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多摩川両岸物語〜恩恵と軋轢をもたらすもの〜
  第3回 アミガサ事件と多摩川築堤運動(1)

京浜間海と化す

 1907年(明治40)、1910年(明治43)の大洪水は明治期最大の水害で、中部、関東、東北地方一帯に大災害をもたらした。とくに1910年の大水害は「北は大森、羽田、蒲田、池上、大井を始め、南は川崎、大師河原、町田、田島諸村を通じて一面海洋のごとく…」(横浜貿易新報、現在の神奈川新聞)と報じ、まさに「京浜間海と化す」状況を呈した。近代多摩川水害史上最悪と言われている。
 多摩川が大きく蛇行し、激流を正面からまともに受けた古川(現西六郷一丁目)では越流決壊し、あっという間に急流が六郷、蒲田方面へと押し寄せた。京浜電車(現京浜急行)や鉄道院(現JR)の線路敷はまわりより少し高くなっているため、これがダムの役目を果たして海側へ排水しないため水はひかなかった。
 梅屋敷、谷戸(現大森町)間の村民は京浜電車の線路を破壊して放水口を開こうと、警察官の立ち会いを求めて会社側と交渉した。しかし、会社側はこれを拒否したため村民は激昂、手に手に鳶口を持って不穏の状況を呈したが、警察官の制止によって最悪の事態は免れた。また鉄道院の線路以北の農民は大挙して蒲田駅に押し寄せ、線路の一部を破壊した(東京日日新聞、1910年8月15日)。

整備後回し中 またも洪水

 1910年の水害の後、政府は「臨時治水調査会」を設置し、河川改修に乗り出した。しかし、日清戦争(1894〜95)、日露戦争(1905〜06)のために財源が足りなくなり、全国65の河川を二期に分けて工事をすることになる。
隅田川は国費直轄事業の第一期工事河川に指定され、荒川放水路(現在の荒川)が開削されることになった。北区志茂の岩淵水門から東京湾まで全長22キロメートルを掘り進める大工事で、1930年(昭和5)に完成した。工事の総指揮を執ったのは、パナマ運河の開削工事に参加した経歴を持つ内務省土木局の技師、青山士(あきら)である。
しかし、多摩川は第二期工事河川に編入されてしまった。第一期河川を18年間で施行し、その竣工を待って第二期河川の工事に着手するというものだった。直轄改修施行が遠のいたと地元住民が落胆しているところへ、1913年(大正2)8月の大洪水がまたもや御幸村などの沿岸町村を襲い、ここにおいて御幸村村長をはじめ共通の利害を持つ橘樹郡下の11か村代表は緊急協議会を開き、同志連判の上神奈川県庁に新堤築造の請願を行なうことにした。

天皇守るため(?)築堤不許可

 しかし、事態は進展が見られず、神奈川県は東京府に交渉したが異議を申し入れてきたため、内務省の許可を得ることができなかった。当時は県費による築堤であっても内務大臣の許可が必要だった。内務省では、東京府の異議を入れて、「従来無堤部であったという旧慣を改めることは容易にできない」という理由で不許可の裁定を下した。神奈川側に高い堤防を作ると天皇のいる帝都に水害が起こるという思惑もあったという。
 ところが、翌1914年(大正3)8月から9月の二度の洪水により、昨年に引き続いてまたもや被災してしまう。度重なる水害と、陳情によっても一向に進展しない状況において、もはや関係村民が大挙して当局に迫るほかないと考えるほど切羽詰まった事態に陥ってしまった。

アミガサ事件

 そして、草履をはき、目印のアミガサをかぶった村民は、9月16日の深夜、午前2時に八幡神社(上平間、現在のガス橋通り沿い)に集合、ばらばらに分かれて県庁に向かった。民衆蜂起の直訴である。当時は集団での実力行使は禁じられていて取り締まりの対象になっていた。そのため途中警察官ともみ合いになり、鶴見川の濁流を泳いで渡ったりしながら、必死の思いで県庁へと進んでいった。
この行動は全員がチョンボリガサ(編み笠)を着けていたため「アミガサ事件」として翌日の各新聞に大きく報道された。参加人数については諸説があるが、横浜貿易新報によれば、陳情者の数は御幸、日吉、住吉、町田四か村の約千数百名、東京朝日新聞は「400名余り」と報じている。御幸小学校編の『郷土史』では五百余と記している。
石原健三県知事および県当局は、代表10人とのみ面接するとして、交渉の席に臨んだが、村民の実力行使を非難するばかりで、築堤については「考究中」を繰り返し、まったく要領を得ず、進展を見るには至らなかった。
そこで橘樹郡長は地区の有志を集め「多摩川築堤期成同盟」を結成、大々的な運動を起こすことにした。県会においても「多摩川築堤建議」が出され、可決された。

有吉知事の就任と強行築堤

 1915年(大正4)、神奈川県知事の更迭があり、石原知事に代わって有吉忠一が知事に就任した。有吉知事は新築堤築造に理解を示し、内務省に認可を求めた。ところが内務省は前回と同様「旧慣の変更は認められない」として不許可とした。そこで有吉知事は政治生命をかけて「無堤地である上平間天神台より中原村上丸子(現在の川崎市幸区から中原区)に至る郡道を改修する」という名目で工事を認可、強行し、1916年(大正5)に着工した。
 しかし着工から間もなくの4月18日に、突然内務省から工事中止命令が出された。けれども有吉県知事は未認可で施行したことによりけん責処分を受けながらも、工事を続行させた。竣工後、有吉知事の奔走に対する感謝の意をこめて有吉堤と名付けられた。現在もガス橋のすぐ上流側にバス通りとして残っている。
 一昨年(2014年)は「アミガサ事件」からちょうど100周年を迎え、9月に記念行事が行われ、御幸村民が結集した八幡神社には顕彰する説明板が設置された。この顕彰運動の中心となったのは大田区在住の地域史研究者、長島保氏である。

(多田鉄男 新蒲田在住)

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