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正好の思い出日記 戦争中の少女時代(5)
「今度はこっちだぞ」

 「今度はこっちだぞ」、三月浅草一帯の下町空襲が終わって、親戚へ見舞いに行った父の下町の惨状を見てのことばでした。
 B29が東京の空をわがもの顔に飛び回っている時に日本軍の高射砲がねらっていても、ちっともあたることはありません。それどころかとどかないのです。しかし空高く飛んでいるB29から落とされる焼夷弾は確実に日本の木造家屋を焼き尽くしていったのです。父が漏らしたことばは、当てずっぽうでなく浅草一帯を見てのことばだったのです。
 四月一五日品川から大森、蒲田、川崎と爆撃を受ける前から、久が原、雪が谷と小規模な爆撃は受けました。父の「今度はこっちだぞ」と言われる前から、疎開することもできない家は東京にしがみついていました。B29が飛んでくるのは、昼間だけではありません。夜電灯に暗幕をかぶせても「敵機の目あて」ということで、結局は消灯しますので、防空壕に家族、近所の者同士集まって避難していました。寒い夜などあたたまった布団から出るのがいやで壕に入るのがとてもつらかったです。
 よりそうように壕に集まり避難しましたが当日逃げたのは家族一緒ではありませんでした。中学の弟は、いずれ疎開にもっていこうと衣類をつめておいた行李を自転車につけて品川の方に逃げたということでした。ただ驚いたことに自転車に鍵をつけたまま走らせたもので、タイヤのまわりのスポークが全部へし折れてしまっていました。
 母は、小学生の二人の妹の手を引き逃げました。これは京浜蒲田から雑色の先まで行ったようです。空襲が終わり一帯の火災も落ち着いた頃の戻りで一番遅くだったもので、帰り着いた時には、家が焼けてしまったことよりはほっと胸をなで下ろしたところでした。
 私はこの時、一人で蒲田駅方向に逃げました。焼夷弾が雨あられのようです。昼のように明るくまず逃げ込んだ八幡神社の大きな防空壕に入れさせてもらいましたが、じっとしていられずそこを飛び出しました。避難誘導していた町会の世話人らしき人が「水をかけてあげる」と言ってバケツの水をかけてくれました。防空頭巾をかぶっていたわけですが、この時敷き布団を抱えていました。綿の手に入らぬ時代で、母に喜んでもらえることばかり頭にありました。大槻外科医院の入院患者らしき浴衣がけの足をひきずって逃げまどう姿の人も見かけましたが、どうすることもできませんでした。ただ心残りの記憶として私にはあります。
 蒲田駅についてしばらく線路を越え、西口でじっとしていました。西口の方まで火の手はきませんでした。焼夷弾の投下も終わり空も白々とし始めました。
 夜も明け家に戻る時、まず家族のことが気になりました。家が焼けてしまったことは、町会で(風の変化の現象か)たった二軒の焼け残りだったもので気にもなりませんでした。安否のみが気がかりで、遠くに逃げた母と二人の妹の帰宅でホットしました。
 家が焼けてしまった時、父の叔母が久が原に住んでいるもので、父が「家が焼けてしまったよ」と知らせに行きました。父としては「ともかく困るだろうから」と家族をよんでくれると思って知らせに行きましたのに、「まずは水に困るだろうから」と一升瓶に水を入れてくれました。焼け跡には水がジャージャー流れていたもので、父はとてもさびしかったようです。

((平林正好・池上在住)

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