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正好の思い出日記 戦争中の少女時代(2)
”もの作り”の喜びを知る

女学校一年生

 京浜蒲田駅から青物横丁駅までの電車通学でしたが、下車してから学校までは歩きです。府立第八高女のとなりは通称「電工」と呼んでいた男子校です。ここの生徒は軍隊と同じ「背嚢」でゲートルといった服装でした。その上歩行は正常歩ですからなにやら刺激されて第八高女もそれに近い登校ということになり、ブラブラ歩きなどとんでもないといった感じです。
 忘れもしません、こんな思い出も出てきます。体育の時間、縦に一列に並び前の人の脇に手を入れ腰を落としてエッチラオッチラ運動をする時、「何という名の運動だ?」と男の教師から指名されたもので慌てて「芋虫ごろごろです」と思わず答えましたら、その士官学校出の体育教師から「しっかりしろ! 一億一心というものだ」と大声で怒鳴られたことが忘れられません。一年生の時にはまだ勤労動員はありませんでした。

女学校二年生

 この時から勤労奉仕ということで勉強なしで奉仕作業が始まりました。一週間の奉仕です。大日本印刷での、南方で使うお札を何枚だったか忘れましたがきちんと揃えて紙帯をかけてまとめる作業でした。

女学校三年生

 大崎の明電舎が作業場でここでは、寸法が何ミリか小さくなっている絶縁紙を五枚ほど組む作業でした。電線に巻き付けると何ミリか小さいのがうまく巻き付くわけです。ここも一週間でした。

女学校四年生

 六郷土手にあったグリコも一週間ほどだったと思います。ここで思い出すのはデケタのおじさん≠ニ皆に呼ばれていたおじさんがいたことです。どうしてこう呼ばれていたかというと、朝礼で集まった時に前日の作業結果が発表されていたのです。グリコでは薄いハート型の飴を油紙に一個置き、手前、向こうを折り、左右の角を折り曲げて一個のつつみが終わります。一生懸命グリコを包み、甘いものに飢えていた時代ですが、誰もこっそりなめることをしませんでした。あの頃の生徒はえらかったと思います。というよりは、お国のためというグリコの宣撫工作が理解されていたわけです。少々回りくどい話しになりましたが、「昨日のデケダカを発表します」という毎日の報告を素直に聞いていたのです。

女学校五年生

 戦争も厳しくなり勉強どころではなくなり、一週間ほどで済んでいた作業も単なる奉仕ではなくなりました。戦時体制に変わってきていたのです。赤紙≠ナ軍隊に召集される男の人、白紙≠ナ職場を変わる人(たとえば紳士服を仕事として働いていた人が工場にかり出されるとか)とかいろいろのことが起こりました。
 中学生は疎開した空き家の柱に縄を巻き、「ヨイショヨイショ」とひいて壊すといった力仕事を割り当てられたりもしていました。女学生も今までの一週間のような短期の奉仕作業ではなく、学校に行かず、勤労奉仕の作業場に出かけたわけです。もちろん教科書など使わないわけで、割り当てられた作業場の奉仕作業のみです。
 第八の割り当ては「新潟鉄工」でした。機械作業と事務作業に分かれました。小学生低学年の頃肋膜炎で半年ほど欠席し、体操の内「かけっこ」は見学していたもので、仕事場振り分けの時事務系に回りましたが、何ヶ月かすると健康に異変も起き、配置転換で機械作業班の方に変えられました。この経験はあとからの思い出ですが、実に楽しかったです。鉄棒を旋盤にはさみ、段車を加減して回し、バイトで削る、初めての作る喜び≠フ経験でした。

((平林正好・池上在住)

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