ホーム > バックナンバー > > 2013/11 > 歴史を伝えるということ
この夏私は、二つの戦争遺跡を観た。ひとつは映画で一つは現地に行って。その中で考えたこと、感じたことを書いてみたい。
松代大本営跡地 〜全ては国体護持のためだった〜
9月7日〜8日に東京全労協が主催した松代大本営跡地と無言館見学に参加した。
アジア・太平洋戦争の末期、1945年5月現在の長野市松代町の像山・鶴舞山・皆神山を中心に、本土決戦の指揮所として大本営と天皇を移し、放送局なども移動させるための地下壕建設の計画が立てられた。この工事を運輸通信省から請け負った西松組、鹿島組が、約6000人とも言われる朝鮮人の労働者(朝鮮半島から強制連行されてきた人たちもいた) この上に君臨する作業場の親方たちを競い合わせ、地元の子供達も含む戦時徴用・動員された人々(一日約2000人)を使って、およそ9ヶ月で全長10キロにも及ぶ地下壕建設の突貫工事を行わせた。朝鮮人労働者たちは、三角屋根の風や雪が吹き込む粗末な建物に寝泊りし、コウリャン飯とわずかなおかずという劣悪な労働条件の中で、一日10時間以上、一歩まちがえれば命を失いかねない危険な重労働を荷わされたのである。
「天皇の御座所」は、鶴舞山に作られた。1945年3月23日工事の発令が行われ、4月3日に建設現場付近に住んでいた人たちに「一週間以内、おそくとも4月中に移転するように」という命令が出され、強制立ち退きが行われた。
ここで伺った話の中で特に印象に残っているのは、この「天皇の御座所」建設と沖縄戦との関係だ。45年3月20日大本営は当面の作戦大綱において「沖縄での作戦に重点を置く」と決めた。沖縄では3月23日から米軍による砲撃が始まり、鉄の暴風雨と言われた苛烈な沖縄戦が本土防衛の最前線として行われた。この同じ頃、「天皇の御座所」建設が行われている。そして、御座所建設がほぼ完成した6月16日阿南陸軍大臣が松代に視察に来ている。そして、阿南は陸軍参謀総長と連盟で6月21日沖縄の牛島司令官に対して「貴軍の忠誠により本土決戦の準備は完了した」旨の電報を送っている。6月23日牛島司令官は自決し、公式上沖縄作戦が終わった。「本土防衛」「本土決戦準備」とは、実は天皇の避難場所を作ることだったのではないか? このために沖縄の人々は犠牲になり、松代の朝鮮人労働者をはじめとした人々は苦難を強いられたということだ。全ては、天皇制国家・国体を守るために行われていたという史実を知り、改めて強い怒りを感じた。
映画「陸軍登戸研究所」を観て
8月31日映画「陸軍登戸研究所」を観た。神奈川県生田緑地に1919年に作られた登戸研究所では、偽札作り、風船爆弾、生物化学兵器の研究など戦争中の秘密工作の多くが研究・考案されていた。映画は、一つ一つの史実を証言と戦争遺跡の映像などを交えながら約三時間の長編であるが、その史実のすごさに思わず時間を忘れ引き込まれていく内容だった。びっくりすることに偽札だけではなく、偽パスポート作りも行われ、これらの技術は、技術者とともに戦後アメリカに渡っているということだった。
とりわけ、風船爆弾は、蒲田の生活センター近くでも作られていたという記録があるので、当時作業に携わった人たちの証言は、女学生たちに労働と秘密厳守を強い作られたことがよく伝わる内容だった。また、この研究所に深く関わった人と戦後結婚した女性が語る「冷たい人だった」という言葉に、人間性を失わなければ進めることのできないこの研究所の暗部を示しているようだった。
二つの戦争遺跡が私達に語りかけているもの
改憲を標榜し、憲法解釈を変えてまで戦争への道にのめりこもうとする安倍首相の言葉が伝わる中で、この二つの戦争遺跡を観た。二つとも、体験者の証言やわずかに残された記録を元にその時代には生きていなかった人たちによって遺跡の保全と記録映画作りが行われている。とりわけ映画「陸軍登戸研究所」は今だからこそ語りたい、残したいという強い思いが証言者と作成に携わった若者達から伝わってきた。
為政者が何をしたのかという史実は、今何をしようとしているのかを照らし出す。だからこそ民衆は語り続け、伝え続けていかなければならないと思う。大田区は育鵬社の歴史教科書を採択した。この教科書が捻じ曲げて伝える「歴史」ではなく真実の歴史を是非多くの人に知ってもらいたい。この原稿を書いていたら、大田の教育を考える会(連絡先大田区教職員組合)が、11月29日午後6時30分から「沖縄戦から平和・教科書問題を考える」という催し物の案内が来た。講師は、牛島貞満さん。牛島さんは、牛島中将のお孫さんで「祖父の命令で増えた戦死者」という史実と向き合い平和教育を実践しているひとだ。是非このお話にも耳を傾けたい。
(藤村 妙子)