ホーム > バックナンバー > 2014/03 > 戦争中の少女時代
「看護婦は仕事がキツイからダメだ」と父に言われ、さてそれではどうしたらよいものかと迷ったあげく方向付けされたのが、代用教員の口でした。
代用教員で疎開先へ
終戦の年の三月でしたから、役所の辞令を受けに行ってすぐの伝言は「疎開先に行ってもらうか、残留で学校に残って事務をとるかどちらか」と言われました。はじめて逢ったもう一人の人が「残留にして欲しい」と言ったもので、私はその場で疎開地の富山に行くことになりました。
その頃は、疎開! 疎開! と言っていた時でしたから、父も母も「勤めだから」ということで、富山行きは否応なしのことでした。
行李一個は送れるということでその用意が終わったところへ、品川、大田、川崎を襲った空襲でした。何のことはない弟がその行李を一個自転車に積んで逃げたものですから、「助かった」というより私の衣類ばかり不自由しなかったもので、家族に申し訳ない思いがしたのでした。
子どもと教師の共同生活
赴任した羽田小学校の疎開先は、富山より奥に入った舟見という町でした。そこのお寺さんが三寺割り当てられ、年配の教師一人と若い教師一人が組まれて二人で一寺、子ども三〇人位と暮らしたわけです。
寝食は一緒でしたが、学校の方はその土地の学校の学年のクラスに入っての学習でしたから大変でした。子どもたちはそれぞれ自立していて、お寺さんに帰ってくると宿題したり遊んだりしていました。子どもなりに生活の意味が分かってのことでしたが、今にして思えば、親元を離れてよく頑張っていたと思います。
記憶が薄くなりましたが、学童疎開は中学年以上で縁故疎開と学校疎開に分かれていたもので、時に手に入りにくい切符を求め面会に来てくれた親の回りに集まって、大騒ぎになりました。お菓子のない時でしたから、親が持ってきてくれた炒り豆、あられ餅など、嬉しい嬉しいお土産でした。
わずか五ヶ月で激変
私が決められていた仕事の一つに、「お米の管理」がありました。他のお寺ではそうでなかったようですが、私のところのお寺さんには部屋の押し入れに大きな罐(カン)が入っていて、お米をすべて入れ、その出し入れを私が頼まれたのです。今にして思えば「そんなことまで」と思われるかもしれませんが、時代がそうさせたのですね。
時には野原に出て、おひたしや汁の実になるような野草はよく取りに行きました。当初静岡の方に疎開し、空襲が激しくなっての二次疎開だったわけです。
子どもたちにも変化がなくてつまらなかろうと一度、三寺で相談して、舟見より奥に入って温泉に連れて行きましたが、それはそれは遠くで、温泉どころではなく大変疲れた遠足だったことが記憶に残っています。
三月に東京を離れ富山の舟見に行きましたが、八月一五日は終戦ということで一カ月位してから東京に戻りました。帰路の汽車には、アメリカ兵とコミの乗車でしたからめまぐるしい変化でした。
(平林正好・池上在住)