京急蒲田駅西口の再開発問題を機に、これまで4回にわたって京浜急行沿線の歴史を取り上げてきた。それは4月号の「再開発地区には戦前自動車学校があった!」に始まり、「JR蒲田駅より歴史が古い京急蒲田駅!」、「関東で一番古い私鉄、京浜急行の歴史」、「帝都の光と闇を見続けてきた穴守線」と続けてきた。今回は鉄道事業の話題からちょっと離れて、意外な事実「電灯、電力事業も行なっていた京浜電鉄」について書いてみたい。
●雨後の竹の子状態で全国に電灯会社
明治維新から間もない1871(明治4)年、ガス灯が初めて横浜にお目見えしたが、それから10年余り後の82年、文明開化の象徴である電灯照明が、日本で初めて銀座に登場したときは、連日大勢の見物客が押し寄せたという。それまでランプの灯りしか見たことのない一般の人々にとって電灯照明のまばゆいばかりの輝きは驚きであったに違いない。その後、86年に現在の東京電力の前身である東京電灯会社が開業している。開業から6年後の92年には、当初130灯であった東京電灯が電灯1万灯祝典を挙行している。当時の電力事業は民間人による純然たる私企業だったため、雨後のタケノコのように全国に電灯会社が設立された。
●余剰の電力の売電を計画
関東で一番古い私鉄である大師電気鉄道(現京浜急行の前身)が開業したのが1899年、当時沿線の多くの住民にとって電気はまだ未知のものだった。物珍しさも手伝って電車の線路脇には見物客が押し寄せた。動力源である電力は六郷河畔の久根崎に立てた川崎発電所(現東京電力久根崎変電所)で自家発電した。
開業前から、電車を走らせるため以外の余剰電力を沿線に供給しようと電力事業の出願をしていた京浜電鉄は、認可を得て1901年8月24日から大森町区域の一部で電力供給事業を開始したが、始めは43戸、163灯に過ぎなかった。あまりの少なさに意外に思われるかもしれないが、一戸当たりの平均電灯代は約2円50銭で、これは白米が25キロも買えた金額であり、当時の一般家庭にとっては贅沢品以外の何物でもなかった。
●便利さうけ最盛期は3万戸余に売電
送電時間は冬場は午後4時半、夏場は午後6時半から午前1時までだが、当時の一般庶民は夜の9時から10時には就寝していたので照明はランプで十分だった。それに現在では全く考えられないが、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、クーラー、パソコンといった電化製品は一切存在しない時代である。さし当たって、生活の中に電気は必要としていなかった。
それでも供給範囲が拡大し、面倒な油の補給をせずにスイッチをひねるだけで使える電灯の利便性が理解されるようになると、契約者数も増加していった。さらに04年に始まった日露戦争による戦争景気で沿線に様々な工場が建ち、電力の需要が増大していった。43戸からスタートした京浜電鉄の電灯,電力事業は13年末には一般家庭で15町村、約1万戸に、さらに18年には20町村、約2万2000戸、最盛期の21年には現在の品川区から大田区、川崎市、横浜市(鶴見区)にかけての3万戸あまりに供給した。
●不況で廃業も結果的に吉
第一次世界大戦は沿線の工場の電力需要を大幅に拡大したが、戦争が終わるとそれまでの好況が一転し、深刻な不況に陥った。工場の閉鎖や休業が相次ぎ、電力業界でも合併、再編が繰り返された。こうした中で、京浜電鉄では電灯、電力事業を継続するより将来性のある鉄道事業に資金をつぎ込む方が得策と考え、1923年5月1日、22年間にわたる電灯、電力事業部門に終止符を打ち、同部門を売却することにした。鉄道事業との両輪で続けてきた事業だけに、株主の中には反対意見もあったという。けれども、偶然とはいえ売却からちょうど4ヶ月後に関東大震災が起こって大きな被害を出したことを考えると、結果的には先見の明があったと言えるのかもしれない。今からちょうど90年前のことであった。
(多田鉄男 新蒲田在住)