ホーム > バックナンバー > 2014/05 > 戦争中の少女時代
前号四月号ESSAYHで学校生活も戦後に入り変化を始めたことを書きましたが、もう少し書き足そうと思います。
富山の学童疎開から東京に戻ってきての生活は、お寺さんのしっかりした建物から焼け跡のバラック生活に変わった変化から始まりました。東京に戻ってきたとはいえ、焼け跡ですから焼け残りの角材、トタン板を使ってのバラックです。夏の暑さの時、冬の寒い時、と極限といったものがありました。雨はまあまあよけるとしても、トタン板には釘穴がたくさん開いているわけですから風があちこちから入り込み、家といってもバラックという言葉そのものなのです。でも生活は始まり、学校の勤務も始まったわけです。
学校の給食は始まっていましたが、二〇才を過ぎたばかりの私にとっては、お腹をすかせた育ち盛りの状態、母がつくってくれた雑炊が夕食前のおやつで楽しい、嬉しいものでした。今でこそネギや小松菜を入れての雑炊ですが、戦後間もない頃は、ネギ、小松菜は隣組を通して一軒に二、三本が配給されるだけですから、焼け跡からさがし、抜いてきたタンポポやアザミをゆでて、雑炊に入れていたことをおぼえています。醤油も、ほんの少々色つけに垂らすくらいで、塩味でした。
勤めに出て初めて受け取った給料を父が神棚に供え、二分の一を私に戻して「お前が働いて得た給料の二分の一はこれから渡すから貯めていくんだよ」と言ってくれました。この一言で、ボーナスも昇給の差額も、いつも二分の一戻しでわが家では進められてきました。この方式で私の貯金通帳はそれなりに蓄えができていったもので、結婚時に気にすることもなく生活を始めることができました。
生活の方は以上のようにうまく運ばれましたが、学校の勤務の方では大変なことに遭遇することになりました。簡単に言うと「首切り問題」です。もう六〇年も前のことですから、どんな形でそこに集まったのかおぼえていませんが、助教≠ニいう身分の教師が一堂に集められての会だったのです。簡単に何十人か集められた席上での宣告だったのです。「多くの教師が戦場から帰ってきた」「先生の数が余ってしまうので首切り」「そこで助教であるあなた方に」という首切りの説明会だったのです。
今考えると自分自身よく分からないのですが、一番先に手を挙げ発言したのが私だったのです。今の私なら不思議にも思わないのですが、あの頃の「おとなしい私」を考えると不思議な行動だったのです。ともかく「教室での生活が楽しい」「子どもたちがかわいい」「運動会でもああしたい、こうしたいと希望をもつ」とたくさん訴えたのです。大げさではなく泣いて訴えたのです。私を皮切りに、あとからそれぞれの助教の訴えが始まりました。役所側も想定外だったと思います。
何人もが発言した中に後に結婚した「平林茂」も入っていましたから「赤い糸」というものは「あるものだ」と何やらくすぐられたような思いが残っております。助教≠ニいう身分も特に審査することなく、「ことなく勤務完了」ということで、履歴書の上では何年かすると書き替えるようになっていました。(了)
(池上在住・平林正好)