早川謡児
一九九〇年八月
ソ連でのペレストロイカを背景として、一九八九年に東欧で起こった民衆革命は、スターリン主義官僚体制が、民衆の手によって葬り去らねばならない非人間的な抑圧の体制であったことを、事実をもって完膚なきまでに明らかにした。官僚専制のもとでは、ときに命がけであった第四インターナショナルの主張は、その点においては一点の曇りなく証明されたのである。しかし、東欧民衆革命が、第四インターナショナルが構想した政治革命ではなく、当面、西欧資本主義への融合・統合に行き着く民主主義革命という政治性格をもっていたことは、第四インターナショナルの政治的な立脚点をも大きく揺さぶるものであった。ソ連・東欧の事態をどうとらえるか? 先入観なくこのことを考え続け、われわれの従来の理論を再検討することの中から、われわれの過去と現在を総括し、未来を構想しなければならない。
東欧各国での自由選挙の結果と、誕生した新政権の(経済)政策によって、一九八九年に東欧で起こったことが何であるのか、一定程度判断できるまでに事態は進展した。
東ドイツでは保守のCDU(キリスト教民主同盟)が大勝し、人々は西ドイツ資本主義への併合を選択したが、ポーランド、ハンガリー、チェコでも自由選挙で旧共産党が敗北し、民衆革命を主導した勢力が政権を握った。ブルガリアだけは旧共産党=現社会党が過半数を確保して政権を維持した。また、ルーマニアで過半数を獲得した救国戦線の政治性格があいまいなのは、他の東欧各国のような、下からの民主化を支える勢力が未成熟であったからであろう。自由選挙で誕生した政権は、ポーランド・ハンガリー・チェコで、それぞれ「市場経済への移行」をめざす緊縮・耐乏政策を展開している。ポーランドでは、連帯によって押し上げられた知識人による政権が、蔵相の名をとったバルセロービッチ・プランという超緊縮政策を展開(補助金のカット、金融引締め、民営化、ズロチの切下げ、貿易と為替の自由化、賃金凍結)して、一時的には年率千パーセントに達したインフレの下で賃金が凍結されている。ハンガリーでも財政赤字の削減、企業への補助金の五分の一への削減で物価が上昇し、労働者の六割の生活が低下している。ハンガリーの蔵相は「モデルは西ドイツである」と表明し、すでに株式市場が誕生している。チェコでは、漸進的改革を主張する副首相に対して、急進的改革を主張する蔵相の路線が勝利し、食料品などへの補助金が大幅にカットされた。ルーマニアだけは価格体系の改定に数年をかける漸進的路線をとっている。(ブルガリアの資料は見当らず)
ポーランド・ハンガリー・チェコの各国では、経済の責任者にマネタリストが座っており、国営企業の民営化をはじめとする「市場経済への転換」とは、客観的には、再資本主義化と西ヨーロッパ資本主義への融合・統合を意味している。
しかし、疲弊した中央統制型計画経済の市場経済への転換は容易ではなく、すでに様々な矛盾が表面化している。東ドイツでは大量の失業者がすでに生れているし、各国で、国営企業の民営化にあたって、民間に資本がないことから、従来の官僚がどさくさに紛れて資本家に転化する、法外な安値で売却する、西側資本による買収が問題化するという事態が報道されている。各国とも、通貨の国際的な交換性を確保し、世界経済と国民経済の有機的な関係を作りだそうとしているが、そのためには、国家財政からの補助金に頼る、いびつな価格体系から脱却しなければならず、補助金の廃止にともなう猛烈なインフレーションによる国民への犠牲の転化は、どの国でも不可避なように見える。
こうした事態に対する様々な批判はすでに生じている。ポーランドでは生みの親である「連帯」と政府が分裂し、ワレサは、先日の連帯第二回大会で「知識人を信用したのが間違いであった」と、マゾビエツキ政権を批判し、大統領選挙への出馬に意欲を見せた。また、東ドイツの総選挙でのPDS(旧社会主義統一党)の善戦は、急速な西ドイツへの併合に対する東ドイツ民衆の不安を表明したものであろう。しかし、こうした批判は、市場経済への転換という全体的な方向性に対する対案を欠いていることによって、総体としての方向性を左右することの出来ない、部分的な批判にとどまっていることに注目しなければならない。ワレサの政府批判が、政策的な批判ではなく知識人批判という情緒的なものであることは象徴的である。
東欧においては、今後、市場経済への転換を進める政府を軸にして、テクノクラート、労働者、農民といった様々な国民各層の利害にまつわる要求や抵抗が表面化し、その混沌の中から、いわゆる「混合経済」の様々なバリエーションが生れてくるのではないだろうか。
もちろんその過程は、EC統合によってさらに優位に立つであろう西ヨーロッパ資本主義への従属の過程であり、現在の東欧各国政府が考えている市場経済への転換が首尾よく成功する保障はない。むしろ西欧資本主義へ「植民地」的に従属していく可能性が大きいかもしれない。しかし、八九年から九〇年にかけて、東ドイツ・ポーランド・ハンガリー・チェコの各国民が、自由選挙を通じてその方向を選択したこと、そして、その方向性に対する現実的な対案が、どこからも提出されていないということは確かなことである。
一方、ペレストロイカの発祥の地であるソ連の場合、現在までのところ「共産主義的目標の堅持、人間的な社会主義」をかかげる、ゴルバチョフが辛うじて事態を掌握している。しかし、急進的な改革勢力である民主綱領派は、先の党大会で「目標としての共産主義の廃棄、市場経済化の加速」などを要求し、その一部が大会後に脱党した。党組織をめぐる様々な駆け引きはあるものの、事態はソ連において本格的な社会民主主義政党(勢力)が誕生しつつあることを示しているのではないだろうか。
ゴルバチョフはソ連経済のうちの七割程度を民営化するという展望を持っているとも伝えられるが、分厚い官僚層の抵抗にあって市場経済化は進展せず、経済的困難は深まっている。また、党=国家の抑圧の解体とともに、暴力によって凍結されてきた民族主義が政治の表舞台に登場し、中央集権的なソ連国家は解体の危機を迎えているように見える。東欧は再資本主義化したが、自前の革命で共産党政権を作り上げたソ連は違う、というような見方は出来ないのではないか。ソ連と東欧を動かしている力の根源を同一のものとして見ていかないかぎり、ソ連・東欧の事態を本当に理解することは困難なように思う。
一九八五年にゴルバチョフがボタンを押して始まり、戦後世界体制を根底から変革するにいたった、ソ連・東欧の事態を規定している力は何だろうか。これまでの第四インターナショナルの「政治革命」の理論と、現実に起こったことの関係を整理することの中から、第四インターナショナルとは何だったのか、そして、今、われわれは何を問われているのかが見えてくる。
ソ連・東欧の事態を生みだした経済的要因が、党=国家における中央統制型の計画経済の破綻であることは明白である。資本主義諸国での高度情報化の進展に、情報の遮断によって維持されてきた党=国家が対応出来なかったことも指摘されている。
しかし、問題の核心は、党=国家官僚体制の矛盾に挑戦を開始したゴルバチョフの後ろ盾にとどまらず、ゴルバチョフの当初の予想を越えて吹きだした、ソ連・東欧の改革を推進しつつある勢力を、どう規定するのかということであろう。第四インターナショナルの従来の理論からすれば、それは、官僚的な方法ではあれ推進される工業化にともなって、増大する近代的プロレタリアートであるはずだった。しかし現実には、プロレタリアートの自主的な組織も登場しているが、(ポーランドでは主力にさえなったが)、事態を推進している、また、事態の政治的方向性を決定する力として登場したのは、とりあえず世間の呼び方をするならば、ソ連でも東欧でも、成熟しつつあった「西欧的市民社会」ではないだろうか。
サハロフ他の異論派の主張が、西側に甘く見えることに対して、われわれは従来、それはいまだに「政治革命」の主力であるプロレタリアートが動きだしていないからだと考えてきたが、現在までのところ、ペレストロイカの中で登場してきたものの中心は、民主綱領派を中心とする社会民主主義的勢力とサハロフ的な民主主義者であり、プロレタリアートは、炭坑労働者などが改革派諸勢力の一翼として登場しているにすぎない。
東欧民衆革命は、「プロレタリアート」のヘゲモニーではなく、「市民」のヘゲモニーで勝利した。東欧民衆革命がなぜソビエト権力を要求せず、議会制民主主義を要求したのかということは、そのことによって整合性をもって説明される。
東欧民衆革命の勝利とソ連におけるペレストロイカの進展が資本主義諸国との緊張緩和を伴っていることも、同様の理由から説明される。第四インターナショナルは、「堕落した労働者国家」における民主主義の復活は、ソビエトに基礎をおいたプロレタリア民主主義の復活としてあり、それは、世界革命の前進と結びついていると考えてきたが、実際にはそれは、議会制民主主義として実現され、資本主義国との劇的な緊張緩和をともなったのである。
一九八八年に発行された、ソ連の改革派経済学者との対談「資本主義・共産主義・そして共存」の中で、ガルブレイズは、「あなたの国のタカ派が私の国のタカ派を助け、私の国のタカ派があなたの国のタカ派を助ける」というソ連の詩人の言葉を引用している。ソ連における改革の推進が、西欧資本主義国との融和に向かうというガルブレイズの指摘は、われわれの予測よりもはるかに現実的なものであった。
われわれは東欧民衆革命とソ連でのペレストロイカを推進している力について、先入観なしに詳細に検討する必要があるが、とりあえず言えることは、ソ連・東欧のこの間の事態を通じて、一九一七年以来の東西の分断状況が克服されつつあるということである。その方法は、「労働者国家におけるスターリニスト打倒の政治革命、それと結合した世界社会主義革命」という第四インターナショナルの構想にそってではなく、ソ連・東欧に胎胚した「西欧的市民社会」による、閉塞した党=国家体制の解体・打倒と西欧的資本主義社会への融合・統合という方法によって。
このことは、国際的な反革命なのだろうか? そうではないだろう。「労働者と農民、働く者が主人公」であると、公には宣言されながら、なに一つ人々の自発的な意欲と自由な思考が認められず、自らの運命を官僚の恣意のもとに置かれ続けた人々が、一九八九年、東欧で立ち上がり、自らが歴史の主人公であることを闘いによって証明したのである。これは、歴史の偉大な前進でこそあれ、「反革命」などと呼ばれるものではあり得ない。われわれは、現実を謙虚に見続ける中から、一九八九年東欧民衆革命の意味を明らかにしなければならない。
そうした観点から見るとき、東欧民衆革命とソ連のペレストロイカから学ぶべき点が、「自由と民主主義」の観点であることは間違いない。自分のことは自分で決めるという近代的な個人主義の原則をかけて、人々は党=国家と対峙し続け、東欧ではついにそれを解体したのである。従来、それらはブルジョア的個人主義の観点であり、社会主義の思想と運動は、そうしたものの上位に、それらを止揚して存在するとされてきた。しかし、われわれを含めた社会主義の思想と運動は、本当に「自由と民主主義」の観点を、充分に包含し得てきたのか。東欧民衆革命はその事を問うた。そして、民衆の闘いに心踊らせながらも何か割切れないという、われわれを含めた多くの左翼の心情は、東欧民衆革命が、「自由の価値」「民主主義の価値」を、充分には包含し得てこなかった左翼運動総体への、いわば、しっぺがえしだったことに根ざしているのではないか。彼らは闘いを通して、「自由と民主主義」の観点が、「搾取する自由」だけをさすものではなく、普遍的な価値を持つものであることを証明した。社会主義の再生は、「自立した個人による自由な連合」として、こうした「自由と民主主義」の観点を、社会の構成原理においても、政治組織の構成原理においても、その内部に取り込まないかぎり、絶対にあり得ないだろう。
(東欧・ソ連の人々のうち、鋭い人々は、西欧資本主義が「金儲けの自由」のためには、「自由と民主主義」の普遍的な価値を放棄することに気がついている。チェコのハベル大統領は、チェコ政府との緊張緩和を優先するために、七十年代初頭、二千語宣言に署名したハベルとの関係を避けた西ドイツの「自由民主主義者」について述べた。)
ソ連・東欧の事態を「国際的な反革命」と呼ぶのは論外としても、われわれはそれに拍手していればよい、ということではない。一九一七年以来の東西の対立が、西欧的資本主義社会への融合ないし併合という方向で克服されようとしている事実は、一九一七年を存在の根拠としてきた第三インターナショナル以来のすべての左翼に、その存在の根拠を根底から問いかけているからである。第四インターナショナルもまた、一九一七年を基点とする社会主義運動の世界的分裂の中で、ロシア革命と第三インターナショナルの側に立ってきたことは明白である。むしろ、われわれは「正当な第三インターナショナル」として、自分たちを位置づけてきたのである。ソ連・東欧の事態は、第四インターナショナル結成以来の帳尻をあわさねばならない、時代の転換点がやってきたことを明白に示しているのではないだろうか。われわれは一九一七年に始まり一九八九年に幕を閉じたと思われる、一つの時代を総括しなければならない。(私には二十世紀の大半におよぶ時代の総括など、まったく手に余るので、印象として述べる)
堕落する以前の第三インターナショナルは、「世界革命の勝利か、新たな恐慌、新たな戦争か」(第三回大会・情勢に関するテーゼ)という認識の上に、政治方針と組織方針を確定した。「ソビエト権力の樹立によるプロレタリア独裁」という目的、そのための「民主主義的中央集権」にもとづく共産党の建設、そして、「大資本・大農場の国有化を通した生産の社会化」という社会主義論や、「民族自決権の承認にもとづく民族解放闘争との連帯」という主張の一切が「革命か、さもなくば恐慌と戦争か」というところから導かれたのである(いずれも第三インターナショナル一~四回大会の諸決議より)。第四インターナショナルもまた、その点を忠実に継承した。世界共産主義運動は、いわば「世界戦争の時代における社会主義運動」として、社会民主主義から分裂したのである。
こうした初期第三インターナショナルと、その後の第四インターナショナルの展望は、第二次世界大戦の勃発によって悲劇的に証明された。そして、第二次世界大戦を通じて、中国革命の勝利と、ソ連軍の東欧占領による上からの革命によって「社会主義」陣営は強化された。しかし、この展望はものごとの半面を言い当てたのにとどまった。二つの世界大戦をくぐり抜けた資本主義は、戦後の混乱期を、各国共産党の政府への一時的包摂や弾圧など、さまざまな手法で乗り切ったあと、アメリカ帝国主義の圧倒的な力を背景に長期的な成長をとげ、各国の労働者階級を民主主義的資本主義の枠内に包摂するにいたったからである。(織田進氏の研究参照)
二つの帝国主義戦争を通して世界資本主義は大きく変容した。それは、植民地からの収奪を富の主要な源泉としていた(どのくらいかは研究の余地があるが)古典的な帝国主義から、国内市場の内包的発展と水平的な世界貿易の発展を土台とする、資本主義の新しいスタイルへの変化であり、それは、大衆消費社会の形成を軸に、民主主義的政体のもとに労働者階級の主要な部分を取り込むことに成功した。(もちろん、石油をはじめとする資源の第三世界からの収奪その他がなくなったということではない。しかし、植民地からの収奪を資本主義の成長の主要な土台として説明することはもはや出来ない。植民地を失った敗戦帝国主義である日・独の繁栄と、植民地問題にかかわり続けた米・英の衰退は象徴的である。われわれは今、そうしたことを解明する「現代資本主義論」を絶対に必要としている)。
一方、二つの世界大戦の中から誕生した「社会主義圏」は、資本主義の変容に対応して、必要となった変容に成功しなかった。国内市場を基礎にした内包的発展を達成した資本主義にたいする、経済成長の分野での決定的な敗北と、民主主義的政体への非転換、官僚的党=国家体制の強権的な維持がその特徴である。戦争の中から誕生した二つの「社会主義」大国、ソ連と中国はともに、当時の帝国主義の最も弱い環であり、革命以前は強権的な支配のもとにあった。そして、資本主義からの離脱は民主主義を伴わずに行なわれた。(むしろ、そこには民主主義の成立する根拠がなかったと言うべきか)。しかし、その特殊性を、権力を掌握したスターリニストはもちろん理論的に明らかにせず、ソ連と中国の経験を一般化した。この点において、第四インターナショナルが労働者国家の非人間的な抑圧の実態を指摘し、社会主義的民主主義の必要性を明らかにしえた功績は大きい。しかし、一九八九年の事態は、社会主義的民主主義を確立する展望としての、われわれの「政治革命論」を激しく揺さぶったのである。
一九八九年の東欧民衆革命は、「自由と民主主義」を要求して党=国家体制を打倒したが、東欧民衆の闘いを支えた大きなものが、資本主義体制下に置ける民主主義政体とそのもとでの大衆消費社会であったことは疑い得ない。西欧における労働者階級のあり方に東欧の民衆は吸引されたのである。(西欧における社会主義革命に吸引されたのではない。この点がわれわれの「政治革命論」と、起こったことの乖離をとく鍵かもしれない)。
だからと言ってこれは「民衆の手による反革命」では断じてないだろう。時代の変化に適応出来ず、党=国家体制の手に権力を独占してきたスターリニストの支配を解体したという点で、これは大きな歴史の前進である。議会制民主主義の定着は「自立した個人による自由な連合」を求める社会主義運動の観点から見ても、官僚的党=国家体制からの大きな進歩であろう。東欧民衆革命は、「自由と民主主義」の普遍的な価値としての側面を、闘いを通して時代に刻印した。社会主義の思想と運動も、その時代の精神をわがものとしなければ滅びることは必然である。たとえば、今年のOAU総会には、半数の国の代表が自国での民主化・複数政党制を求める運動の激化のために参加できなかった。アジアにおいても、台湾、ミャンマー、ネパール、韓国などで、民主主義を求める闘いが展開されている。「自由と民主主義」をめぐる闘いは世界的性格を示しているのである。
しかし、「国有化による資本家の廃絶」が、社会主義に向かう基礎であるとすれば、市場経済体制への復帰は後退であろうか? スターリニストは労働者国家における国有化をもって、社会主義の完成とみなしてきた。彼らにすれば事態は社会主義の崩壊である。第四インターナショナルは、国有化を社会主義の前提とみなし、政治革命にたちあがる人民は、産業の国有化を前提としたうえで、その支配権を官僚から奪い取るであろうと考えた。しかし現実には、少なくとも現在の東欧においては、国有化を維持したままでの人民による民主主義的管理という方向には現実性がないことが明らかになった。それは、一度は「自主管理共和国」のスローガンに接近したポーランド「連帯」が、そのスローガンをいとも簡単に放棄したことに端的に表れている。「自主管理共和国」には、現在のポーランドにおいて、現実的な根拠がないと考えざるを得ない。
少なくとも、「現存社会主義国」の計画経済を社会主義そのものであると考えてきた政治勢力と、それを、社会主義の前提と考えてきた政治勢力にとって、東欧諸国の市場経済への復帰が、戦略的敗北であることは確かなことだ。そして、二十世紀の社会主義運動が、社会民主主義者の多くを含めて、基幹産業の国有化を社会主義を実現する政策的な基軸としてきた以上、それは社会主義運動総体の敗北と言わざるをえない。だが私は、社会主義運動の敗北=歴史の後退、ではないような気がする。歴史は、社会主義運動の敗北を通して前進し、社会主義運動の自己変革を要求したのではないか? (ここには、歴史の進歩とは何であるのかという、別の問題も含まれているような気がするが、触れない)。
東欧民衆革命が、「自由と民主主義」を要求して党=国家体制を打倒し、東西対立の解消を通じて幕を閉じたのは、第一次世界大戦以来の世界戦争の時代である。それは、社会主義運動の観点からすれば、社会民主主義と共産主義への分裂の時代であり、戦時の社会主義としての第三インターナショナルの時代であった。そしてこの事態は、「正当な第三インターナショナル」としての第四インターナショナルにも、自らが何ものであったのか、そして、何ものにならねばならないのかを、強く問いかけているのである。
東欧民衆革命を準備した、ゴルバチョフのペレストロイカは、「帝国主義と社会主義陣営」が非妥協に対立し、一方が一方を打倒しない限りこの対立は解消しないという、第二次世界大戦後の「東西対立の世界」が、もはや仮象にすぎないことを自覚しつつ推進されたが、このことは、世界戦争を内包しない資本主義への、戦後資本主義の変容という事実を踏まえたものであろう。(「東西対立」とか「社会主義陣営と資本主義陣営の体制間矛盾」とか様々に言われてきたことには、一時期まで確かに根拠があった。しかし、帝国主義者の侵略に心底身構えたスターリニストと、ドミノ理論にもとづいてベトナムの泥沼に足を突っ込んだアメリカの、双方の恐怖にはやはり大きな幻想という側面があったのではないだろうか?)
多国籍企業が資本主義諸国の国境を越えて入り組み、EC統合が現実のものとなった今日の資本主義は、もはや帝国主義世界戦争に訴える動機と、そのための社会的な合意形成の能力を持っていないように思える。遠い将来、再び資本主義の様態の変容にともなって、世界戦争が現実化することが絶対にないとは言えないが、少なくとも相当の長期間にわたって、世界戦争を予測することは出来ない。
イラクのクウェート進攻は、第三世界が依然「戦争の時代」にあることを示し、アメリカを中心とする資本主義諸国とイラクの戦争の危機は、安価な石油の確保にかける、資本主義諸国の身勝手な「権利主張」を浮び上がらせているが、こうした第三世界との関係を除けば、資本主義にとっての世界戦争の時代は終ったのではないだろうか。世界戦争の根拠がなくなったという裏付けがあったからこそ、ゴルバチョフは軍縮のヘゲモニーを取ることが可能だったのであり、ゴルバチョフの平和攻勢によって、ヨーロッパの民衆は、「ヨーロッパに敵はいない」という事実に突然気がついた。これはゴルバチョフの偉大な功績ではないだろうか。「新思考外交」は確かに戦争の時代の戦略ではない。
われわれは今日、世界戦争の時代におけるわれわれの武器が、もはや使い物にならないということを自覚しなければならない。それは、帝国主義戦争の必然性と、社会民主主義と共産主義の分裂の必然性を説いたレーニンの「帝国主義論」であり、暴力革命によるプロレタリア独裁とソビエト権力の樹立をといた「国家と革命」の理論である。また、民主主義的中央集権にもとづく前衛党の理論であり、国有化と中央計画経済の理論である。こうした考え方の一切を根底から捉えなおし、ポスト世界戦争の時代における社会主義理論の構築と、主体形成の闘いに参加しなければならない。
ソビエト圏の成立や中国革命に根拠をおいてきた、世界戦争の時代の社会主義運動は歴史的な力を使い果たした。しかし、それは社会主義運動総体の崩壊を意味しない。社会主義は、現代資本主義に対する原理的な批判として、高度に発達した資本主義諸国の現状に対する、現実的な批判として再生されなければならない。それは、高度に発達した大衆消費社会=日本の現実そのものが、社会主義の思想と運動をを生み出さざるを得ないというところに根拠をおいて、はじめて再生されるだろう。そういう意味において、一九八九年、われわれの理論は借り物であったことが最終的に証明されたのではないか。命がつきていたことをわれわれは昨年知ったのではないか。世界戦争の時代の社会主義思想としての限界の中で、スターリニズムを批判しえた思想としてのトロツキズムと第四インターナショナルの運動は、もうそのままでは使い物にならなくなった。そうした観点に立つとき、われわれの前には自分の頭で考えねばならない課題が山のようにある。東欧民衆革命から直接提起された問題に限って思いつくまま四つあげる。
【暴力革命と平和革命】
第四インターナショナルは、スターリニストが権力の座から平和的に退場することはあり得ないと主張し、さらに、スターリニストによる「上からの改革」は、あくまでも限定されたものであり、権力の排他的独占を保障する要としての「党の指導的役割」を、自ら放棄することはあり得ないという立場をとってきた。しかし、ゴルバチョフによるペレストロイカの進展と東欧民衆革命は、こうした第四インターナショナルの予測が間違っていたことを示した。
ゴルバチョフは自らの意志によって、憲法から「党の指導的役割」を定めた第六条を削除し、複数政党制にもとづく議会制度を導入し機能させることで、ペレストロイカを推進しようとしているし、東欧においては、ルーマニアを除く各国で、「円卓会議方式」によって議会制度の導入が合意され、自由選挙の結果、ブルガリアを除く各国で、スターリニストが政権の座を追われ、民衆革命を主導した勢力が政権についた。東欧民衆革命はルーマニアを除き平和革命であった。
東欧民衆革命が示したものは、国家権力の正当性が深く掘りくずされ、権力内部の暴力装置を含めて、圧倒的多数の人々が権力から離反したとき、国家権力は、暴力を振るう能力も意志も奪われるという事実である。東欧において自生的な根を持たないスターリニストの権力は、その後ろ盾であったソ連が「制限主権論」を放棄し、各国の進路を各国民にゆだねたとき、すでに暴力を発動する可能性を奪われていたのであろう。また、ゴルバチョフによるペレストロイカの進展は、一つの体制がその可能性を完全に喪失したとき、支配階層の内部から、自らの支配体制を、いわば自己否定する勢力が生れることがあり得ることを示した。支配階層の頂点から呼びかけられたペレストロイカは、その内的な論理に従って、複数政党制の承認と「党の指導的役割」の放棄に行き着き、既得権を防衛しようとする分厚い中間官僚層との攻防の段階に入った。深刻な反動がない限り、ソ連においても、共産党の排他的な権力は、平和裡に解体されるであろう。
こうした事態について、「それはソ連・東欧が労働者国家だったからで、資本主義国での暴力革命の必要に変化はない」と言う人がいるようだが、それは皮相な見解だろう。国家権力のありかを「常備軍と官僚機構」に見て、暴力革命の必要性を説いたのは、レーニンの「国家と革命」であったが、ソ連・東欧の事態は、国家権力が、暴力装置と行政機構にだけ依存しているわけではない事を明らかにしたのであって、それは、資本主義国における権力の問題、「国家論」の問題にもつながっているのではないだろうか。
ソ連・東欧において、国家権力の正当性は、突然やってきた危機によって解体されたのではなく、何十年間のうちに、人々の間に徐々に蓄積されてきた力によって掘りくずされたように見える。長期の過程が東欧の平和革命を準備したのである。そのことは、資本主義国における社会主義運動にも、戦略をめぐる示唆を与えているのではないか。資本主義の正当性を掘りくずそうとするわれわれの闘いは、いかなる過程において多数になり得るのだろうか。恐慌や戦争という資本主義の危機を想定し、そこでの「大衆」の意識の質的な変化を予想する理論は今も有効だろうか。われわれは、現在ただいま、今ここで、資本主義の正当性を、民衆の間で掘りくずしていく、社会主義の理論と運動を構想せねばならないのではないか。それは、危機に備え、権力を急襲する「暴力革命」を準備する理論ではなく、平時にあって人々を資本主義から離反させていく、長期にわたる「平和革命」の理論ではないのか?
【議会制民主主義とプロレタリア民主主義について】
東欧民衆革命を達成した主体である「市民」は、議会制民主主義を要求して勝ちとった。第四インターナショナルの伝統的な立場は、「ソビエト諸党の合法化とソビエトの創設」である。(民主主義にかかわる第四インターナショナルの近年のテーゼはだいぶ違うようだが)
はっきりしていることは、昨年の怒涛のような闘いの中で、もしも「社会主義の基礎を承認する諸政党」に、合法化の枠を限るべきだというような立場をとる者があれば、それは即座に超反動として民衆から打倒されたということである。「その枠を決めるのは誰だ」という問に、この立場が応えられないからである。また、議会制を越える直接民主主義の機関としての「ソビエト」が、かけらすら姿を現さなかった以上、「議会制民主主義にもとづく自由選挙」の要求は、それ以外にありようのない要求だった。ソ連においても、「一人一票の秘密投票による自由選挙」がペレストロイカの重要な柱として推進され、保守派を追い落とす有力な手段となっている。さて、このことは議会制民主主義というものに対する、われわれの従来の考え方を変える必要を提起しているのではないか。議会制民主主義を、われわれは「ブルジョア独裁の一形態」として、一言でかたずけ軽んじてきた。しかし、東欧・ソ連の事態が示したものは、「議会制民主主義を乗り越える」という課題は、いまだに世界のどこにおいても現実的なものとして提起されるにいたっていないという事ではないか。議会制民主主義はソビエト制度にもとづくプロレタリア民主主義によって乗り越えられるのだろうか? 私には疑問だ。
【計画と市場の問題】
東欧における「市場経済への転換」の動向に対して、反スターリン主義的社会主義者の多くが、市場経済化に反対し「民主主義的計画経済」を対置している。しかし、少し考えると、「民主主義的計画経済」という言葉は、「平等で、かつ自由な社会」という社会主義の理念をそのまま言い換えた一つの抽象にすぎないことがわかる。この立場を、抽象的な理念ではなく、実際に導入出来る制度として最も熱心に主張してきたのはエルネスト・マンデルであるが、どうも疑わしい? たとえば、ユーゴの混乱について、従来マンデルは「労働者自主管理は、政治的な自由、反対党の存在を認めるというプロレタリア民主主義と一対でなければ機能しない」としていたが、自由選挙を経ても、ユーゴがうまくいくとは思えない。生産を真の意味で社会化していく具体的な道筋はどこにあるのか? 明らかではない。
【プロレタリアートという概念について】
すでに述べたように東欧民衆革命の主体は「プロレタリアート」ではなく、「市民」であった。ソ連においても、プロレタリアートの独立労働組合の登場などは報じられてはいるものの、それは今のところ、ペレストロイカの枠内の一部分にとどまっているようである。
重要なことは、闘いに参加する民衆の内部における「プロレタリアート」の数的割合ではない。「プロレタリアート」が、闘いの方向性、政治的性格を規定する主体として、登場するのかどうかという事である。どうも、ソ連・東欧を見るとき、闘いの政治的性格を規定している主体は、「プロレタリアート」と規定するよりも、「市民」と規定したほうがすっきりするように、事態が進展しているように思える。「プロレタリアート」はこれから登場するのか? それとも「市民」こそ、これからの闘いの主体なのだろうか? 社会主義の主体をどう構想するのか。理論的な探求が必要である。
一九八九年の東欧民衆革命は、社会主義の約束を反古にして、野蛮な党=国家独裁になり果てた第三インターナショナルの裏切りを最終的に断罪し、西欧的資本主義社会への融合・統合というかたちで、東西対立の時代、世界戦争の時代に最終的な幕を降ろした。この事は、社会民主主義と共産主義への社会主義運動の分裂の根拠がなくなったことを意味していると思える。
それはまず何よりも、第三インターナショナルにつらなる諸勢力は、自らの存在意義の真剣な再検討と、新しい主体への脱皮に成功しなければ、生き延びることさえ出来ない(従来のままであれば、生きている必要がないのだから)時代がはじまったことを意味している。
しかし、一方で社会民主主義もまた、世界戦争の時代にあって、民衆を裏切ってきたことに違いはない。それは、そもそも、民衆を祖国防衛にかりたて、互いに殺しあうことを強要した一九一四年の裏切りに端を発するものである。
ポスト世界戦争の時代の社会主義運動の新しい主体は、第三インターナショナルにつながる勢力の自己革新とともに、社会民主主義勢力の自己革新を通して、二つの勢力の中から、その分断を止揚するかたちで登場するのではないだろうか。(唐突に決めつけるならば、鍵は「国民国家を乗り越える」可能性にかかっているように思う)。
この点で、ドイツ社会民主党のベルリン新綱領とラフォンテーヌの著書「国境を越える社会民主主義」が、一九一四年の裏切りに対して、おずおずとではあるが言及し、実質的な自己批判を行なっていることは注目される。国民国家の構成要素へと、自覚的に自己を組込んでいる社会民主主義勢力によって、こうした自己批判はなぜ可能になったのか。少なくとも、発達した資本主義諸国相互での世界戦争の時代が過去のものとなり、欧州の国境がますます低くなって、ヨーロッパ(資本主義)合衆国が現実のものになっているという事が背景にあることは確かである。
ポスト世界戦争の時代の社会主義の、新しい主体をつくりあげる闘いを能動的に準備するためには、われわれは、われわれでなくなることを、決意し、宣言しなければならない。(非常あらっぽい仮説であり、多くの皆さんの批判が寄せられれば幸せである)