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那須、ここは私達東京満蒙開拓団を知る会が是非とも行ってみたい場所だった。この地は、戦後国内にもどった開拓団の人たちが国内開拓を行った場所である。NHKが昨年放映して話題になった「開拓者たち」の舞台でもあった。そして、ここは、わたしたちの調査・研究している天照園(途中で一?樹開拓団と改組)の人たちが戦後入植した場所であり、鏡泊学園が解散したあと三河の地で開拓団になった人たちが戦後入植をし、南が丘牧場を拓いているところでもあった。まさに、私達の研究の終着地とも言えるこの場所に行くことは、会として大切なことだった。
この地へ行くための準備を私達は今井さんに託していた。6月17日の夕方いつものように途中経過を報告する電話を受けてた時「準備が進んでいることを、6月19日の会議にまとめて持ってきてください」と聞き流してしまった。
6月18日に今井さんの訃報を受けたときに真っ先に浮かんだのはこの那須行きのことだった。誰に、いつ会う約束をしていたのか? 会う人たちの連絡先は?全部今井さん任せにしたこと、彼の電話連絡を聞き流してしまったことを悔いたが、もう彼はいない。失礼を承知でご家族に彼がこの旅行準備のために残したメモを探してもらった。
メモを頼りに、今井さんに導かれるようにして那須行きの準備を進めた。
そして、私達は7月2日今井和江さんの心づくしの今井さんの遺影と共に、多田さんの甥子さんが運転する車に乗って、多田さん、横山さんと那須に向かった。
栃木県開拓共同組合〜千振開拓団のこと〜
栃木県那須の黒磯駅西北に広がる一帯が那須町に戦後入植した人たちが開拓した場所である。この地域の開拓共同組合の組合長をしている櫻井徳一氏にお会いした。櫻井氏の父親は、1933年第二次武装移民の一員として千振開拓団に入植した。35年に大陸の花嫁を妻にし、徳一氏は、36年に出生している。小学校の同級生は100人くらいた。46年に帰国したので、10歳くらいまで満州にいたことになるが、満州時代のことは、こちらが質問しなかったせいかあまり多くを語らなかった。しかし、「NHKの開拓者たちに描かれていたのはほんの少しの出来事で、『あんなもんじゃなかった』と逃避行のことを覚えている人たちは言っている」と語ってくれた。敗戦時に約1700人いた千振開拓団は、戦後の混乱で1000人以上が命を落としたという。
帰国しても生家の暮らしも苦しく、千振開拓団の人たちは、46年11月7日に約80人が軍馬補充部跡地だった那須の大地で今の千振開拓を始めた。やせた土を苦労して耕し、国策もあり酪農が主産物となっていった。「国内開拓と満州開拓の違いは、明確だった。満州の方は本物の開拓ではなかった」と語ってくれたのが印象的だった。
三河から那須へ
続いて訪れたのは南が丘牧場だった。この牧場の経営者は満州の中でもソ連国境に近い辺境の地三河から帰国された方たちだ。
拙著「東京満蒙開拓団」の第二章「鏡泊学園」にその経過は詳しいが、学園解散後、岡部勇雄氏たちは三河に入植した。この三河での暮らしを岡部勇雄さんのご子息の岡部勇一郎さんご夫婦が南ヶ丘牧場「庄屋の館」の暖炉の前で語ってくれた。
三河は、ソ満国境に近く、一番近い町のハイラルまで馬車で一週間450キロあった。白系ロシア人とオロチョン族などの原住民が共同組合を作り暮らしている中に入った岡部氏たちもまた共同農村を作り、酪農を中心に他の民族の人々とも友好関係を持ちながら酪農を中心とした農業経営をしていた。200人近い団員がいた。そして、逃避行の時は、飼育していた牛や羊を連れて、捕まれば大変なことになるとわかって協力してくれた現地民の案内で大興安嶺を超えた。岡部勇雄氏は、当時徴兵されていて、朝鮮付近にいたが、逃げてくる避難民とは逆コースをたどり再会している(この経過については、牧場で売られている『三河その青春の碑』古澤敏雄著に詳しい)。日本に帰ってからは、家族を中心に南が丘牧場を少しずつ広げ、また、磐梯や二本松市などにも牧場を広げていったが、東日本大震災による原発事故によって閉鎖しているところもあるとのことだった。
お話を聞きながら、なぜ岡部氏たちはあんな辺境の地に行ったのだろうという疑問が少し解けたような気がした。岡部勇雄氏はいつも現状に留まることを了としない、理想を実現するエネルギーに溢れた人だった、だから、現地の人たちが耕した土地を取り上げて「開拓」と称するやり方ではなく、本当の開拓=フロンティア開拓をしたかったのだろう。「五族協和」を口先の方便ではなく、共に生きるものとして実践をしたかったのだろうと思う。だが、現実は「理想や善意」を押しつぶしながら激しく動いていたのである。
南が丘牧場のおいしい料理と心からのもてなしに感謝しながら牧場を後にした。是非みなさんも行ってください(この牧場は、入園料も駐車料金も取っていません。ここにも岡部氏の心が受け継がれている)。
大同の大洞さんにあう
続いて大同の大洞東平(だいどう 正しくはおおぼら)さんに会った。彼は、「銃を持たされた農民たち」という写真集を築地書館から出版している。千振り開拓団の人たちを撮ったこの写真集は、一人ひとりのしわが語る歴史を写し出している。
大同地区の獣医だった彼は、一?樹開拓団の人たちと出会っている。仕事のあと立ち寄った家で語る言葉を彼は多く聞いていた。だが、わたしたちもそうだったが、意識して聞いたり、聞き出したりしていないと相手が語っていることを記憶することや記録することもできない。「多くの村人たちは、満州時代のほうが楽だったと言っていた。写真集を出した頃、皆の話をたくさんテープにとった。でももういらないと思って棄ててしまった。今から考えるともったいないことをしたと思う」と語ってくれた。今彼の住んでいるところも原発事故で汚染されている。「国のひどいやり方は満州と同じだ」と憤りを隠さず、率直に話す彼の言葉を聞きながら、私達の研究がもう少し早く始まっていれば、もっと多くの人の話を聞けたのにと思った。
この那須の旅を準備してくれた天国の今井さんに感謝しながら、帰路に着いた。
(藤村 妙子・東京の満蒙開拓団 を知る会)
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