ホーム > バックナンバー >  2014/04 > 被災地支援

連載:大田区からの3.11被災地支援 これまでとこれから
第3回東日本大震災・大田区の被災地支援とボランティア(その1)

現場第一主義−何ができるかではなく、何をしてほしいかの支援活動−

■本人のやる気尊重で出発

 大田区では、東日本大震災発災後すぐに災害対策本部を立ち上げ、大田区被災地支援ボランティア調整センター(以下、調整センター)の設置を決めました。その目的は、区と区民との協働による運営体制で被災地の支援と区内避難者の支援を行うためでした。今回の災害の規模の大きさから考えても長期的かつ多様な支援が必要になるであろうことはこの時点ですでに十分予想されることでした。そこで調整センターには事務局と運営委員会が置かれ、さらに運営委員会のなかには支援活動の課題ごとの分科会が生まれました。
 私は、これまで10年以上にわたって大田区はじめ各地で協働による地域活動の立ち上げ、運営に関わってきましたが、今回は調整センター事務局長として協働による被災地支援と避難者の支援活動に携わることになりました。
 2011年3月下旬、事務局長としての最初の仕事は、調整センタースタッフの編成、チームづくりでした。募集は運営委員会への参加を表明してくれていた団体を通じて募集告知をしてもらいました。あえて団体からの推薦ではなく、告知のみにしたのには理由がありました。人に勧められたからやるのではなく、何よりも本人のやる気を尊重したかったからです。被災地の人たちのために何かをしたい、その熱い思いが一番必要だと考えていました。

■ともかく東松島市に急行

 応募を待つ一方で、震災から3週間後。災害対策本部、医師会・医療関係者らと共に宮城県東松島市に入りました。大田区は現在、東松島市と災害時における相互応援に関する協定を結んでいますが(2011年7月19日締結)、当時はまだ協定はありませんでした。今回の震災にあたって大田区の友好都市、姉妹都市に被災地はありませんでした。そこで震源に一番近かった宮城県に災害支援を申し出た際に紹介された地域が東松島市だったのです。
 到着早々、積んでいった食材や水、衣料品などを指定の場所へ降ろすと、東松島市災害対策本部を訪問しました。市役所職員、消防・警察関係者、自衛隊員が不眠不休で事態の収拾にあたっていました。さっそく調整センター担当として東松島市災害ボランティアセンタースタッフとの打合せを行いました。その際、記憶に残る一言がありました。「これまでの震災支援でどのような活動、経験をしてきたかを語るボランティアがたくさんいますが、私たちが何よりも欲しい人材は、私たちのお願いしたことを何でもやってくれる人たちなのです」。当時はまだ緊急車両通行のための道路を確保するのがやっとだったために、公式には県外からのボランティアの受け入れをしていませんでした。そこで被災地に迷惑をかけないように大型バスにボランティア、資材、水を積んで、日帰りでの支援を提案し、その場で快諾を得ました。東京に戻るとすぐに大田区は、バス会社との契約(地元バス会社からボランティア協力の申し出がありました)、宿泊所探しにかかりました。

■現場の要望が全て

 4月に実施した3回の夜行日帰りバスは、募集するとすぐにいっぱいになりました。20歳(スタート時は未成年者の募集はしていませんでした)から70歳を越える区民まで年齢も様々でした。高齢や経験の有無に関する問い合わせが数多く調整センターにありましたが、みな熱い思いの人たちばかりでした。夜行バスは区役所を22時に出発し、首都高速、東北自動車道を経由しての往復でした。しかし、震災の被害は道路にも大きな影響を与えていて、福島を過ぎる辺りからは凹凸がひどく、ほとんど眠れない状況でした。また、深夜のサービスエリアには緊急車両や物資、資材輸送の大型トラックが仮眠のため満車。トイレ休憩にも寄れないことがありました。しかし、東松島市でのボランティア活動では、はじめての人が多いにもかかわらず、災害ボランティアセンターからの作業指示を的確にこなし、2回目以降は、作業途中での進捗状況報告と次の作業指示を事前にもらい、現場への移動を自主的に行っていました。初めての編成チームとは思えないようなチームワークはその後の宿泊型のボランティアへと引き継がれ、さらなる信頼を築いていきました。現場の要望がすべて。それだけを共通課題として作業をしていきました。あとでわかったことですが、大田区のボランティアは社会経験も豊富な人材がそろっているために、いろいろな知識や技術を持っている人がいました。それらを自ら語る人はあまりいませんでしたが、現場での要望に応じてその能力を発揮し、場合によっては大田区以外のボランティアに対しても指導し、被災地の方々からも大変喜ばれていました。ボランティアのこの活動がその後の床はがしや在宅被災者宅訪問などにつながっていきました。

■避難者受け入れでは不満も

 その一方で、運営委員会を中心とする避難者受け入れとそれに伴う支援活動は決して順調なスタートとはいえなかったように思います。運営委員である活動団体のみなさんもこの震災に対する支援には並々ならぬ熱意と体制で臨んでくれていました。しかしながら、区が用意していた地区住民100名近くを一カ所で受け入れるための避難施設への避難希望はなく、そのための支援団体からは会議のたびに不満が募っていきました。いつになったら避難者は来るのか。区は被災地へのアプローチをしているのか。これは被災地に足を運べばすぐにわかることですが、多くの被災者が住み慣れた土地から遠く離れることを望んでいませんでした。まさに、できること、したいことがあるのにできないことへの不満でした。なかには東松島市以外への支援をなぜしないのかという問いも出てきました。しかし、これも現場を見れば一目瞭然のことなのですが、東松島市だけでも地元の期待に十分応えられていない現状で、ほかの地域をやる余裕などありませんでした。日本全国、世界中の支援が各地に支援に入っている中で、大田区が東松島市に寄り添いながら、絶えることのない継続的な支援こそが被災住民の不安を取り除く方法だったのです。

■一人一人の汗が相互応援協定へ

 それでも2011年には、東松島市以外にも応援のバスを出す計画が実はありました。すべての活動が被災地の要望に応えながらの暗中模索の状況の中で、大田区の区営住宅や都営住宅、民間住宅に避難している人たちの状況がようやくわかってきました。そのほとんどが福島県からの避難者の方々でした。立ち入り禁止からようやく一時帰宅がテレビなどでも放送されたころ、避難者の一時帰宅を支援するためのバス支援を現場では検討していました。しかしこの計画実現に必要な情報がまったく掴めなかったのです。被災者はもちろんのこと、行政サイドでも一時帰宅訪問日時の把握ができない状況でした。それほど福島県の現場は混乱を極めていました。災害時における相互応援に関する協定締結以降は、その協定に基づく支援活動を継続しています。この協定は、行政によるものというよりは、大田区ボランティア一人一人の汗によって築かれた信頼の結果としての協定締結ではなかったでしょうか。
 次回は、東松島市の現場で見た災害支援から復興支援への切り替えの問題とその後の市、ボランティア団体の連携協働による東松島復興協議会誕生についてお伝えいたします。

 

小野 紀之  (大田区被災地支援ボランテ ィア調整センター事務局長)

(写真はいずれも大田区hpより)

ページの先頭へ↑