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正好の思い出日記 戦争中の少女時代(4)
なつかしい思い出も断ち切られて

思い出の「登記所通り」

 京浜蒲田駅から穴守線は一国をわたって進みました。東蒲田三丁目で電車の線路がわたったところに南蒲田小学校方向に行く道があります。国道よりはずっと狭い道ですが、私には大切な道でした。
 通常私は使っていませんでしたが「登記所通り」と言われていたようです。もちろん「登記所」があったからです。登記所と言っても子どもの頃のことで全く生活には関係のない建物でした。でも心に残っていることは広い庭が線路まであり、そこに大人の一抱えもある大きな「しだれ柳」のあったことが忘れられません。
 車の通る道でしたが、左側には「柴田眼科」、右側には小児科医院・耳鼻科とあり、閑かな感じの通りでした。

閑かな通りも建物疎開で一変

 駅には近く通学通勤、そして生活するには便利といった通りでしたが、戦争が激しくなり穴守線を守るために建物疎開が始まったのです。
 私の家は線路際でなかったのでこわしの対象にはなりませんでしたが、お向かいの竹内さん宅は品川の方に引っ越していきました。この竹内さんには小さい子どもが二人いましたが、その子たちの遊び相手をしていたわけでもありませんがおばさんにはとてもお世話になりました。

イギリス式編み物に驚嘆

 女の子は母親からあれこれ教わるわけですが、六人も子どもがいるとそうはいかず、わたしはこのおばさんからいろいろ教えてもらいました。そのひとつが編み物です。母に習ったのは、毛糸を右手で持ちいちいちかけて一目ずつ編みあげる方法でした。竹内のおばさんに教えてもらった方法は、毛糸を左で持ち、編み棒を一目入れ抜いていく方法でした。後で知ったのですがイギリス方式とか言われていたようです。ですがその頃は、一目の進め方でも母とは違い、ただただ尊敬するだけでした。
 わたしの家よりずっと大きな竹内さんの家(百坪)を、穴守線を守るためといってとりこわし、生活をもこわしてしまうのですからむごいことです。
 今だったら黙っていられません。

((平林正好・池上在住)

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