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大森・蒲田今昔物語(最終回)
京浜急行線の廃線、廃駅と時代の波

 連載の最後として、京浜急行の廃線、廃駅について書いてみたい。
京急線はもともとほとんどが道路上をコトコト走る併用軌道(路面電車)として敷かれた路線なので、駅間距離は数百メートルしかなく、とても短かった。そのため現在のような専用軌道を高速で走るようになるまでの間に、沿線の多くの駅で統廃合が実施された。駅自体も、初めは駅ではなく停車場と呼ばれていた。北馬場駅と南馬場駅が統合されて新馬場駅になったことは比較的最近なので(といっても1976年)、ご存知の方も多いと思う。紙面の関係で廃駅を全部書くスペースがないので、大田区内に限って紹介したい。

●品川延伸で大森は廃駅

品川区内を走り抜けてきた京急線が大田区に入って最初の駅は大森海岸駅である。この駅が開業した(1901年2月1日)当初の駅名は八幡(やわた)といった。6月号に書いたが、六郷橋のほうから北に延伸してきた京急は、しばらくは今のJR大森駅が発着駅で、ここから八幡を経て第一京浜国道(東海道)を蒲田、六郷橋方面へと走っていた。しかしそれから3年後の04年に品川まで延伸されたことでそちらが本線となり、JR大森から八幡の間はわずか800mの支線となった。そして37年にこの区間は廃線となってしまったのである。八幡駅は品川延伸時に海岸駅と改称され、33年に現在の大森海岸駅となった。現在は大森海岸駅の次は平和島駅だが、かつては両駅の間に大森八幡と大森海水浴場前(夏期のみ開設)の停車場があった。

●何とも珍しい駅名

平和島駅は当初沢田として開業、時期は不詳だが学校裏と改称された。何々前という駅はあっても学校裏のように裏がつく駅は珍しい。ここでいう学校とは十一番寄木学校で現在の大森第二小学校のことだそうである。今の位置関係からするとおかしいと思われるかもしれないが、かつてこの駅は現在の環七の南にあった。京急としては埋立地に競艇場を誘致、レジャーランド化するのをにらんで、61年に駅名を現在の平和島と改称した。

●昔は名所の梅屋敷

 平和島の次の駅は大森町であるが、開業時の駅名はこのあたりの字名の山谷であった。のちに大森山谷と改称されたが、45年4月15日の空襲で焼失、営業休止となり、49年には廃駅となった。しかし52年に復活、大森町駅として営業を再開し現在に至っている。前にも書いたがJRの大森駅があるのは大森ではなく不入斗(いりやまず)、西口側は新井宿である。後に行政によって入新井という、足して2で割ったような地区にされてしまった。京急の大森町がある辺りが本来の大森である。
 次が梅屋敷駅。ここは珍しく1901年の開業以来名前の変更はない。梅屋敷のいわれは、文政年間(1818〜30)の初めに、東海道を往来する旅人相手に和中散という道中常備薬を商っていた山本久三郎という人がいて、ここに茶店を開いた。庭園に梅の名木を集め広重の浮世絵にも描かれるような江戸近郷の梅の名所となったことによる。幕末に来日した外国人にも親しまれ、また攘夷派の志士たちも利用したという。しかし、第一京浜国道の拡幅による分断、京急線の専用軌道化、大田区体育館の建設などで敷地が大きく削り取られてずたずたになってしまい、今では昔の面影は全く残っていない。高架になる前の駅を知っている人なら憶えていると思うが、この駅は両側に踏切があるため4両分のホームしか作れず、6両連結の普通電車の京急蒲田側の2両はドアを締め切ったままだった。

●かつては「京浜蒲田」駅

 次は京急蒲田駅。これも前に書いたが、この駅の開業は1901年でJRの蒲田駅より早く、当時の駅名は単に蒲田と言っていた。25年に京浜蒲田となり、87年に現在の京急蒲田と改称した。私のように前の名前に馴染んでいる人は、今でも京浜蒲田と呼んでしまう。併用軌道時代には雑色駅との間に下町(しもちょう)という停車場があった(環八と一国との交差部辺りか)が、23年に専用軌道となった時に廃止された。
また、今の東京計器の近くに出村駅があったが、空襲で焼失、営業休止となり、49年6月30日をもって正式に廃駅となってしまった。戦時中は軍需工場であった東京計器に通勤する客で賑わったが、会社が機能停止し利用客が減ったのが主な理由らしい。ちなみに出村というのは八幡塚村(六郷の中心)の飛地の字名です。

●雑色の由来は古い

 次は雑色駅。ここも珍しく開業以来名前に変更はない。雑色というのは、古代からあった雑役に従事していた下級役人のことで、源頼朝は通行人を監視し治安の維持にあたるため街道に配置した。この警察制度は江戸初期まで続いたが、それが雑色村の名前の由来と言われている。
 雑色駅と六郷土手駅の間には八幡塚など3つの停車場があったということだが、いずれも1906年に廃止されている。専用軌道化と一国の拡幅、六郷橋の鉄橋化などが原因で廃駅となったものと思われる。区内で最も南にあるのが六郷土手駅で、06年に六郷堤として開業した。現在の六郷土手駅に改称した時期はわかっていない。

●複雑な歴史もつ空港線

 次に空港線(旧穴守線)のほうだが、糀谷駅と大鳥居駅は開業以来名前の変更はない。その先は非常に複雑で穴守稲荷、稲荷橋、穴守、羽田などの駅が移動、または廃止が繰り返されたが、ここに詳しく書いているスペースはない。複雑にした原因は進駐軍による接収、住民の強制立ち退きと羽田エアベースの建設による廃線、廃駅と復帰後の再開などである。また国際空港化に伴う再拡張で線路の延伸、空港内の新駅ができたが、比較的最近のことなので省略する。
 このように京急は併用軌道の路面電車から出発したこともあって駅の改廃が多い。また、110年余りの長い歴史のなかで時代の波に翻弄され、空襲による焼失、進駐軍による接収なども経てきている。人の一生に似て浮き沈みがあり、だからこそ愛着がわくのではないだろうか。

●困る迷走、今こそ鉄路は安全第1に

 さて、ここまで京急の廃駅、廃線を書いてきたら、なぜか廃駅が廃液に、廃線が敗戦に重なって見えてきた。いったい福島第一原発の汚染された廃液はどうなっているんだ。また秘密保護法と戦前の治安維持法がダブって見えてくる。まったくいやな世の中になりそうだ。昨年(2013年)の流行語大賞ではないが、秘密保護法を廃止するのは「今でしょ!」。安倍政権に「倍返し」してあげようではないか。
 猪瀬都知事も、オリンピックの東京招致成功ではしゃいでいたが、裏のお金が発覚して「表(おもて)なし」。生活に不安があったからと大金を借りた人が今度は1年分の給与を返上したいという。ああ、あきれて本当に「じぇじぇじぇ!」と言うしかないでしょう。

(多田鉄男 新蒲田在住)

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