と政治的な対立点も機関を通してなかなか伝わらないという、はっきりしない中で、私は以上のように、現実と遊離した同盟一二回大会方針の破産の結果として、分派情況が生まれたのだと理解して、事態を納得した。だから、私の理解によればまず第一に破産したのは、同盟全体の九回大会から一二回大会にいたる路線であり、そうした路線を現在にまで代表しつづけているレーニン主義派と、私はまず第一に対立する。しかし、レーニン主義派に対抗してプロレタリア派を結成した同志には、破産した同盟の七〇年代から八〇年代にいたる《理念》にたいして、ただ労働運動の《現実》を対置すること以上の事が義務づけられているはずであって、それは、《現実》に依拠しながら、破産した理念にかわる《新たな理念》を、新たな同盟の路線、綱領を作り上げる闘いに貢献することであるはずである。このことにプロレタリア派の同志はこれまでどれだけ自覚的であったのだろうか。私が疑問に思うのは、同盟の敗北の根拠を問う全面的な政治的論争が現在まで本当に不充分にしか行えないことの原因は何かということであり、プロレタリア派の同志は必要とされているこの論争を、公然とした分派闘争として行うためにこれまでどれだけの努力をしてきたのかということである。
現在までの分派闘争は、七〇年代から八〇年代にいたる同盟の敗北の根拠を明らかにするものとしては、まったく不充分にしか闘われていない。現在最も必要なことは、同盟の敗北の根拠を徹底して議論しつくすことであり、その論争を出来る限り公然と、共青同の同志や支持者を含んで行うことであると思う。世界革命紙はその為に公開されるべきであり、騒然とした論争こそが未来を切り開くことに確信を持つべきである。しかし、現実には、世界革命紙上での論争は極めて中途半端なものであり、一定の紙面を各分派に公平に割り当てて論争を継続することすら行われていないのは不思議だ。わが同盟が分派情況にあることは、共青同の同志や支持者ばかりか新左翼のすべてが知っており、世界革命紙上でも認めているのに、ときおり、唐突に分派的立場からの投書や論文が載るほかは系統的な分派間の論争は、世界革命紙上では行われず、日常の紙面は、分派情況にほおかむりして、取り繕って作られているように思えるがどうか。こうした現状からは、敗北した七〇年代から八〇年代にいたる路線をこえる、新たな同盟の路線と新たな団結は決して生まれてこないと考える。
こうした同盟の分派情況の深まりと関東での同盟・共青同の崩壊情況に規定されて、われわれは、各地区の同盟・共青同と国鉄産別のフラクションという正常な組織的あり方では組織と運動を維持することが不可能になった。とりわけ、共青同は国労のメンバーがいる地区では総崩壊といえる情況になり、われわれの拠点職場ではもうだいぶ前から、地区の共青同の指導で何かをやるというふうにはなっていなかった。こうした中で、八七年の末以降、われわれは変則的ではあるが、第四インター系の産別グループとして自らを維持することを決定して現在にいたっている。われわれの現状は、形式的には地区の同盟組織に所属しているが、所属している細胞が崩壊している情況で、産別グループとしての活動のみを行っている者、所属していた地区の共青同が崩壊した中で、産別グループとしての活動のみを担っている者、地区の共青同の活動にも支持者として参加しつつ、産別グループとしての活動にも参加している者と、様々な情況である。そして、その他に産別のフラクションに参加している職場の仲間がいる。
1.七〇年代のわれわれ
われわれの産別グループとしてのあり方と、これまで書いた私の立場に対しては、即座に様々な方面から「国労の中にいたからこそ可能な組合主義的組織と議論だ」というような反論が返ってきそうだ。そこで、最後に国労の七〇年代から分割・民営化反対闘争にいたる闘いについての若干の評価とわれわれの闘いについて触れておきたい。
まず、先まわりして反論しておけば、まさに今、われわれが関東組織の総崩壊の中でかろうじて一定の組織を残すことが出来ているのは、国労にいたからに他ならないし、われわれのあり方が深く組合主義的であることはその通りである。しかし、一〇年近くもの期間、職場での実感と噛み合った方針らしい方針を政治組織から示されず(少なくともわれわれはそう考えている)組合活動を行ってきた者に「組合主義者」以外になりようがあるだろうか? そして、われわれのこの一〇数年間の闘いは、総評労働運動の最もよく組織された拠点組合の中で、日本の組織された労働者階級の先端部分がいかに限界を持つものであるのかと同時に、いかなる可能性をも秘めているのかを経験を通して知っていく過程でもあったのである。国労にいたからこそ、ますます階級闘争の戦場から遊離して、観念論的主体性論を強めつつあるわが同盟の機関多数派からの経験主義的な自立が可能になったという側面もあったのである。とりわけ、修善寺大会の勝利にむかう過程がみせた、社共と革命的潮流の統一戦線の萌芽、下部労働者の統一した決起が、人活センター切り捨てやむなしに傾いていた既成指導部を統制し、レッドパージ拒否を決定していく過程での経験は、われわれの経験の最高の到達点であった。
七〇年代、国労内部の青年労働者の戦闘性はいまだ強固に存在していた。われわれは、職場における反職制闘争で、最も戦闘的な青年活動家として闘うことで社共に張り合うことが出来た。春闘での青年部のビラ張り行動は徹底していて、一日に何回も、剥がされないようににかわや接着剤を混入したのりで徹底したビラ張り行動を行い、「ビラ張り青年部」と呼ばれた。春闘その他での総評青年協の集会では三万人はいただろう参加者のうち、いつも半分以上、三分の二くらいは国労青年部がしめていたが、われわれの拠点分会の青年部は、いつの集会でも、デモ行進では支部青年部隊列の先頭を固め、ジグザグデモの牽引車であった。国労が獲得していた現場での団交権(現協制度)を利用して、青年部は現場長交渉で職場の諸要求を取り上げて青年部交渉を積み上げたが、その中で、国鉄に入ったばかりの青年労働者は初歩的な階級意識を獲得していった。こうして育っていった青年労働者の意識は、当時の「いい助役と悪い助役を区別し、助役も味方に」という共産党-民青の路線や、「学習会と社会党の選挙」という協会派の路線の枠を越えて、われわれの仲間になったが、われわれが職場で具体的に提起できたのは「徹底した職場闘争-街頭での戦闘的デモ-三里塚闘争や反安保闘争など各種政治闘争への動員」というようなものであり、それ以上の実践ができたわけではない。そうして、こうした青年部での活動を保証していたのは、最初に書いたように、富塚派の「節度ある労働運動」や「国民のための国鉄再建」路線に反対する、支部段階での国労の戦闘性であった。三五万人体制をめざす当時の合理化に対して、合理化絶対反対論にたつ支部と各職場は、合理化事案ごとに職場から大衆動員をかけ、団交の進め方をめぐって、本部や地本等の上部機関との間で激しいやりとりを繰り返し、団交に入れないといったこともたびたびであった。当時はこれを「労労交渉」とよび、早く妥結の道をつけたい本部、地本などに対して、職場からの大衆動員をどれだけ行うか、職場の実態をいかに理論化し、いかに上部機関を統制し、団交を先に引き延ばすかが、職場活動家の手腕であった。こうした、職場からの抵抗を基礎に、各事案の妥結に際して提案の値引き=「バック」が当局と上部機関のボス交で決まって行った。(ちなみに、「バック率」は、七〇年代の半ばから下がりはじめ、八〇年代に入ると、ほぼなくなり、八〇年代半ばから現在までは当局の一方実施が常態化している)
こうした、われわれの当時の有り方を振り返って考えて見るならば、「社会主義をめざす労働運動」というわれわれの主張は、抽象的な宣伝のスローガンにとどまっていたことがはっきりする。われわれの展望は、職場からの大衆的な反合闘争が、ついには上部機関の統制を突破して政府との対決に進むことに置かれていたが、かりに、そうした事態が起こっていたとしても、それ自身ではなんら「社会主義」を現実化するものではない。そして、職場からの反合闘争のエネルギー自身がしだいに衰退していくことも、最初に書いたとおりである。われわれの実態は「戦闘的職場闘争派」であり、「社会主義の自然発生的待望論者」であった。
しかし、この時期を通してわれわれは、われわれの主張を公然と大衆に訴え、大衆の中で、大衆とともに闘うというわれわれの資質をつくりあげることができた。新左翼の多くが、民同の陰に隠れて自らの主張を隠し、陰でこそこそと「秘密のサークル」をつくるということに身をやつしているのに対して、われわれは公然と三里塚闘争への結集を訴えて、支持者を増やした。共産党、協会派、革マルなどが「あいつらは過激派で、成田で火炎ビンを投げている」などと、陰で誹謗したが、われわれは平気だったし、職場の仲間は、こうした陰口ではわれわれから離反しなかった。職場の仲間の多くが、職場闘争の中で初歩的階級意識に目覚めていく過程は、それを組織するわれわれにとっては、労働組合運動とは何か、労働者階級を組織するとはどういうことかという事を学んでいく、初歩的な過程でもあったのである。当時、私が個人的に考えていたわれわれの職場活動のスローガンは「遊びから三里塚まで」というものだった。遊びを組織することから三里塚闘争まで、ようするに、労働者の生活領域のすべてにわたって、責任を持つという意味である。もちろん、スローガン通りにはとてもいかなかったが、この時代の職場での闘いは現在までのわれわれの組織の骨格と政治的資質の基本的部分を作った。
2.修善寺大会への道
当時の楽観的展望の修正を余儀なくされていく過程については、まえに簡単に触れた。そして、職場闘争のエネルギーがしだいに衰退し、下部からの闘いが富塚派の統制を突破するという、われわれの当初の展望と反対の事がおこった。臨調行革路線にもとづき、富塚派もろとも、国労が獲得してきたものへの総攻撃が開始されたのである。これは、総評の解体と全民労協-全民労連への右翼的労戦統一の動きの中で極めて大きな位置をもつ攻撃であった。そんな中で、七〇年代後半以降、われわれと友好的な関係を持ってきた支部段階での主流派(社会党左派)は右傾化を強めて行った。
富塚派=国労旧主流派は、当初の分割・民営化反対の態度から、民営・全国一社の社会党案支持へ、最終的には、労使共同宣言に調印し、人活センターに収容された職場活動家の首切りを承認する立場へと転落していく。そして、本部を握っていた旧主流派が、一歩一歩後退する中でも、協会派と革同は各級機関会議で反対論は述べても、明確に原則を貫かず、旧主流派との全面対決をさけ続けるという事態が続いた。八六年七月の四九回全国大会の頃は、協会派も革同も、上部では「首切りやむなし」に傾いていたと思われる。しかし、こうした事態の中で、国労自身が労使共同宣言路線に引きずりこまれることを認めないという部分が、国労運動内部で結晶しはじめてきた。四九回大会の会場前では人民の力派と高崎ほかの労働情報系グループの「国労激励集会」が開催され、国労内の独立左派の結集が進んだ。そして、決定的だったのは、国民会議に代表される地域共闘に励まされながら、人活センターに収容された労働者を中心とする党派をこえた職場活動家の闘いが急速に盛り上がったことである。最初の火花を飛ばしたのは、岡山での人民の力派のハンストであり、以後、全国で野火のごとくにハンガーストライキが拡大して、修善寺大会の勝利につながるのである。われわれは、極少数の勢力ながら、千葉大会から、ハンガーストライキ、そして、修善寺大会にいたる過程を、職場からの闘いの先頭で闘い、また、国鉄闘争センターの機関紙「鉄路とともに」を編集し全国の闘いを結びつけて、総力で闘った。
3.連合に対抗する大衆的労働組合潮流の可能性
--修善寺大会で国労がしめしたもの--
修善寺大会前後に起きた事態を、われわれはどう考えればよいのか。
総評労働運動は、企業内組合の上部に、常に企業と癒着し企業主義に走る幹部をつくりだしてきた。この弱点が、最終的に総評の自己解体につながったのだと言われる。その通りである。しかし、総評労働運動はまた、組合の下部に、常に職場闘争を軸に、労働者の連帯をつくりあげるために闘う部分を持ってきたことも事実である。こうした職場闘争派は政治的には社会党左派、共産党、新左翼に結びついていた。同盟・JCが総評を批判するとき、その対象は「階級闘争至上主義」の職場闘争派であり、それを、総評幹部が容認していることへの批判であった。六〇年代以降の、民間における同盟・JCの覇権の確立は様々な手口によって行われたが、会社派インフォーマルグループによる組合の乗っ取りにしろ、分裂第二組合による第一組合の暴力的解体にしろ、攻撃の対象は、職場であくまでも階級闘争の旗を振ろうとする者に向けられてきたのである。総評の各単産、単組が連合路線に転換していく過程は、これまで職場闘争派の存在を承認してきた指導部が職場闘争派を統制し、解体していく過程である。
すべての所で、今日の連合路線に結びつく、資本の側からの労働組合の再編にあたって、職場闘争派の抵抗はあった。そして、抵抗の小さかったところでは痕跡はなくなり、抵抗が大きかったところでは、少数第一組合として、また、御用組合内部の反対派として、闘いは続いている。国労の場合、総評のなかで最も職場闘争の力が強かった。資本は、国鉄から職場闘争派の組合を一掃する為には、民営化にとどまらず、企業を分割すること、そして、職場活動家の選別的な首切りが必要であると判断した。
修善寺大会は、こうした、独占資本と自民党政府の攻撃を承認し、職場闘争派の排除、職場活動家の首切りを承認して生き残ろうとする指導部を、職場からの大衆的な闘いで放逐した。総評労働運動の内部にあった二つの傾向、企業主義に傾く右翼的幹部と職場闘争派の抗争の中で、全国単産としてははじめて、職場闘争派が勝利を収めたのである。
また、この闘いの中で、職場から立ち上がった大衆は、国労運動内に存在する各党派に統一して闘うことを強制した。修善寺大会での歴史的採決の前日、協会派、革同派、人民の力派、高崎、太田協会の一部による統一した決起集会が開催されたが、こうしたことは、これまでなかったことであった。人活センター全国連絡会は、各党派の平等な共闘関係にもとづいて運営された。そして、重要なことは、この時期、共同宣言路線に反対し闘い続けようとするすべての政治勢力による統一した闘いが、全国各地の職場で展開されていたことである。 労働者統一戦線の必要性と必然性というトロツキストの主張は、国鉄闘争の中で証明されたと言える。
修善寺大会を通して、国労は連合路線への転換を拒否し、総評労働運動の敗北の後に構築される、自民党政府-連合の労使一体体制の外側に立った。しかし、その後の事態は、大衆に押し上げられた現国労指導部が、自らの置かれている客観的な位置に無自覚であり、部分的には、総評-社会党内の連合派との関係改善に望みをかけ、企業主義に傾斜する傾向が拡大している。このことを軽視すべきではない。修善寺大会で国労が開始した闘いは、ナショナルセンター問題の決着までで一つのサイクルを閉じる。現在の国労にとっては、私には道は三つあるような気がする。一つは、国労が中心となって全労協をよびかけ、連合に対抗する闘うナショナルセンターの結成の中核を担うという道、二つは、総評-社会党内の連合派と関係を改善し、鉄道労連、鉄産総連の後を追い、一番最後から連合路線に転換する道、そして三つは、連合には行かないまでも、何の積極的役割も果たさず、企業内の「左派」組合として《立ち枯れる》道。これは、一定の大衆的規模で第一組合を残しながらその政治的限界ゆえに、ほとんど社会的に有用な闘いをすることなく、現在にいたっている三池労組がたどった道であり、私は現在の情勢を「国労の三池労組化の危機」と名づけている。闘う部分が何もしなければ、第三の道に行く可能性が強いと私は思う。われわれは、こころあるすべての人々とともに、国労指導部に全労協結成に踏み出すことを求めて、精一杯闘いたいと思う。結果はまだ出ていないし、闘いはいまだなかばである。しかし、修善寺大会の勝利を通して、国労は、連合路線に対抗する《階級闘争》派の大衆的労働組合運動の潮流が成立する可能性を証明した。このことは間違いのないことであり、このことが、この間の国鉄闘争の核心であると思うのである。
4.今をおいて闘うべき時はない--その時を闘って
困難を強めている現在の時点から振り返って、「結局、国労も総評左派だったんだ」などという客観主義的な評論をする者がいるとすれば、私は断固としてそれに反対する。それは、修善寺大会の前後にあった可能性をまったく無視してしまうからである。現在、国労の立ちどまりは、職場では社共のセクト主義的縄張り争いの激化として現れており、極少数派であっても、正しい方針を提起すれば運動の主導権を取ることが可能であった、修善寺大会前後の時期に比べてわれわれの国労内での闘いは困難性を増している。しかし、修善寺大会前後の一時期をともに闘った協会派や革同の活動家との間で、現在もなお、統一戦線的関係が持続している事は、決定的瞬間に闘うことが持つ意味を教えてくれる。そして、あの一時期の闘いをとおして、われわれは、われわれのフラクションに何人かの若い仲間をむかえることができた。成果は微々たるものであり、今から思えば、あの時、もし、われわれがより強固に方針上の意志統一をしていれば、もし、より統一して体をはって闘うことが出来ていれば、より大きな政治的、組織的な成果があったであろうというような反省は大きい。しかし、少なくとも、われわれは修善寺大会前後の歴史的な一時期を精一杯、職場と地域から闘うことで、主体的な総括ができる位置にいると自負している。歴史においては、「今をおいて、闘うべき時はない」という瞬間がある。修善寺大会前後の一時期はまさにそうであったが、その瞬間を、大衆とともに精一杯闘えたことは、われわれのこれからの財産である。
ところで、修善寺大会を前後する一時期は、国鉄労働者にとってのみならず、すべての政治勢力にとってもまた、決定的な意味を持っていた。国鉄闘争にいかにかかわるのかを通して、総評解体以降をいかに闘うのかが問われたのである。この、煮詰まった瞬間をわが同盟はいかに闘ったのか? 東北の同志は、国民会議運動への主体的なかかわりを通して、現在、東北規模での労研センター建設にむけた闘いの重要な一翼を担うまでに闘いを前進させているし、若干の地方では、国鉄闘争でつくり上げた統一戦線関係を持続させ、総評解散反対、地県評存続のための闘いの一翼を担って闘っている。しかし総体としての同盟はどうか? 少なくとも、関東におけるわれわれは、同盟からの一切の指導と援助なしにこの一時期を闘った。人活センターに収容されたわれわれが地域共闘の力を借りて反撃を開始しようとしたとき、われわれを助けてくれたのは、国鉄闘争センターに結集する労働情報系の労働組合の仲間であったが、いくつかの例外を除いて、わが同盟は国鉄闘争に総力を上げるという意志統一と職場からの闘いを展開できなかった。分派闘争があったからか? 職場組織が崩壊し、職場を動かす力がなくなっていたからか? 根本的には政治的問題だと思う。
先に触れたように、国鉄闘争にとって決定的な年であった八六年の年頭にあたって、世界革命紙は、「プロレタリア革命の武器であることを自覚し、革命的祖国敗北主義の立場に立った」労働組合の結集という組織方針を打ち出していた。そして、そうした組織方針の基礎には、その前年におこなわれた同盟第一二回大会での「帝国主義ブルジョア『祖国』にたいして敗北主義の立場をとるのか、否か・・ここには一切の中間的改良主義が成立する余地はないし、あらゆる政治的中間主義が存在していく基盤はない。今日の政治的分化はここを軸にして進行していくのであり、すべての政治潮流・党派もこの点で綱領的にテストされるのである。…」という認識があった。この認識からは、連合派に対して、階級闘争の立場に立ち、職場闘争の立場に立つあらゆる政治勢力の統一した反撃であった国鉄闘争への方針は出てこない。わが同盟の多数にとっては、「成立する余地のない」ところから、大衆の反乱が起こったのであり、その結果、政治的に武装解除されたわが同盟の多数にとっては、国鉄闘争は、主体的に参加する闘いではなく、客観的に限界を指摘する「評論の対象」として終わってしまったのではないか。国鉄闘争に対して、総力を上げて闘う意志統一を勝ちとれなかった事は、以前に全逓反マル生闘争に対して、やはり武装解除したまま通り過ぎた事に比べても、比較にならないほど大きい影響を同盟にあたえたと思われる。それは、国鉄闘争の位置が、新しいナショナルセンターを作り上げる闘いにとっての要の位置を占める闘いであったからである。このことの深刻な反省なしに、同盟を再建する闘いはあり得ないと思うが、現実の同盟は何事もなかったかのように、問題に目をつぶり、世界革命紙は国鉄闘争と新しいナショナルセンターをめざす闘いを報道しつづけいてる。しかし、闘いに参加することなく「評論する」ことほどむなしいことはない。 自分達の「綱領的正統性」を自己確認することで、そのむなしさを打ち消すというような気分が、もしあるとするならば、そんな「正統性」はどぶに捨てた方がいいと思う。
5.国鉄闘争と国労は敗北したのか?
国鉄闘争は、国労は、敗北したのか否か? という問題がいくつかの場所で討論されている。私はこの問題について、次のように考える。分割・民営化を阻止しえなかったという点において、国鉄労働運動の主流が、まがりなりにも《階級闘争》の立場に立つ国労から、労資一体の鉄道労連に移り変わったという点において、国鉄闘争と国労が敗北を喫したのはまぎれもない事実である。この敗北は、総評労働運動の敗北という形をとった、日本労働者階級の一時代をかけた闘いの敗北の重要な一部をなす。国鉄闘争と国労はこの歴史的趨勢を引っ繰り返すことは出来なかった。しかし、国鉄労働運動から《階級闘争》派の労働組合を一掃しようとした敵の目論見から見れば、修善寺大会は大きな誤算であった。独占資本と自民党政府の全体重をかけた攻撃にもかかわらず、労使共同宣言を拒否することで、政府・独占資本と連合の労資一体の体制の外に立った国労は、総評解体を越えて、連合に対決する階級闘争派の大衆的労働組合の潮流をつくりあげることが可能であることを、自らの闘いを通して明らかにしたのである。国鉄闘争と国労は敗北した。しかし、国労は、敗北のしかたには敗北しなかったといえるのである。
なぜ、こんなややこしい事をいうかと言えば、こう考える事で、はじめて、四万人弱の勢力を維持した国労運動が、現在何にぶつかり、そこで何が問われているのか? また、われわれが国労の中にあって何に挑戦しなければならないのかが、はじめて見えてくると思うからである。それでは、国鉄闘争と国労の敗北は、どのような敗北であったのか。
分割・民営化反対闘争を総括するために、国鉄産別の○○が、国鉄労研のパンフに書いた文章が、世界革命紙九九四、五号(八七・五)に掲載されている。私はこの論文にニュアンスの違いは感ずるものの、基本的には同意見である。全文を読んで頂きたいが、その中でも、「(四)国労が負った重い負債」の項は、旧主流派とならんで左派(現在の国労主流派)をも含む国労全体が陥った袋小路について触れている。七〇年代の後半から、当時の国労指導部(=旧主流派)は、「国民のための国鉄再建」というスローガンのもとに、実際上は国鉄再建合理化に迎合し、国鉄の資本主義的再建のための合理化、効率化を認める経営参加的な再建協力路線を強めていった。その路線は、国鉄の分割・民営化攻撃の中では、分割・民営化に抵抗する国鉄官僚との協力によって分割・民営化を回避しようとする、当局とのアベック路線に帰着するわけだが、論文は、国労指導部をそこに追いやった要因を、スト権ストの敗北と、合理化反対闘争をめぐる状況の二つの要因から、おおよそ次のように説明している。
スト権ストは、戦後の生産管理闘争以降、最大の戦術を行使して闘われながら、トラックによる代替輸送網の整備を背景にした、政府の強硬姿勢の前に敗北した。交運ストが、そのまま会社の休みになった以前とことなり、ほとんでの民間企業で、出勤さもなくば泊まり込みが強制されるようになって、労働者の間にも「スト迷惑論」が浸透し、それは、「怠け、たるみ、親方日の丸論」キャンペーンの余地を与える土壌となっていった。スト権ストの敗北は、その後の国労の戦術行使に重い足かせをはめた。
一方、合理化反対闘争について言えば、八〇年に四三万人いた国鉄労働者を、三五万人に削減する合理化、さらに、分割・民営化の過程で、それを、さらに半分の一八万三千人に削減する合理化を国労は阻止出来なかった。
この過程について、貨物部門を例に取りながら、論文は次のように指摘している。
合理化反対闘争が民間企業から姿を消し、企業間競争の激化の中で、国鉄貨物輸送のシェアは下がり続け、「貨物列車は空気を運んでいる」と言われる状態になった。こうした現実を前に、当時の国労指導部は、「空車を走らせろというわけにはいかない」「絶対反対だけでは闘えない」という立場から、経営の立場に接近し、合理化・効率化を認め、赤字の解消をめざす政策要求に闘いの重点を移し、経営参加的な再建協力路線を後になるほど強めていく。これに対して、革同、協会派などの反対派もまた、有効な路線を持っていなかった。
まず、「国民のための国鉄」論という立場に立っていた共産党・革同派は、当時、本部の国鉄再建方針を支持していた。「民主連合政府」路線の立場から、住民・利用者=選挙民へのアピールに重点をおく彼らの立場は、職場からの闘いでは右翼的であった。
そして、合理化絶対反対論にもとづいて、本部方針を批判した協会派や反戦派はどうだったか。かれらは、基本的には「赤字問題や経営問題は「労働者の責任ではない」という立場から、「職場抵抗闘争とストライキ」という戦術を提起したが、国鉄赤字問題が社会問題化するなかでは「赤字や経営は関係ない」という立場と職場抵抗の持続だけでは、世論を動員することも、孤立から社会的多数派への道を切り開くこともできず、現実的な方針たりえなくなっていたのである。
こうした、当時の状況を論文は次のように総括している。
「…職場闘争に閉じこもっては既得権を維持しぬくこともできないし、一方、職場闘争の支えを捨てて政策要求を対置し、施策全般にわたるより高次の経営権の分野に介入しようとすれば、それは不可避的に資本への屈伏にならざるをえない。こうして、『国民的多数派』をめざせば赤字再建論に埋没して効率化の容認に傾斜し、他方は硬直した職場抵抗の論理しか対置できない、という出口のない対立に七〇年代後半から国労の反合路線は陥ってゆく。そして現実の圧力を背負った右派の前に、左派はそれを突破する運動論を見いだせないままできたのである」
「…われわれ自身、これらの問題に回答を持っているわけではない。末端経営権の蚕食に第一歩の足場を置きながら、そこから経営と政策全体に攻めのぼっていく運動の道筋をわれわれはまだ見いだしてはいない。それは国鉄労働者だけの闘いでは不可能であろうし、交通問題を軸に社会や文化のあり方全般にわたるビジョンを探る作業も必要となるだろう。しかしまず問題の所在を自覚することが、解答を得るための第一歩だと思うのである」
私もまさにその通りだと思う。こうした、合理化反対闘争における現実的な展望の喪失に現れている、国鉄労働運動の陥った袋小路は、客観的な存在である。これは、総評労働運動全体の敗北という問題とも深くかかわっているが、正しい方針さえ提起すれば、「えいっ」と一飛びで飛び越えられるような問題ではないのである。われわれには「全交通産業の無償国有化と労働者管理」という、正しいスローガンがあるではないか、という意見がありそうだ。しかし、それ自身は正しいこの過渡的スローガンは、社会主義革命をめざすという意識性と結びつかなければ、現実性のある方針とはなりえない。この要求が、ひろく大衆のものになるためには、必ずしも労働者の多数が革命の必要性を自覚している必要はないとしても、少なくとも社会主義革命のために、客観情勢が非常に煮詰まった状況が必要であることは自明であろう。当面、このスローガンは煽動のスローガンにはなりえない。われわれは、宣伝のスローガンとして、交通運輸産業労働者と利用者にとって、あるべき交通手段は、「全交通産業の一元的国有化と労働者管理」のもとでのみ達成することができることを繰り返し、これからも述べていきたい。このことは絶対に必要である。しかし、問題は、このスローガンが現実の労働組合のスローガンに転化するまでに、現在の状況からいかに闘いを進めるのかということなのである。
敵の総攻撃を受けてなお、大衆的労働組合として生き残った国労は、こうした戦略的な敗北とでもいえる事態を引き受け、ここと格闘することなしには、本当の意味で展望を切り開くことはできないのである。
われわれは、国鉄労働運動が陥った袋小路を、階級自身の克服すべき課題と考え、国鉄労働運動の総体をその課題に挑戦させるために闘う決意である。その場合、われわれの闘いは二重の意味で困難である。第一は、もちろん、一つの時代の階級闘争の敗北という客観的情勢が、それを乗り越えるための新たな闘いを開始しようとするわれわれに加える圧力であり、第二は、現在の国労指導部が国労の直面している、以上のような課題にまったく無自覚であるということがもたらす困難である。協会派と革同派にとっては、いずれも国鉄闘争は敗北していない。それは、彼らにとってはいずれも労働組合運動はそもそも社会主義にむかって進むものではないからである。革同派にとっては社会主義は議会においてつくられるものであり、共産党の選挙における陣地が大衆的に確保されたことによって、基本的に闘いは勝利であった。協会派にとっては、特に上部機関の官僚にとっては、組合の官僚機構そのものが目的であり、それが維持されたことによって、闘いは基本的に勝利したのである。こうした指導部を上に戴きながら、国労を闘わせるということが、二つ目の困難である。革同派、協会派のいずれの内部にも、現場労働者の利害に立脚しながら、自らの党派的限界を経験主義的に越えていこうとする部分は存在している。また、修善寺大会で連合派の外にいったん飛び出してしまったという、国労の置かれた客観的な位置が、指導部に不断の圧力をかけているという事実も大きい。こうしたことが、われわれの困難を幾分少なくするとしても、現在の国労指導部の限界性がもたらす困難は非常に大きい。この二重の困難を引き受けて闘い続けることが出来るか否か? われわれが国労にいることの意味はここにあると思うし、ここの所で闘い続けることが出来ないならば、われわれは解体すると考えている。
私は、われわれが直面しているこうした課題は、この間一〇月会議に結集しているすべての労働組合・政治勢力が直面している課題とまったく同一のものであると思う。一〇月会議に結集している仲間の多くは、比較的小規模の独立左派系の労働組合であり、社共を指導部におく大衆的労働組合内部の反対派という、われわれの立場とは違う。しかし、企業ごとに組織され、企業を前提とし、企業に依拠してきた総評労働運動の敗北を乗り越え、大企業-中小企業、親企業-下請け、本工-臨時・パート・派遣労働者、男と女、外国人労働者などの差別構造を突破して、日本帝国主義の形成した「企業社会」にたいするトータルな批判を、労働者階級の普遍的な利害の立場、社会主義の立場から、闘いを通じて展開しようとすることなくしては、存在しえないということにおいて、、われわれは一〇月会議に結集する仲間と同一の立場に立っていると思えるのである。現実にはわれわれのグループ自身が、企業内組合の反対派そのものであると言えるほどの限界を抱えているが、一〇月会議に結集する仲間と、まずわれわれのグループの一人一人のレベルから交流・連帯していくことを契機として、現在の国労運動全体の変革をめざす活動家集団として成長していきたいと考えている。
わが同盟は現在、第四インターナショナル日本支部としての統一性を喪失していると思う。それぞれの同盟員の置かれている個別の事情が同盟としての統一性に優先しているのである。労働組合運動に従事しているものはその職場から、女性解放闘争に参加しているものはその現場から、三里塚闘争を担っているものはその立場から、優先してものを考え、同盟に関係しているのが現状ではないか? われわれの立場からいえば、われわれは以前、同盟から国鉄労働運動に派遣されたオルガナイザーであった。しかしいつか、組合運動を進めていく上での必要性に応じて同盟を意識するという逆転がおこったのである。
こう言えば、中央機関の多数派からは、われわれこそ同盟の統一性を守っているのだ。君たちの組合主義的あり方を反省して、党建設のために闘えという声が聞こえてきそうだ。しかし、ほんとうか? 同盟機関にいるということ自体が、今では様々な立場性の一つに転落していないか? 機関自体が物神化され、自己目的に転化されていないか?
こんな乱暴な言い方をするのは、綱領的な統一性こそが同盟の統一を維持するのであって、綱領的な統一性を失ったとき、党機関の存在それ自体では政治同盟の統一性の保証にはならないと考えるからである。
わが同盟は七〇年代には、歴史を認識する綱領的総体性を持っていると考えてきたが、これまで書いたような経過の中で、その認識が誤りであったことがはっきりした。それは、何もわが同盟だけの誤りというよりは、「戦後日本マルクス主義の敗北」の一部をなすものであった。われわれにとって、綱領とは、歴史を見通す総体性であり、社会主義革命の現実性の確信である。わが同盟は今、それを持たないがゆえに、そして、綱領的総体性を再び獲得するための、開かれた論争、開かれた分派闘争をなしえていないために一層、統一した政治同盟としては存在できないのである。
第四インターナショナル各国支部の同志たちは現在、改良主義、スターリニズム、民族主義的人民主義(ポピュリズム)など、様々な政治傾向から分化しつつある革命的潮流と、共同の闘いを強めることによって、将来の、大衆的革命的インターナショナル建設を準備する闘いを押し進めている。こうした、全世界の同志たちの闘いの一翼を、意志統一して担うことが出来る日本支部を再建するためには、つまり、破産した七〇年代路線にかわる綱領的統一性をつくりあげるためには、その日暮らしで理論を軽視してきた八〇年代のやり方をやめ、公然と、徹底して論争することが必要であると思う。
私の文章は、最初に書いたように、国鉄労働運動にトロツキストとして参加して以降の経験を踏まえ、労働運動の現場から総括を行うために書いた。したがって、それは同盟の崩壊的危機の原因の一面を指摘するものにすぎず、必要とされる綱領的総体性の獲得のための一部分でしかないことはいうまでもない。しかし、少なくとも、労働者階級の敗北と無縁な小ブルジョア急進主義的路線と組織という、これまでの同盟の有り方を根本的に変革しない限り、綱領的総体性の獲得はまったく問題にならないと、私には思えるのである。
穴の多い荒っぽい文章であり、構成も、いきつもどりつのまとまりのない文章になったが、第四インターナショナル日本支部を、形式においてではなく、本当の意味で政治的に、綱領的に再建することを願って、精一杯書いたつもりである。日本支部再建のために闘っているすべての同志、さらに、この何年かの日本階級闘争の経験をともにしてきた、革命的潮流に属する多くの仲間の皆さんからの徹底した批判が寄せられたならしあわせである。