ミニコミ index へ

【労働情報 --1999/04/15-- より転載】

これからが正念場・解決に責任取らせる

---------------------------------------------
譲れない要求の鮮明化へ!!
金児順一さん(国労闘争団全国連絡会議事務局長)に聞く
---------------------------------------------

■■ 臨時大会を前にして ■■

 Q−−臨時全国大会で国労は改革法を認め、同時に政労交渉で採用差別問題の解決に当たることを決めました。この点について今闘争団が抱いている思いを話していただきたいと思います。

 臨時大会は三月三日の四者会談(自民党・村岡幹事長代理、同・武部副幹事長、社民党・濱田政審会長、国労・高橋委員長)で「解決の道を開くことができた」ので、三月十八日に開かれることになりました。正直なところ突然、決まったみたいなこともあったが、闘争団の全国幹事会を召集することになり、宮坂書記長に報告してもらいました。

 臨時大会でもそうですが、一番知りたいのが、判断に至った根拠である「目途」は何を指しているのかという点です。しかし、事件の性格上と今の国労を取巻くさまざまな状況(妨害も含む)の中での政治折衝だから、中身については触れられない、従って信頼してほしい、と書記長は言う。一番かゆいところに手が届かない状況です。本部が「目途」という場合の中身は当然、政府の責任での解決であり、従って政・労・使の解決交渉のテーブルを責任を持って設定すること。この確約を取れると、これが「目途付け」の中身ということになる。

 やり取りの中で、そういう理解でいいのかと確認すると、「そう受け止めてもらっていい」ということでした。だから強調していたのは、どう政治を動かすかという点です。政治を動かすことで政府が動かざるを得なくなる。政府が動くことで行政が動く。政治−政府−行政というイメージの中で考えている。逆に行政が先に出てくるような状況になれば、これはろくな内容ではないことになる。たとえば運輸省が前面に出た中で解決ということになった場合、官僚の体質からして自分たちのミスを認めることはあり得ない。むしろ彼らをそうせざるをえない状況にどう追い込んでいくかが重要で、その意味において最後になるわけです。

 しかし、政府を本気で動かそうと考えた場合、現在は自民党政府なわけだから、自民党との関係で担保が取れなければ政府としても動けないという問題があります。それをクリアーするために国労本部としてやってきた努力なり仕事が当然あって、その中で三日の結論に至ったということです。中身をまだ言えないだけに、本部はそういう説明にならざるを得ないのです。

■■ 改革法への拒否感と争議の狭間 ■■

 昨年の全国大会の中で補強五項目方針が出されて激論になり、結論は継続ということになりました。その後、各現場から−国労の歴史が始まって以来、初めてだと聞いていますが−二〇〇を越す意見書が寄せられて、闘争団としても様々な意見書が上げられてきました。一つ一つの反対、賛成問わず、組織がある意味では激しい議論をしてきたという経過からすれば、単純な判断はできないわけです。昨年の十一月十八日に総団結のアピールを本部として出していますが、それは現在も生きていて、その立場で物事を進めていることを信頼してもらうしかないと書記長は言うわけです。

 そうした経過の中での判断ということで言えば、闘争団としても率直に受け止めましょうということになりました。ただ当事者という立場に立てば、労働争議の解決局面におけるつばぜり合いの、一番のポイントに本当に差しかかっているのか。正直に言ってその実感をもう一つ持ちきれない。信頼してくれと言われても、本当にそうなのかというのがやはりあるわけです。各団の中はきれいにまとまっている状況ではないし、それはそれで丁寧に議論していかなければならないという話になったんです。私もそうだけど、「改革法を承認しますか」と言われたときに、現場の当事者である我々の認識は、改革法で首を切られたという実体験からくる感覚があるわけです。だから、論理的な理屈の前に感覚として、「冗談じゃない」という抵抗感があります。

 ただ、もう一方で争議として始まったこの闘いの側面を考えた場合、私たちの要求の水準に向かってどう解決させていくかが求められています。よく言われるように 「解決済み」ということで全く相手にされないところからスタートして、十二年たった。その過程ではリップサービスかどうかは別にしていくつかの節目はあり、変化もそれなりにあった。ただその中でネックになって突き付けられてきたのは、「国労は改革法を承認するのか」という迫り方です。

■■ 判断した瞬間から重要局面へ ■■

 そこで、それ以上でも以下でもないという意味含いで国芳は認める立場をとった。では闘いを放棄するのかというと、そうではない。文字通り我々は闘わなければならないし、なおかつ本部を中心に指導部もそう言っているわけだから。相手側が唯一の口実にしていた承認問題をこちら側はあえて飲み込んだ。飲み込むことによって、具体的に解決に向けて責任を取ってもらいますよ、ということになる。それ以上でも以下でもないということです。持っている気持ちとはまた別に、労働争議という場面の中でみていこうというのが、全闘争団の共通した、一つになりきっている気持ちかと言えば、そういう状況にはまだなっていませんが、少なくとも私はそう理解しています。

 判断した瞬間から決定的に重要な局面が始まりました。勝負に出たわけだから、一斉にJR各社のコメントが新聞に載ったわけです。まさにこっちが想定した通りの動きで、各社は国労が方針を決めたことは評価しつつも、問題はその方針に基づいて、組合員にこれからどう周知徹底させていくのか、それを見届けなければ何とも言えないと言い始めたわけです。それは彼らの一つの理屈です。

 我々の側は逆に、改革法を認める立場をとったことによって、相手側の思惑である国労の路線転換とセットにはさせない。こちら側はきちんと担保して闘いをやっていくことだと思うのです。組織内で約束した、しないというレべルに留めないで、運動自体でどう渡りあっていくのかが、勝負に出た我々に問われているのではないかと今、頭を切り換えているところなんです。

 それにやはり、十二年というのは重たい時間ですね。その中で事実として闘争団員、その家族一人一人が抱えている実情や実態の変化だとか、まさに人としての人生そのものが経過した時間だから、それはあまりにも大きい。その意味で受け身であってはならないし、また誰かが解決してくれるわけでもないと思うのです。本当に解決したい、解決を勝ち取るということで、仕掛けなければいけないときは当然仕掛けていく。闘いですから絶対安全とか絶対大丈夫などという保証があるわけでもない。しかし、国労として結論を出して前に進むとなった以上は、むしろこれからが正・念場であり、言われている事柄をどう本物にしていくかが問われています。我々にすればこの12年間を無駄にしないという意味での運動形成にかかっている、とそういう場面だと捉えているんです。そういうことで、団の中で集中した体制なり闘いにしていかなければと今改めて思っています。

■■ 担保無しじゃいけません ■■

 もう一つ付け加えるなら、そうは言っても、あれだけの議論になって、再三にわたって改革法を認めることを含む「補強五項目」について承認するべきじゃないという意見表明があり、その上で認める立場をとるという結諭に至っているわけだから、この半年ちょっとの中でのやりとり、論争をどう整理するのか。それがきれいにできているとはみんな思っていない。当初あった何の目途も担保もなしに認める、そうすることで国労の解決へ向けての積極的な意欲を示していくんだ、という理屈に対して、それは闘いじゃないだろ、という思いがありました。もちろんその段階でも本部がそう判断するんなら仕方がないという意見が闘争団の中にあったのも事実です。しかし、大半がそれじゃあまりにも博打ではないのか!と。労働争議の原則から言っても、何の担保もなしにいきなりってことはないんじゃないの!と。レべルが高いか低いかは別にして、そういう率直な思いがありました。昨年八月の全国大会では闘争団の神宮議長も「担保なしじゃやっぱりいけません」と発言していました。

 ところが今回、本部としては「目途」、我々の言葉では「担保」になるが、その目途付けができたと判断した。この判断は担保なしでも従うんだという論理で半年間ずるずるきて、結局、なんだか知らないけれど決めたのとは流れが違うと見ていくべきじゃないか、という気はしているんですが。

 大会に向けてはそんな思いで臨んだんですよ。複雑といえば複雑だよね。複雑だけど、この問題から逃げるわけにはいかない、ということが当然あります。

■■ 委員長発言を聞いて ■■

 Q−−臨時大会での高橋委員長挨拶をどう受けとめましたか。ちなみに委員長あいさつでは「解決の道を開くことができた」ので改革法は認めるが、今やっている高裁の裁判を下ろすことにはならない。それから最後の方に「改革法を認めたとしても不当労働行為を認めるという話ではない、不当労働行為については断固として闘う」と言っています。それともうひとつは一、二、三とあって、一つ目は「闘争団の思い」。JRによる不当労働行為の結果、自殺に追い込まれた国労組合員のことも含めて、過去十二年間を「私はこのように掌握しています」。二つ目に共闘との関係なんかも含めて国鉄闘争を改めて社会的な闘争にしていかなければという決意表明。三つ目に労使関係の問題、とだいたいこういう流れになっています。

 どう受け止めたか、どう聞き取ったかは、それぞれの問題意識によって違うと思う。私は近くにいたせいもあるけど、委員長自身が全国大会から今回の臨時大会に至るまでの半年ちょっとの中で、組織が二分するなどして非常に揺れた状況に遭遇したわけでしょ。いつ臨時大会という判断をしてもおかしくないぐらいに組織の動揺が激しい時期があったわけです。そういう中にあって、単に原則論を言っていては片付かない問題で、現実に委員長自身が触れている通り十二年という重い時間が経過して犠牲も強いられている、そういう中では何より一日も早い解決を、ということで考えているわけです。そうであるだけに、何の担保もない中で突っ込むことはできない、そういう委員長自身の葛藤と思いが凝縮されていたと感じました。

 その中で、この闘いは結局、国鉄−国労闘争の次元だけじゃ終わらない歴史的な闘いだという自覚を一層深めなければならない。それなしに、これからの大変な難局を乗り切っていく闘いの質は作れないという提起であったと思います。

 組合員のそれぞれ置かれている位置からその提起をどう解釈するかだけれども、闘争団の立場からはどうしなければならないのか。闘争団は全面解決要求の立場だが、単なる要求の羅列ではなくて、一人一人が何のためにがんばってきたのかを含めて、こうしたいということについては、きちっとしてもらわないと困ると言われているような気がしました。だからその意味で「全面解決要求の具体化」を図っていかなければならない。その具体化の中で出てくる一つ一つの要求はどれ一つをとっても大切な要求だと思うので、そういう位置付けで十二年たった実態把握を改めてしなければならない。それがひいては体制の再強化につながるのではないか。ここで言う体制とは生活も闘争も含めてです。

 争議は宝くじとは違うわけで、当たれば儲けではないわけでしょ。そうすると譲れない要求はこれだ、というものを改めて鮮明にしたときは、同時にその要求を実現するためには何をしなければならないかがセットされているわけです。要求を示すことと、それに伴う闘いには自ら積極的に参加することが義務付けられている。切実な要求とともに問われる構えや決意や具体的な実践、このへんが十二年たって一人一人改めてどうなのか、ということをしっかり考えてほしい。そういうことを凝縮された過去も含めて委員長の感性でしゃべったんじゃないかと思うんです。

■■ 認めたのだから責任を取れ ■■

 臨時大会についての私の認識ですが、改革法を認めるとはそれ以上でも以下でもない。それで相手が噛み合うというのならそれで噛み合わせる。しかし改革法を認める以上は、次の点にかんする明確な態度が必要だと思います。改革法を成立させる過程では採用に当たって労働組合間の差別があってはならないという付帯決議までした。しかし、自ら立法者の意思として示した不当労働行為問題が現実問題になって、それは第三者機関の中からも明らかにされてきた。だから、改革法を認めたから何も言えないという論理ではなくて、認める以上はあってはならないこの問題についてきっちり責任を取ってもらいます、ということです。ある種の宣戦布告じゃないけど、国労としての態度を委員長の言い方で言ったんじゃないかという気がします。

 あとは理屈の世界ですよね。改革法の中には不当労働行為の免罪なんて書いてあるわけではない。これは東京高裁で今争っている最中です。そして事あるごとに相手側は訴訟を取り下げてほしい、と主張する。遡れば二〇二億円(七五年のスト権ストに対して国が国労に対して起こした損倍訴訟。九四年十二月、和解成立)のときにもそういうやり取りがあったと聞いています。相手の思惑からすれば当然だと思うけど、そこをきちっと切り離していく必要がある。

 向こうは「認めたんだから態度で示せ」という論理だろうけど、「認めるということは責任を取ってもらう」というのが逆にあるわけです。現に訴訟という争い事が起きているという事実が存在する。争い事の事実がなくなれば自ずと取り下げることにもなるが、それが存在している以上、取り下げることは絶対にしません。これは至極当然のことだと思います。認めたから責任を取ってもらうというのは別に論理矛盾ではないと思うんですよ。

 その上で今、闘争団として何をやっているかですが、一つは今言った状況・情勢として、正しく徹底して伝えること。それはかなり浸透し始めてきているんだけど、問題はそれに基づいて、一人一人の譲れない要求というのは何なのか、別の表現で言えば「具体的な要求の鮮明化」です。十二年という事実があり、それを無視しての解決はないと思うわけです。全面解決要求という大きな枠組みがあるわけだから、それを踏まえた具体的な要求ということで、今議論を深めているところです。

 「譲れない要求」を鮮明にしていく過程でJRに戻ることを意識することなり、その場合のJRがどういう会社や職場なのかを改めてどう捉えるか。その中で起きている国労および労働者のおかれている状況・実態をどう考えていくのか、です。今度は自分の問題としてそこを捉えていくのです。そのときに全体・周辺で起きている労働の状況や、そうした労働法制全体の政策として労働省が行っている問題が、闘争団とはまた違った位置で、一つ一つの事柄を自分に移し変えて考えて行けると思います。それが問われるだろうし、そのことを議論できる状況になっていくという気がします。


先頭へ