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正好の思い出日記
戦争中の少女時代(3)

一回だけのチャンスが後々まで

 私は兄弟姉妹の六人きょうだいです。
 この六人という数は、今でこそ驚く数字ですが、私の子供の頃のきょうだい関係で言いますとごく当たり前の数字なのです。
 この数字は生活の中にいろいろと関わりが生まれてきていました。
 大きく心に残っていた考え方の一つは、父の言葉です。
 「中学校、女学校と受験させるが一回だけだよ」、すなわち受験を失敗したら、小学校が終わったら高等小学校に行き、二カ年が終わったらお勤めにいくというコースなのです。
 兄は数学に強い人でしたが科学系の学校受験を失敗し、高等小学校二年で勤めはじめました。たまたま調子よくいった私は女学校五年というコースを進むことになりました。
 「お兄さん、頭いいのにわるいなあ」と何かにつけ思い続けたものでした。もう亡くなりましたが、この兄は勤めながらがんばり続け、国家試験で中学校の資格を取得したものですから、感心するばかりでした。
 子供の数も一人っ子が近頃多くなり、きょうだい三人というと珍しい世の中になってきていますが、六人も育て通した母の姿を思い出します。

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 食べることも六人の子供に食べさせるのですから大変でした。何せ戦争中、戦後と、おいもの葉や茎を、時にはたんぽぽの葉をゆでておひたしにして食したものですから、台所を受けもっていた母親の苦労は大変なことでした。
 思い出しで文を書くことを許してください。
 女学校時代、きょうだいにうらやましがられた仕事を一つ私は与えられていました。
 線蒲田駅の近くに三好野という食堂がありました。この店がもっていた家作を借りていたもので、母から頼まれて家賃を届けによく行きました。
 「ありがとう、おだちんがわりにちょっと休んで…」と、みつ豆とかお汁粉をごちそうになりました。母にそのことを報告すると、他のきょうだいが聞いていてどうにもならないと知りつつうらやましがられました。
 しかし家賃の届けは私、ということにいつの間にか決まってしまっていました。

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 この頃のことでまだ思い出すことは、京浜蒲田駅近くの小料理屋のおかゆの行列です。母がお鍋をもって並び、おやつがわりに用意してくれたことです。
 いくら女の子でも食べ盛りの年頃です。味はどうだったかしらと後で思うほど、ただただ空腹を満たすだけのものでした。
 したがって母への感謝というより前に、ただただ「おなか一杯になった」という安堵感の方が強かったのです。
 蒲田駅から京浜蒲田駅へ向かって歩くと広い通りからちょっと曲がって入る路地がのんべ横丁≠ナす。右手側は店、左手側は自動車練習場になっていて、コンクリート塀の中は思い出には出てきません。
 右側の店の中には、匂いが思い出として残っている横山せんべい店がありました。おしょうゆの香ばしい匂いと擬宝珠の形がなつかしいです。
 京浜蒲田駅から一国(京浜第一国道)に出たところにパン屋がありました。あの頃はパン食の時代でなかったもので、山型のパンを時折買ってもらえたことは大きな喜びとして今でも残っています。

((平林正好・池上在住)

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