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正好の思い出日記 戦争中の少女時代(6)
勤労奉仕の中に楽しみ見い出した日々

 女学校二年の大日本印刷のお札数えにはじまって、三年の明電舎、四年のグリコ、五年の新潟鉄工と勤労奉仕が続きました。
 大日本印刷からはじまった奉仕という仕事も、考えてみるとどれも単純な仕事でした。お札を数え紙テープでまとめる仕事の大日本印刷、明電舎は紙ではなく絶縁紙ですが、何枚かを重ねて組む。グリコはアメになりましたが、小さなつつみ紙でくるむと、すべてが単純な作業ばかりでした。
 新潟鉄工はそこにいくと作業がおもしろかったです。本工場より道路をへだてて第八高女の生徒だけの働く小工場があって、三尺旋盤と六尺旋盤での作業でした。

新潟鉄工の思い出が一番

 今では記憶も遠のいてきていますが「うえださん(上田?植田さん)」という職長さんとあと二、三人の工場側の人がいていろいろと世話をしてくれました。
 作業服は与えられました。和服風の上着、モンペ風下着でした。頭にはつばのない頭巾のような帽子といったいでたちでした。
 事務系の方にまわった人と違い、機械の方の生徒は労働(立ち仕事ということ?)がきついということであったためでしょうか、二交代制でした。午前から午後への引き継ぎは、顔を見、ことばをかわしましたが、午後当番は引き継ぎが出来ませんから、手紙を書いて、旋盤についている工具箱に連絡の手紙を入れるわけです。戦時中とはいえ、少女心は楽しさ作りに働くわけで、けっこう自由に楽しみながら手紙を書き、工具箱にお世話さまになりました。
 旋盤はいくら油まみれになっても「作る」喜びは、女の子であっても男の行員さんと同じように感じました。
 作業として鉄の棒をバイトで削り、ネジに変えてしまうのですから、粘土を美術の時間にこねて何か作り出すのとは比べようもないほどワクワクする喜びを感じたわけです。ネジだけでなく、丸い形のバイトをあてて玉を作り出す作業もありましたが、きれいな玉を作り出したいと思ってもビルビルとぶれて、チョウチンのようなものが出来上がりについてしまい、いくらきれいであっても「オシャカはオシャカだよ」と言われがっかりしてしまったこともありました。
 「この製品何になるんですか」と聞いても「サーね」と教えてはくれませんでした。知ったところでどうにもなるものではありませんが、残念といえば残念なことでした。

進路指導はゼロ

 私は一途に工場での作業を一生懸命にはげんでいましたが、女子校卒業のあと大学進学を目標にしていた人もいて、休憩時日なたぼっこをしながらでも勉強をはげんでいた人もいました。特に英語など教科からは敵国語ということで、現実にはオミットされていても取組まなければならないという矛盾は気の毒この上なしということでした。
 それぞれが、女学校五年生が終わったらどう進めるべきか、細かな指導は全くなしで日々は進んでいきました。学校の指導のありようは昔も今も変わらないように思えます。
 くり返すようにようになりますが、「自分のことは自分で、又は友人と話しあってすすめていきなさい」という時代でした。

((平林正好・池上在住)

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