(2016/10/23 facebookで公表)
10月21日、京都精華大学で行われた山本義隆氏の講演会「近代日本と自由-科学と戦争をめぐって‐」に行きました。およそ300人ほど(もっと多かった?)の人たちが参加していました。主要な参加者は全共闘世代の男女…、60代後半の方々が大半でした。(もう、皆おじいさんとおばあさんですね)。大学主催の講演会なので、学生スタッフのほか、現役学生の参加者もいましたが数十人だったように思います。
元東大全共闘議長である山本義隆氏について、私は「東大闘争敗北後、社会的な発言を一切せず沈黙してきた人。ここ数年来、ようやく沈黙を破って発言を再開した人」とだけ理解してきました。「非常な秀才で、闘争がなければノーベル賞も夢ではないと将来を嘱望されていた人」という、出所のさだかでない噂とともに。それで、勝手に「孤高の人」「切っ先鋭い刀のような、冷たい影のある人」のように思い込んでいたのです。
そんな私は山本氏にぜひ質問したいことがありました。(講演後の質疑の場で発言するつもりはありませんでしたが…)。
「東大闘争をへて、大学での研究者の道を放棄したことに後悔の念のようなものはないのか。あの時代、闘いに参加することが、たとえ必然であったとしても」
それはもちろん、高校を中退して上京し、「労働者になる。労働者になって革命をおこす」という思いで(大間違いでしたね)、国鉄に入った私自身の人生を踏まえた質問でした。私は、山本義隆氏は自分の人生の選択について何かを語るのだろうか、と思いながら講演会に行ったのです。
しかし、もしゃもしゃした白髪に、やはりもしゃもしゃした白い顎鬚を生やした山本氏が、ジーパンにラフなシャツ姿で演壇に立って、柔らかな関西なまりで話し出すとすぐ、私が抱いていたイメージが勝手な思い込みに過ぎなかったことがわかりました。(私はなぜか山本氏は固い標準語で論理的に話す人だと思っていた)。山本氏は講演で、日本の科学技術を支えてきた東大を頂点とする研究者と技術官僚の実態を容赦なく批判しましたが、その語り口は、私が何となく想像していた「冷たい刃」のようなものではありませんでした。お話は自信に満ちていましたが、切羽詰ってなどいない、まして屈折などしていない、余裕や遊び心すら感じられる柔和な口調でお話は続きました。
私には、そんな山本義隆氏が「人の好さそうなおじいさん」に見えました。そして、その柔和な語り口には、東大闘争をへて予備校講師となり、もうすぐ75才を迎える自分の人生をにたいする自信が裏打ちされていると思えました。私は、山本義隆氏に対する私の思い込みが外れたことが嬉しくなり、自分の人生を楽しんでいるようにすら見える、山本義隆氏のお話を聴きながら幸せな気分になりました。
「孤高の人」「切っ先鋭い刀のような、冷たい影のある人」という、私の勝手な思い込みは、もちろん、私自身が拭えないでいる思い、日ごろ感じている「大間違いの人生でもこんなに幸せでいいのか」という思いが、たとえ嘘偽りのないものだとしても、その裏側に張り付いている後悔の念の投影であることは論を待ちません。
昨日の講演会で、今や「人の良さそうなおじいさん」となり、自分の人生をしっかり肯定し、自分の人生を楽しんでいる(ように、私には見えた)山本義隆氏に会えたことで、私は、私自身の生きてきた道を、前よりも、もう一歩肯定できるようになった気がしています。
実は、講演のあとの質疑で、若い参加者から私の聞きたかったことに近い質問が出ました。
「1968年、東大闘争のさなかに、闘いと距離を置いて卒業した◯◯氏が先日ノーベル物理学賞をとった。山本氏が、もしノーベル賞をとったうえで、今日のように、お上と研究者、官僚による科学技術至上主義を批判したならば、もっと世間は山本氏の論を尊重すると思うのだが…」
山本氏は苦笑しながら、「山本がノーベル賞をとれる逸材だったと言うのはマスコミの作った虚像です。無党派ゆえお鉢が回ってきた全共闘議長として投獄され出獄したときに、プラスにもマイナスにも虚像を大きく膨らませたのはマスコミです。私は、お前ら人の人生をこんなにおもちゃにしていいのか! 許せない! という思いでマスコミを遮断してきたのです」と答えました。「山本義隆について、世間に出回っている風評のほとんどはデマです」と付け加えて、会場は笑いに包まれました。
私にはそんな山本氏は謙遜しているように思えました。そして、やはり、山本氏には「人の好いおじいさん」になるまでに、様々な葛藤があったのではないかと思いながら、会場にいた人々と一緒に笑っていました。
長い年月、長い人生の果てに「人の好いおじいさん」となることが出来るならば、歳を重ねることは悪くない、素敵なことですね。
山本義隆氏の講演は明治維新以降の日本を1945年までの天皇制絶対主義の時代と、それ以降の民主主義の時代に二分する歴史観(=普通の歴史観)は間違っているのではないか、戦前は、国家主導の科学技術発展を通じて「富国強兵」がめざされたが、戦後日本は、軍事力こそ制限されたものの、科学技術発展を通じて国を富ますことが追及されてきたという意味では、同じ過程が続いているという指摘から始まりました。
戦前と戦後を二分せず、天皇制国家の枠組みが戦後も貫いているという考え方は、今では新しいものではなくなっっていますが、戦前、総力戦体制に組み込まれて発展した日本の科学技術が、経済的な国力増大に目標を変更しただけで、戦後も、その人的な担い手(=東大を頂点とする研究者と技術官僚)まで含めて継続し、一方で国家に奉仕しつつ、一方で民を犠牲にしつつ「発展」してきたというお話は極めて具体的でした。
氏は、そうした「科学技術の発展」=善という考え方に初めてNo!を突きつけたのが、1968年をメルクマールとする世界的な闘いであり、2011年の福島原発事故こそ、そうした考え方、そうした社会の在り方がもはや破たんしていることを、事実を通じてわれわれに突きつけたのではないかと述べました。
成長の条件を喪失した現代資本主義にかわる「ゼロ成長、ゼロ失業」社会。故塩川喜信氏の著作を借りて表明された山本氏の展望は私にとって非常に納得できるものでした。
山本氏の講演会と並んで、10月19日~24日まで、京都精華大学では10・8羽田闘争で殺された山崎博昭君を追悼する「ベトナム戦争とその時代」展が開催されています。(一つ前と二つ前の投稿参照)。 私たちの闘いを若い世代に引き継いでいくことは、今は非常に困難なように思えますが、しかし、大学という公共の場で、このような催しが行われることは非常に貴重なことだと思います。展覧会はまだ継続中です。お近くの方はぜひお越しください。