四党合意承認前後・Aさんとの往復書簡

2004/08/01 アップロード

Aさんへの手紙 (1)

2002/05/25

 Aさん、今国労は大変な状況にありますね。4党合意を破棄するという与党3党の最後通牒を受けて、本部はあさっての5月27日、臨時全国大会を開いて「JRに法的責任はない」ことを再確認するとともに、この決定を認めず、闘い続けようとする闘争団員を統制処分することを強引に決定しようとしています。本部はもちろん各エリア本部まですべての機関が「4党合意推進」ないしは「やむなし」という状況で、本部は多分、以上の2点を決定することに形式的には成功するでしょう。大会は9時に始まり昼頃には終わる予定になっているようですね。私は、この大会が国労の命日になると思っています。Aさんは「どちらに転んでも苦しい」と苦い顔で言っていましたが、私の認識にはもちろん反対ですね。「どちらに転んでも」職場からの闘いを継続されるのですね。大会の警備に参加するのでしょうか?

 先日、「大会準備の仕方があまりにひどい」と、職場討議も何もなく強引に、形式的に大会を開こうとしている本部を批判されていましたね。私は、なるほどなあ、やっぱり本部の奴らとは違うなあ(当たり前か…)と感心していました。どこまでも職場にこだわり、職場の仲間の団結を最優先に考えるAさんだから、職場の仲間が混乱するような機関運営にうんざりされているのはよく分かりました。でもその後、「議論を尽くせば何とか分かり合えるという状況じゃないから、仕方がないといえば、仕方がないけど…」と言っていたこともよく分かります。そうですね。もう、議論して分かり合えるという段階は、ずいぶん前に通り過ぎてしまった。いったい、分岐点はいつだったのでしょうか。本部が補強5項目提案を突然出してきた4年(だっけ?)前でしょうか。「分割・民営化法案を認める」ことを決定した時点だったのでしょうか。私にははっきりしませんが、今、本部を中心とする上部機関の多数派と、政府・JRの責任を追及し続けようとする勢力の間には、もう「話し合えばわかる」という関係はなくなっています。寄って立つ基盤が違ってしまったのだと思います。しかし、では、本部はどういう基盤に立っているのでしょうか。闘う闘争団を中心とする部分はどういう基盤に立っているのでしょうか。そして、Aさんと私は、それぞれどういう基盤に立っているのでしょうか。そんなことを考えながら、この手紙を書いています。

 さて、ここ何年かの間に、Aさんとは何度も議論する機会がありました。もう、日常的な組合活動から半ば引退してきた私ですが、Aさんと議論するのは楽しい時間でした。少しでも職場からの組合活動が前進することを望むという、それこそ「共通の基盤」があることを、いつも議論の中で感じたからです。国労運動の大きな欠陥としていつも指摘される「組合員の利益の上に党派の利益を置く」という派閥主義の考えがなく、ずいぶん昔に党派からは離脱したといえ、国労内では極少数派の新左翼系であると見なされてきた私とも壁をつくらずに議論してくれる態度には、いつも敬服してきました。しかし、この間の問題に対してはいつも意見は違っていましたね。Aさんは「4党合意やむなし」であり、私は「4党合意」は認められないと。

 Aさんがいつも持ち出す論拠は「闘い続けられる強い者のことを考えていればいいのではない。もういい加減にして楽になりたいと考えている一般の組合員のことも考えなければならない」ということであり、「国鉄闘争は敗北したことを認め、一定の体力があるうちに、仕切り直して闘いを再構築するべきだ」ということでした。私たちの職場の仲間の中にそのような気分があることは確かです。4党合意から離脱するという与党3党の声明を報じた新聞を偶然私は職場で手に取ったのですが、「与党が4党合意を破棄すると言ってるぞ」と言いながら紙面を見せたときに、ホームのOさんはビクッとしたような表情を見せたし、分会長ですら、ぶつぶつ何か言いながら横を向いてしまいました。「どうなるのだろう」という不安、それなりに安定してきた職場の状況がまたひどくなるのではないか、ひょっとしたら、分割・民営化前後の狂気のような組織攻撃が始まるかもしれないという恐れ、労使関係が正常化したら差別もなくなるのではないかという淡い期待感がうち消され、差別構造が永遠に固定化されるのではないかという懸念を多くの組合員は持っていると思います。なんと言ってもJRになってから15年、曲がりなりにも鉄道の本来業務で働いてきた組合員に、15年間解雇撤回闘争を闘い続けてきた闘争団員と家族の立場に立てというのも難しいことであることもわかります。しかし、4党合意を飲んで、JRには法的責任がないと認めて、裁判も降ろしたら、本当に「楽に」なれるのでしょうか。労使関係の正常化と差別のない職場の展望が開けるのでしょうか? 私は4党合意ではその展望はないと言い続けてきましたが、今回の3与党声明とそれを受ける形での臨時大会という状況ではそのことが一層明確になったと思っています。

 本部などでは3与党声明を「解決への最後のチャンスを与えてくれた」と評価する意見があるそうですが、「貧すれば鈍す」とはこのことでしょう。3与党声明は国労に手を差し伸べてくれたものではなく、あくまでも居丈高な最後通牒です。「法的責任がないと認めるなら裁判を降ろせ」「あくまで闘うという者は切り捨ててこい」「内向きの顔と外向きの顔を使い分けるのはいい加減にせよ」ということです。3与党声明の言うことを聞いて臨時全国大会を開き、裁判の取り下げ、闘う闘争団への統制、そしてILOへの情報も取り下げる訳ですが、そこから何か、国労組合員にとって意味のある成果が出てくるとはとても考えられません。当然、相手側は国労が事実として裁判を取り下げ、ILOへの情報も撤回し、そして闘う闘争団への統制処分を発動するまでは動こうとはしないでしょうし、そして、こうしたことを国労が行った後、相手側にはもう何もこわい物はなくなる訳で、そのあと、何か意味のある譲歩が行われると考えるのはどうしようもないお人好しだけでしょう。「裁判取り下げは解決時」という、前回の全国大会でかけられた最後の最後とも言える歯止めが外れた以上、「政府がJRに雇用を要請したが断られた」「解決金について検討したが支払えないことになった」という回答があったとしても、もう闘えない。まさか、政府・与党もそこまでするまいと考えますか? 全逓4・28解雇撤回闘争では「裁判を降ろせば新規採用試験を実施する」という合意に基づき、裁判を降ろして試験を受けた者、全員が不合格になりました。私たちの相手にしているのはそういう奴らなのです。本部の路線で進めば解雇撤回闘争は悲惨な敗北を喫して終結するでしょう。そうすれば相手側はかさにかかって国労の最終的解体をねらってくるでしょう。JR本体の組合員の受けてきた差別を撤廃し、不利益を回復する展望もなくなると私には思えます。4党合意を飲んでも「楽に」はならないし、JR本体の組合員の受けてきた差別もなくならないと思います。だから、苦しくとも闘いの武器は手放してはならないのです。最高裁闘争、ILO闘争を闘い続けながら、ねばり強く相手に対して「和解」のテーブルにつくことを要求していくしか道はないと思います。

 私がこのように言うとAさんは「4党合意を返上して闘ってもじり貧になるだけではないか。展望があるのか」と即座に言うでしょうね。そうですね。これも何度も議論してきた通り、私も闘いの展望は非常に厳しいと考えた方がよいと思います。最高裁闘争について言えば、相手側は最高裁の現職判事を国鉄に出向させ、国鉄当局とともに国鉄改革法をつくらせたわけで、いわば審判がはじめから一方の側についている八百長試合ですから、結果は推して知るべしでしょう。新自由主義が横行するなか、国会で味方となるべき社民党・共産党は孤立しています。労働運動の状況は言うまでもありません。そんななかで、私たちが相手をしているのは、絶対に自分が間違っていたとは認めないことを何よりの信条とする者、自分たちが強行した国家政策によって翻弄された個々の労働者・家族の生活、人生のことなど露ほども想像したことのない連中なのです。彼らに、国家の行った不当労働行為、国家の行った不当な首切りの事実を認めさせることは並大抵のことではないと私も思います。だから、今私の言えることは最後の最後の一点、解雇撤回闘争は、解雇された当事者があきらめない限り、誰にも抹殺することはできないという、文字通りの最後の一点だけです。分割民営化の前後に私たちが受けた組織攻撃、あれほど公然とした、あれほど大がかりな、そして国家が直接手を染めた不当労働行為は、それを告発し続けようという意志を持つ者がいなくならない限り、絶対に消すことはできません。事実を事実として、社会に世界に訴え続ける者がいるかぎり闘いは続きます。仙台闘争団の佐藤昭一氏は半世紀闘って政府の非を認めさせたハンセン病患者の闘いについて書いていますが、ひょっとすると私たちの闘いもそのような道をたどることになるのかもしれません。(もう少し楽観的なことも書けるのですが、今回はあえて書かないことにします。)

 国労に「JRに法的責任のない」ことを認めさせる、それも、「組織の総意として」、つまり解雇された当事者である闘争団員も含めて認めさせようとする政府・JR側の攻撃は、結局、国家的不当労働行為、国家による不当首切りを告発する意志を持った者を根絶やしにしようということですね。たとえ権力者といえども、みずからの犯罪を告発し続ける者がいれば「枕を高くしては眠れない」のでしょうか。国家による犯罪をなかったことにするために、力ずくで歴史を偽造しようとする彼らの目論見は成功するでしょうか? 国労本部は今、それに手を貸して生き延びようとしています。組織としての労働組合は「路線転換」(どう考えても私には「裏切り」としか思えませんが…)しても残るかもしれません。たとえば現在の全逓のように。しかし、それでは解雇された一人一人の労働者と家族の人生、踏みにじられた人生はどうなるのでしょうか。「JRに法的責任はないことを認める」とは、言い換えれば「解雇の責任は解雇された者自身にあることを認める」ということです。闘争団員とその家族にこんなことを認めろと迫る権利は誰にもないと私は思います。百歩、千歩譲って、仮に何らかの意味ある経済的な譲歩を相手側が行うならば、文字の上で「法的責任のないことを認める」ことはあるかもしれません。相手側が経済的に譲歩したという事実が、本当の責任のありかを示す目印ともなるからです。しかし、今の本部と与党・政府のやりとりの中からは実質的ゼロ回答以外が出てくることはないと、私には断言できます。

 長く書きすぎたのは、国労本部に対して闘争団員への生活援助金凍結禁止を求める提訴に、なぜ私が参加したのかを分かっていただきたかったからです。私は分割・民営化の当時、人材活用センターに収容され、首を切られる一歩手前まで行ったところで、本州各社の募集定員割れで、かろうじてJR東日本に採用されました。売店や要員機動センターに排除されて13年間働き、本来の職場に帰ってきてAさんと知り合ってから4年間が過ぎました。Aさんはじめ本務で闘い続けてきた仲間が暖かく迎えてくれたことには本当に感謝していますが、本来ならば闘争団員であったはずの人間として、私は政府・JRの責任を問い続けようとする闘争団員・家族とともに闘っていくつもりです。まだ書きたいことはあるのですがもうやめます。今後とも、「職場からの組合運動を少しでも前進させる」という「共通の基盤」にたって議論できる仲間でありたいと切に願っています。


Aさんへの手紙(2)

2002/06/20

 先日の手紙を読んでいただき、丁寧なお礼をいただきました。ありがとうございます。5月27日、臨時大会の日、私は明番で10時過ぎに社会文化会館に着きました。社会文化会館の前の道路が完全にバリケードと装甲車で封鎖されてたのには驚きました。Aさんは警備で入場しているのかなあと思いながら、大会の終わった午後2時までバリケードの外でうろうろしていましたが、警備ではなく傍聴していたのですね。会場内での反対派の抗議は「それほどでもなかった。予想よりおとなしかった」とおっしゃっていましたが、まあ、臨時大会の結果はすでに本部方針賛成派も反対派に折り込み済みで、本当の勝負はもう社会全体での大衆闘争の展開のところに移行していたと言うことかもしれません。私も、会場の外に行って本部方針に反対する国労組合員・闘争団員の数が思ったほど多くないので拍子抜けしましたが、結局、闘い続けようとする部分は、ILOへの独自の情報提供、鉄建公団訴訟、そして新共闘会議とともに闘う6月の株主総会などの社会的闘争に、すでに力を入れているということなのかもしれません。前の手紙でも書きましたが、四党合意にもとづき闘いの収拾をはかろうとする部分と闘い続けようとする部分は、もう、寄って立つ基盤が異なってしまっているということだと思います。国労の混迷は頂点に達しており、問題は、国労の持つ財産を(闘いの伝統という意味でも、もっと露骨に、文字通り国労の持っているお金・資産という意味でも)だれがどのように引き継ぐのかという局面に入ってしまっているのかもしれません。いろいろな噂が飛び交っていますね。

 さて、賛成77、反対31、白票7で本部原案承認という大会の結果は予想通りでしたが、私がびっくりしたのは委員長のあいさつです。何度読んでも、今臨時大会の委員長あいさつは国労組合員に対して行ったものではない。「四党合意から離脱する」といって脅した与党3党への弁明、いや弁明を通り越して、相手の靴でも舐めかねないような追従としかとれない代物だったからです。以下に引用します。

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----- 引用終わり -----------------------------------------------------

 私としては、国労が自分の首に首吊りの縄を掛けた証拠として全文を引用したいくらいですがやめておきます。まあ、今回の大会が、組合の判断で開催されたものではなく、権力の側からの恫喝に屈するかたちで開かれたという事情を考えれば、委員長のあいさつが組合員に向けたものでないからといって、批判するのもおかしいのかもしれませんが(…これは皮肉です)、苦渋の選択であったはずの四党合意が、いつのまにか、「日本の政治を預かる主要政党が崇高な理念と責任にもとづいて提起した」ありがたいしろものになってしまったのには開いた口がふさがりません。2月15日に国労本部ははILOに情報を送付したわけですが、そこで国労本部は次のように述べていたわけです。また引用します。

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------ 引用終わり ------------------------------------------------

 与党三党の怒りを買ったために、本部はこの文書を撤回することを提案し、大会は多数決で撤回を承認しました。果たしてこの文書のどこが間違っていたのでしょう。思うに、交渉が進展しないのは政府・与党・JRの責任だと書かれてたことが間違いだったのです。なぜなら与党三党の声明は逆に、国労が「JRに法的責任はない」と認めたにもかかわらず、一方で「最高裁での公正な裁判を求め」ているという矛盾、闘争団のなかの多くが鉄建公団を訴えるなど、組織をまとめられないという矛盾を解消できないと言い、「四党合意の進展の遅れは、ひとえに国労執行部が矛盾解消の責任を果たしていないことに帰せられる」と断言したのに答えて、国労本部は臨時大会を開いて、「私は「三党声明」を読み、国労執行部に対するこれほどまでの不信感を与えてしまった責任を痛感せざるを得ませんでした」としおらしく頭を垂れたのですから。悪いのは国労だ!! それを、悪いのは政府・与党・JRだと主張したILOへの情報は、たとえ応援してくれた国際運輸労連(ITF)のメンツが丸つぶれになろうとも、撤回しなければならないのです…と、まあこれも冗談ですが、委員長あいさつとILOへ送った情報とを読み比べてみれば、国労本部が陥っている真っ暗な穴の深さがよく分かると思います。

 大会では、ILOへの情報の撤回について、四党合意賛成派の中からも「誤解を与えた部分は撤回してもいいが、生かして行かねばならない部分は生かすべきだ」などという意見も出たようですが、これこそまやかしの議論の最たるものでしょう。責任は政府・与党・JRにあるのかそれとも国労にあるのか、二者択一の議論に中間はあり得ませんね。

 国労は臨時大会を開いて、交渉が進展しない責任が国労の側にあることを認めました。解雇撤回を闘っている労働組合が、交渉相手の求めに応じて、交渉の進展しない原因が労働組合の側にあることを認めたというのは、多分前代未聞のことではないでしょうか。これによって、国労は北海道・九州事件の裁判の補助参加人から降りること、補助参加人に名乗りを上げた闘争団員と鉄建公団を訴えた闘争団員を除名することを義務づけられたわけです。つい数ヶ月前までは次のように述べていたにもかかわらず。「与党側がJR説得に責任を負い、雇用確保への具体的動きが出るまでは、社民党が国労に訴訟取下げを要請しないのは当然です。」「鉄建公団に対して一部組合員が個人の資格で新たな訴訟をおこしました。国労はこの訴訟とは全く無関係であるにもかかわらず、与党はこれを口実として解決作業をさらに遅らせようとしています。」

 大会では「これでボールは相手側に投げ返された。今度は相手が答える番だ」という議論もされたようですが、これは「まやかし」ではないとしても錯覚でしょう。前の手紙でも書いたように、少なくとも北海道・九州事件の裁判の取り下げと、鉄建公団訴訟の原告などの除名が実際に実行されるまで、相手側は何もしないでしょう。そして、その二つが実行されたあと、相手側にはそれこそ何も恐れるものはなくなるわけで、はじめて実質的なゼロ回答が示される可能性が生まれます。いや、彼らはさらに難癖を付けてくるかもしれません。全国単一組織の解体とか名称変更とか…、つまり、宮坂元書記長らが提起した「補強5項目」にそって、労使一体の連合路線に転換するまで。つまり、国労がみずからの手で自分自身を解体するまで。

 Aさん、これまで我慢してよく読んでいただきました。ひょっとしたらAさんは、「そんなことは分かっているよ。しかし、闘っても展望がない以上、いかなる収拾にも甘んじて、その水準から職場からの闘いをやり直すしかない」とおっしゃるかもしれませんね。どうでしょうか。

 しかし、国労に迫られているきわめて具体的な選択肢については、意識ある組合員は皆、次の大会までに態度を明らかにしなければならないと思います。本部は与党三党のもとめに応じて、北海道・九州事件の補助参加人と鉄建公団訴訟の原告を除名しようとしています。除名を認めるのか、認めないのか。これは本当の意味で最後の選択です。私は、闘い続ける闘争団員への生活援助金停止の撤回を求める訴訟の原告に加わりましたが、彼らに対する除名処分に対しても、それを許さないために、できる限りのことをしたいと考えています。Aさんが、立場の違いを越えて、労働組合が解雇された仲間を除名するという最悪の展開を回避するために声を上げていただきますよう、心から願うものです。

 さて、話は変わりますが、先日私は面識のない22歳の若者からメールをもらいました。私が分割・民営化当時のことを書いた「謡子追想」という小説を読んだといい、会いたいというのです。会ってみると彼は闘い続ける闘争団員と家族を描いた「人らしく生きよう-国労冬物語-」というビデオも見たといい、天下のJRでこんなことが起きていることを知ってびっくりしたというのです。彼はいま彼の持ち場で問題を抱えていて、仲間と一緒に闘っているのだと言います。私は私の書いたものや闘争団員と家族の闘いを描いた作品が、少数とはいえ、私の息子といってもいい世代に共感を広げていることを知って、とても幸せな気分になりました。先の手紙では半世紀も闘わねばならないようなことを書きましたが、もう少し楽観してもいいのかもしれません。「人らしく生きよう-国労冬物語-」は全国100カ所をめざして上映運動が始まっています。見て衝撃を受けた学生による学生上映実行委員会もできたようです。私はこうしたことに希望をもって頑張るつもりでいます。

 長い手紙を最後まで読んでくれてありがとうございます。(いや、読まなかったかなあ)。またお話がしたいですね。では。


Aさんからの返信

2002/07/09

 またまた長文のお手紙ありがとうございます。しっかりと最後まで読みましたよ。前回の手紙についても、ご返事を出そうと思いつつ、バタバタと過ごしていました。さて今現在でも解決に向けた動きは出てきませんね。先日の臨大で、こちら側が意思表示をしたからといって、むこうが直ぐに動き出すなどとも考えられませんでしたけどね。だけれども私はやはり国労が、解決に向けてのスタンスを崩さない意思表示は必要だったんだろうと思います。もちろんBさんの言うように、本部委員長の言葉は追従ととられてもしょうがないものもあったように思います。いつも言っているように私は本部を弁護しようとする立場には立ちませんが、委員長がなぜあのように言わざるを得なかったのかというふうには考えます。「外堀がしっかりと埋められている状況」の中で、国労のほうが追い詰められているとしか私には表現できませんが・・・。Bさんの言うようにこのままでは次から次へと新たなハードルがかけられ、敵は国労の解体、骨抜き状態をとことん狙ってくるのだろうと思います。その辺の事態認識にいつては、Bさんのおっしゃることに反論はありません。

 ではなぜ今具体的にどうするかというところでこんなにも差が開いてしまうのでしょうか。具体的な選択股に入る前に気になったことを書かせていただきます。私は先日の臨大前に「ここまできたら協議離婚しかないのか」というようなことを言いましたが、それはけして意見の対立するそれぞれの仲間の、まして私とBさんの寄って立つ基盤が違っているとは考えません。寄って立つ基盤というのが、これからどこに支持を求め運動を広めるかというような意味でおっしゃっているわけではないと理解しますと、その基盤とは、同じように搾取され、同じように差別・選別・そして競争の中で労働するその基盤(実はそれぞれの具体的方法や強弱は個別ばらばらではあるのだけれど、誰もがその状況にさらされているという意味では同じというこ、もちろん解雇撤回闘争を闘う闘争団は、労働する基盤は奪われているという意味で同じではないが、解雇を撤回させ、職場復帰を求めているわけであるから)は、まったく同じ物ではないとしても、それほど違いがあるものではないと思います。ましてこれまで国労運動を支えてきたという寄って立つ基盤は闘争団はもちろんのこと、国労本部にだってあると思いたいです。もちろん基盤という意味が私とBさんで一致していないかもしれませんから、何ともいえませんが、私には、同じ基盤の上に立ち、その前後左右の端に立ち、その違いを強調しているようにも見えます。たしかに解雇撤回闘争が、どんなに苦しくとも完全職場復帰まで闘うという結論と一定の到達点で妥協して次の闘いに繋げることとは、まったく違った闘い方になるでしょうが、闘いを継続させることに向いているのであれば、これとてそれほど違う基盤に立っているとは考えられません。うまくいえませんが、具体的にどう闘うかは、敵の状態、自分達の組織の状態、そして客観情勢の中で、様々に判断されながら、決められるのが正しいことなんだと思います。こう闘うべき、こうあるべきということだけでは難しいと思いますし、まして大衆組織である労働組合の中で、現在のような感情的な対立を続ければ(ここは本部の責任は重いが)、確実に組合員の気持ちは遠のくものだと考えます。また少なからず、この感情的な対立を利用して、政治扇動を強めようとしている諸党派の動きが大いにあるように思え、私にはより一層この問題を複雑にしているように見えます。しかし純粋に「どうしても許せない」「闘いたい」という思いを、踏みにじることは間違いだとも思います。それならば、協議離婚をしていくしかないのではないだろうかと、あの時点で思ったわけです。

 しかし、現時点で思うのですが、本部が本当に闘争団を真剣に納得させる気が合ったのかどうかは確かに疑問ですが、反対派闘争団の言動もすべて正しいとはいえないのではないですか。私の率直な気持ちは、どちらかが正しいとか間違っているなどと対立してる間に、どんどん国労は解体の方向に進んでいるのではないか、このままでいけば、闘う闘争団は少数の支援者(確かにBさんのホームページに投稿したような若者もいますが、現在進められている構造改革への抵抗としての反作用は、なかなか国労の解雇撤回闘争などを結集軸として進むような気がしません。それでも解雇撤回の旗を守りつづける意義はあると思うし、私自身はどの時点でも共に闘う立場でありたいと思うが・・・)とともに、展望の狭い道を歩みざるをえないのではないでしょうか。

 末端ですが、国労運動に身をおく人間として、そのような生き方を選択する方を間違っても批判するような真似はしたくないと考えますが、職場の仲間が自ら選択してしまうなら別ですが、職場の組合員にその道を歩ませたいと私はおもいませんし、職場の活動家として、そのような道を選択すべきでないと考えます。Bさんは職場の仲間を連れて行ってそこにいこうというのでしょうか?

 だからといって闘いを放棄するつもりはありません。Bさんの予想どうり、職場から闘う基盤は少しもゆらいでないわけですから・・・。

 しかし私自身、闘う闘争団が出来るだけ国労組合員として、共に闘えるのが重要だと思っています。様々な問題はあったとしても、数度にわたる全国大会や一票投票などの中に国労組合員全体の意識が反映されていると私は考えますから、いくら本部を悪者にしてもいいけれど、大会の結果は結果として受け止めながら、そしてどうするかを考えないと少なくない仲間は理解(納得)出来ないのではないですかね。このままでいけば、次期大会で闘う闘争団の仲間は除名になってしまいます。

 私は先日の支部分会長会議で全国大会総括の単位で発言しました。その趣旨は、『篠崎委員長の修正動議の趣旨説明はあれでいいのか、支部内には様々な意見があり、その中でどうするかという議論をこれまでしてきたのだから、その趣旨で意見を述べるのが組織の責任者ではないのか。まるっきり4党合意を否定する話だけでは、これまでの議論と矛盾する。またこのままでは闘う闘争団が除名されてしまうという、大会決定がされたわけだから、全国大会で、横浜の闘争団の発言にあったように、もし4党合意でダメだったならば国労全体で鉄建公団を提訴することとして、今現在の闘う闘争団の訴訟は取り下げるよう、説得するということを支部執行委員会で議論していただけないか。ある意味ではその説得が出来るのは新橋支部ではないのか』ということです。裏も表もありません。私は真剣にそう考えています。現在一部の闘争団だけが鉄建公団を訴えるという足並みの乱れは(もちろんこうなることは理解できるし、足並みの乱れはそれだけではないが)私たちにとって不利な状況を作るだけだと思いませんか。鉄建公団を訴えるのであれば、国労全体で取り組むのが大きなポイントのような気がします。

 遅くなってしまったので、支離滅裂になってきました。理解しがたいところも多いと思いますが、ご勘弁ください。問題は職場に労働運動の実態をしっかりと作り、私たち自身の足腰を鍛え上げることだと考えます。そんなところで本日はご勘弁ください。では・・・

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返信に添付されていた文書

 以下の文章はある所で報告したものです。お手紙の答えになるかどうか自信がありませんが、お読みください。(A)

押し寄せるOA化の中の職場

 現在山手線の各駅では、遺失物を手書き台帳管理からパソコン管理に変更しています。遺失物がPC管理されると他駅で保管されている物も検索できるため、忘れ物を捜査する作業は簡単になる反面、各駅の遺失物の管理自体は大変になっています。これまで二人で手分けをして出来ていた作業が、PCでは入力・登録・印刷の作業を、一人でやらなければならず手間が掛かりますし、なにより今までPCとは縁の無かった年配の仲間が一生懸命、右手の人差し指を駆使して入力しているのです。

 この遺失物のPC化の教育期間中に考えさせられたことがあります。教育方法は10人(8割が国労)のホームの社員の中で、3人を選抜し支社で日勤研修を行い、その3人が先生になって、約2週間の教育期間を設定し、非番の時、超勤で一時間程度の勉強会をもうけながら、また列車の間合いなどを利用し覚えていくことになっていました。

 研修に参加する3人を選抜する時のことです。これまで遺失物整理の総括担当して、みんなから『部屋長』と呼ばれている古株の国労の仲間がいまして、当然のことながら3人のメンバーに入っていたのですが、ある日の勤務交代の時「PCなんて触ったことも無から、どうしても研修に行きたくない。三徹になってもいいから、変わってくれないか(その仲間は、私と勤務を交換すると三連続の泊まり勤務になるにもかかわらず・・)」と言ってきました。急なことで真意がつかめず、つい「研修に行かなければ、やらなくてすむ仕事じゃないんだから。それにやっぱり代表は『部屋長』でしょう」と言ってしまいました。部屋長は「そうか、わかった」と言って帰っていきました。後でよくよく考えてみると、いつもいやだと言っている三徹をやると言うのだから、よほどいやなのかと思い、前日一緒に勤務した別の仲間に話を聞くと、「真剣にPCを触りたくないみたいだぞ。まして『一日の研修で、人に教えるようになる自信は無い』とも言っていた」と言うことを聞き、「そんな気分もあたりまえだよなぁ」と思い、再度部屋長と話し、私が研修に行くことになりました。

 その後2週間の職場での教育期間(5/7~20)が始まりましたが、部屋長を含め古株の国労組合員の出席がよくなく、中々PCに触ろうとしないのでもどかしさも感じていました。逆に東労組の青年たちは、ある程度PCには慣れ親しんでいるからでしょう、どんどん入力作業を吸収し、入力スピードも上がっていきます。教育期間もいよいよ終盤に差し掛かる頃開催された分会執行委員会(5/15私は勤務で出席できなかった)で、この古株の仲間たちは、新しいシステムに対する不安とともに「もっと教育を充実させないとだめだ」との意見を述べていたようです。私は、翌日この話を聞き、正直「なんと矛盾した話だ」と思いましたし、5/24からは実施されると言うのにどうするのだろうと心配してしまいました。その後5/17に、その執行委員会で思いを語った古株二人と私の三人がたまたま一緒の泊まり勤務になり、一日付き合って様々考えさせられました。列車の間合いの時間を見計らって、「少しPC触ってみますか」と話し掛けると、「しょうがねえなぁ、やってみるか」と動かし始めました。もちろん教育期間中にすこしは触っていたようですが、1件の遺失物を入力するのに30分近くも掛かってしまうその姿を横で見ていると、この仲間たちが「PCに触りたくない」と言う気持ちが少し理解できるような気がしました。

 ある程度の流れを教え、私は自分の仕事に取り掛かっていたのですが、二人の仲間は時間を見つけては、何度も入力の練習をしていました。夜になってふと入力件数を見てみると、13件にもなっていることに驚き「よくこんなに入力しましたね」というと「もう夢中だよ、やるしかないからなぁ」とこたえていました。一生懸命やっているのだからと思い、その他遺失物の引渡し方法や管理の仕方なども教えながら、「どうしてこんな面倒なシステムを作るのかな」などと文句を言いつつ、少しでも簡単に取り扱える方法や、苦情が出ないようにするためのルール作りのこと、勤務上の問題点なども話し合うことが出来ました。

 この先輩の中にある思いはどんなものであるのか、また先輩たちの姿をどう見るか、どう捉えるのか、長年変わることなく続けられてきた、遺失物の作業が変更され、それもPC化される。仲間の中には、様々な不安と動揺、そして出来るなら触りたくないと言う思い、しかしついて行かなければ、職場からはじかれてしまう現実も感じているはずです。様々な思いが個人の中で絡み合い、あるときは反発しあっているのではないか、そして、ある場面では『出来れば触りたくない』という思いが強くなり『冗談じゃない』という言葉を発し、他の場面では『やるしかない』という思いが別な姿を作り出しているのではないかと思います。部屋長が「新入社員なんかパッパだもんな」とつぶやいていましたが、キーボードの文字配列で悩んでいる年配者の横で、半月前に入ってきた新入社員が、涼しい顔で入力していけば、長年仕事をしてきた自信もプライドも揺らいだことと思います。ましてそんな若者と一緒に教育など受けたくないという気分があっても当然だと言うことも今なら理解できます。複雑で矛盾しているとしか思えない仲間の言動も、実はその個人の中では統一されているのではないでしょうか。自覚されているか無自覚なのか、積極的か消極的かは別として、そのような思いの中で、様々なことが判断されているのではないかと思います。私は判断された結論も大切だと思いますが、様々な思いの中で動揺したり、矛盾した言動をしたりする仲間の姿にこそ、学ぶべき課題が数多く含まれているのではないか、そして私たちが職場の情勢を見るとき、一面的な、または結論的な仲間の姿だけ判断するのではなく、何重にも複雑に絡み合った思い・姿を見落としてはいけないのではないかと思います。

 現在の後退的な情勢にあっても、私たちがこの複雑な思いや姿を見ることが出来れば、少しでも幅広く、少しでも柔軟に、少しでも具体的な方法で、仲間と繋がっていける線が見つけ出していけるかもしれません。私にとっては、みんなが不安に思っているPC化を少しでもわかり易くしたり、トラブルの起きそうな問題点を整理したり、教育の遅れてしまった仲間の教育時間を交渉したり、大変になっているところをどう改善するかをみんなと考えあったりなどの具体的な取組みを進めることが繋がっていける線だと思っています。

 しかし、職場の合理化攻撃はますます激しくなります。施設職場などはメンテナンス合理化が進められました。次は駅など営業部門で1万人を削減するとしています。改札口はいまやスイカなるICカードでタッチ式で通過できます。チケットレス・キャシュレスが利用者の利便性を追求した形で打ち出されていますが、切符も現金精算も減ることによって社員を大幅に削減し、契約社員・パート社員の導入を目論んでいることは言うまでもありません。たしかに現時点で、PCを使えるようにならなければ、職場には残れません。だから覚えざるをえません。しかし遺失物のPC管理などが進めば進むほど、私たちの仕事も集約される方向に進むだろうと言うことは、私だけでなく、仲間にも意識されています。「リストラの階段を上るようなもの」と言った仲間もいます。合理化にどこまでも反対するか、それとも生き残るために会社に着くのかと言う結論で今の職場を判断しようとすれば、仲間同志がいくつにも分かれてしまうでしょう。確かにすでにいくつかに職場は別れつつあるのも事実です。しかし様々な不安や動揺が渦巻きながら、仲間の言動も左右にぶれながら、進んでいるのも職場の情勢です。この様々な不安や動揺を捕らえた討論や交流(実際には形式的なものではなく、世間話などの日常の会話などが重要なのではないか)、少しでも多くの仲間を巻き込み横に並んでもらえるような?具体的実践が大切なんだというのが私の問題意識です。そしてこの積み重ねの上にこそ職場の団結再生があると考えていますし、団結を再生させない限り、職場の合理化は止まらないと考えます。だからこそ現在の状況の中で、出来うることをしっかりと取り組みたいと考えています。

国鉄闘争を職場の状況から考える

 この間数度の全国大会と激しい議論を経過しながらこの国鉄闘争は進んできました。国労本部と『闘う闘争団』の亀裂が深まる一方で、職場では段々解雇撤回闘争の問題が、語られなくなっていきます。4月末与党三党が、四党合意についての考え方を示したのをうけ、5/27臨時全国大会が開催されました。臨時大会前後ではそれなりの話になりましたが、それまでは『あまり話したくなく話題』であったのも確かです。「まだもめてるの?」というのが、職場の組合員の気分を率直にあらわしたことばかもしれません。「結論は出たはずじゃないの」「かといって闘争団のことを切る訳には行かないしな」「解雇撤回もいいが、職場の問題を何とかしてよ」「このままでは国労はなくなるな」個人によって温度差はあるとしても、このような気分が、個々の組合員に渦巻いているように思えます。また私自身も例外ではありません。

 『与党三党「四党合意」破棄か』と報道された時、40才台後半の国労の仲間であるBさん(以前は○○系の活動家として、要員機動センターなどの職場を転々としてきた。党派活動の第一線からは退いたようだが、「労働運動は職場から」というこだわりを持って、国労バッチをはずし、4~5年前同じ職場に配属になった)がきて「やはり四党合意の選択は間違いではなかったのか、国鉄労働者の名誉回復のために20年闘い続けなければ・・」と言うのです。私は「それでは国労はなくなってしまいますよ」というと、B「闘うといっている人を切り捨てるのは正しい道ではない」、私「闘うという人ばかりでなく、『まだ闘うのか』と言う動揺した気分を持っている組合員も多いはず。この仲間を切り捨てることにならないか」といった議論もしてきました。

 また国労本部は、全国大会で決定した方針に従わず、鉄建公団を独自に提訴し、独自の財政や事務所を作り始める『闘う闘争団』に対して、査問委員会の設置と生活援助金の打ち切りの動きを見せていました。Bさんは5月の分会執行委員会で、「毎月払っている1000円の闘争団カンパが、一部闘争団(闘う闘争団)に支払われないことになる。自分のカンパを公平に使ってほしいと国労本部を提訴したいと思っている」ということが報告されました。Bさんは率直に、そして誠実に物を言う人で、執行委員会に出席できなかった私にも、自分の気持ちを報告してくれました。私は「確かに本部のやっていることも不正常だと思いますが、自分の組合を訴える行動も不正常だと思いますよ。このままだといつ正常な状態になるんでしょうね」というと「確かに正常じゃないけど・・・。今回闘いたいと言う人を守るため、訴えを起こすけど、本当は、自分も国労は会社と和解するべきだと思うよ。そう思ってなければ、バッチはずして本務になんか戻ってこないよ。でも許せないこともある」という趣旨のことを言っていました。Bさんは「でも許せないこともある」ということを強調したかったんだろうと思います。しかしBさんのような生い立ちの方でさえ、様々な複雑な思いの中で、様々な判断をしていると言うことがわかりました。もしBさんの行動が先導的であったならこのように落ち着いていられるとは思いませんが、現時点では様々なことが話せるのですから、ともに取り組める課題はいくらでもあるはずだと思っています。

 今回の臨時大会を前後した職場の声は「国労も労働組合なのだから、素直に職場の労働条件改善の運動を大切にするべきだ、解雇撤回だけでは現場の組合員は着いていけない」「仲間を孤立させることは避けなければ・・・」「決まったことに従わなかったら、きられるのは当然、早いとこ切るとこ切って、若者が入ってくるような組合を作んなかったらどうすんの」「闘争団が切られていいとはならない。鉄建公団の訴訟はいったん取り下げてもらうためにも、もし四党合意でうまくいかなければ、国労全体で鉄建公団を訴える構えだって必要だ」「どっちの道を選択しても厳しいよな、このままでは国労はなくなっちゃうよ」「そもそも両者が歩み寄れる段階は過ぎているのではないか・・」などです。

 国労大会の結果はみなさんご存知でしょうから触れませんが、このような混乱した状況の中で一つの方向が選択されました。選択された結果も事実ですから、そこから出発した議論も必要でしょう。しかし私はそれに終始するつもりはありません。一番身近にある職場の事実の中で沸き起こる仲間の複雑な思いや姿をとらえながら、団結再生のための具体的運動を職場から作ることこそ、国鉄闘争の強化・発展の道なんだと考えています。