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正好の思い出日記 戦争中の少女時代(9)
戦後の学校生活の変化、あれこれ

 疎開先から、子供が焼け跡の、校舎のない東京の学校へ戻ってきました。もちろん戦地から戻ってきた、軍服の先生も何人もおりました。海軍に属していた先生は、紺色の軍服でした。陸軍関係の先生は、茶色の軍服そのままで通勤でした。軍靴もはいていて、私などしみじみ眺めたものでした。

進駐軍がPTAづくり推奨

 進駐軍より受けた新教育で心に残っているのは、「PTAという会を作りなさい」ということでした。会場は赤松小学校でした。通訳がついての会でしたが、戦前の後援会と違う意味がよく分かりました。
・活動することで資金をつくること
・先生は、学校から離れてバイトをしてもよいこと
などでした。
 教科書のあちこち、定められた文を墨で消したことも心に残ってはいますが、新しい教科書はすぐ手にすることができましたので、給食のことなどに関してが思い出されることです。お腹をすかしていた戦後ですから、給食に関しては思い出が多いです。

焼け跡での大変な学習形態

 二部授業でなく、まず始まったのは三部授業からです。午前中二部、そして給食をして一部の三部なのです。午前中の一部の子供への給食は、終わるのが一〇時半頃ですから昼食にしては早過ぎるわけで、三部授業とはずい分無理なことです。が、焼け跡は校舎の土台だけが残っているわけで、そこに腰掛けての授業は低学年、高学年は屋根のない骨組みだけを利用した体育館跡での学習でした。
 六クラス位入ったでしょうか。後部の子は、前にいる自分のクラスの先生よりベニヤ板を隔てて後ろの先生の声の方が聞こえるわけで、ずいぶん無理な学習をすすめたわけです。「先生! 後ろの組の先生が明日のこと話しているのに、ボク達のクラスは関係ないの」なんて声かけが出てくるのですから、今にして思えば大変な学習形態をとっていたものです。

あれもこれも教員の仕事

 今考えられないことで、戦後の教員の仕事で、「そんなことまで?」ということをしました。男の先生が進駐軍の兵舎まで粉ミルクの樽をリヤカーで取りに行ったり、女の先生は出勤しバッグを机の上に置いたらすぐに給食室に行って、手薄な作業員の手伝いです。スキムミルクを泡立て器でかき混ぜる作業の手伝いです。この他、鮭缶を開けてすまし汁にほぐして入れる作業などもしました。
 後に教員組合などが結成されると「任務がどう」「職種がどう」と点検されるもので、女教員が給食室へ行っておしゃべりしながら手伝うなどとんでもないことなのかもしれませんが、理屈抜きで楽しい思い出として残っています。
 心と心のふれあいがあること、これが仕事をする基本になるのではないでしょうか。

(平林正好・池上在住)

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