故・井ノ口金一郎さんは自らの戦場体験を語り、本に遺された。5月に実話紙芝居グループの発表会で、「もう・・いやわたしが見た東京大空襲」を見させていただいた。作者の迫田さんは他にも戦争体験のある人は話してほしいと言われたが、私は6歳の時の小さな経験だったので言い出せなかった。でも戦争を小さいながら体験したことは、これから益々語る人が少なくなるであろう戦争のことを、私も残さなければと思った。
私は横浜市鶴見区の鶴見川を挟んだ下町に、母と2人の1才と2才の弟と祖母と住んでいた。父は戸塚連隊にいてどこにやられるかわからないと言っていた。後で新聞の記事で知ったのだが、1945年4月15日の午後10時過ぎから16日の午前1時過ぎにかけて、B29戦闘機約200機が来襲。私は東の窓をあけ物凄い火の手を見た。私は日頃から姉として躾けられていたので、暗闇でも服が着られるようにたたんである服を手探りで着て逃げた。2人の弟を祖母と母が背負い荷物をもって、橋が落ちたら焼け死ぬぞという声に子どもながら必死だった。人の波に押されてようやく今の総持寺がある境内にたどり着いた。
あちこちに防空壕が掘られていたが、どこも満員で入れず、母はせめて子どもだけでも入れてくださいと懇願し、だめだと言われたことが,子ども心にも悲しかった。一晩中うろうろして夜が明けて、ひとまず家に帰った。幸いなことに家の一つ先までの路地で火が止まり、家は焼け残った。
父は東京の大空襲の遺体の片づけに行っていたと後で聞かされた。そして鶴見の空襲で家族は生きていないと覚悟したとも言っていた。
それから父は軍隊の友人に頼み橋本(横浜線)の山奥に疎開をした。農家の納屋である。電気もない。水も桶を担いでもらい水。私は弟のためにヤギの乳をもらいに走るのが日課だった。夏は杉林にたくさんのアブラゼミがなき、私は蝉取りの名人になって、なんとかこの蝉を火で焼いて食べられないものかと、内緒で缶詰の缶で焼いてみたこともあったが、いくらお腹が空いていても食べる気にはならなかった。
横浜市の記録によると,約75000発の焼夷弾が投下され972人が死亡。焼失家屋は52000戸に及んだとある。
8月15日のことはよく覚えている。青空で何故か飛行機の音が聞こえても、母は逃げろとは言わないのが不思議であった。今までは夜中でも、昼でも飛行機の音や姿が見えたら、森の中、畑の中に避難してたのに。そして今度はアメリカ人がジープできたらどこの家でもよいから逃げ込めと言われた。これが戦争なのだと幼い私の経験である。
(郷土教育全国協議会・丸山知惠子)