川崎大師とともに流行神として大変な賑わいを見せていた穴守稲荷への参詣客を運ぶために、蒲田から穴守までの穴守線(現在の空港線)が開通したのは1902(明治35)年6月28日のことだった。ということは今年で111年の歴史を刻んでいることになる。その3年前の1899年には関東で最初の電鉄、大師鉄道が開通していた。穴守線の開通によって多摩川の下流部両岸に二つの電車線が並行して敷設されたことになる。その結果、それまで多摩川を渡し船で渡り川崎大師と穴守稲荷の両方を参拝していた参詣客にとって格段に便利になった。
ところで現在の穴守稲荷は海老取川の西側(羽田5−2−7)にあってそれほど賑わっているようには見えないが、戦前までは海老取川の東側、つまり現在の空港内敷地にあリ、門前の賑わいは今からは想像もできないほどであった。また、穴守線が開通した1902年というのは日露戦争が始まる2年前にあたる。ちょうど日本の帝国主義的膨張に拍車がかかる時期である。穴守線はそれから一世紀余の波乱の歴史に、ときには翻弄され、またときには時流に乗って現在に至っている。まさに歴史の最前線を見てきた証人ともいえる路線なのだ。
まず、穴守稲荷の歴史から見ていこう。空港がある海老取川の東側は、かつては多摩川が運んできた土砂が堆積してできた遠浅の砂洲で、要島(かなめじま)と呼ばれていた。文政年間というから今から200年近く前になる。羽田猟師町の名主、鈴木弥五右衛門が中心となって要島を干拓し新田開発を行なった。その際この開墾地の堤防の守り神として祀られたのが穴守稲荷であった。
以後曲折はあるのだが、穴守という名前から女性を守る神としてもてはやされ、流行神として多くの参詣客を集めるようになっていった。境内には真っ赤な鳥居がずらっと並び、土産物屋や料理屋が軒を連ねた。とくに1894年に社の近くで鉱泉が発見されるとたちまち門前に鉱泉宿や割烹が出現し、一大歓楽街となっていった。さらに穴守線の開通後は羽田に海水浴場や潮干狩り場もでき、東京郊外の行楽地として繁栄していった。なにしろ島の中に羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町と3つの町ができ、1200世帯、3000人を超える住民を抱えるほどになっていったのだから。
やがて、日本の軍国主義化が加速し日本特殊鋼、荏原製作所、明電舎、大谷重工などの軍需工場が進出してくると、国民精神総動員運動(1939)の中で待合、料理屋などの営業時間が短縮されていった。「ぜいたくは敵だ」の標語にもあるように行楽などは贅沢とされ客足は激減していった。その結果、料理屋は工員相手の食堂になり、鉱泉宿は社員寮へと姿を変えていった。穴守線の乗客もそれまでの参拝客、行楽客から軍需工場で働く労働者の通勤電車へと様変わりしていったのである。
戦時下の陸上交通事業調整法に基づき、1942年には京浜電鉄は小田急とともに東京急行と合併され、44年には京王電気軌道も吸収された。京浜電鉄が戦後再び分離独立し、京浜急行として復活するのは48年6月1日のことである。
45年4月の空襲で穴守神社は社務所が被弾、社殿は無事であったが、宮司が爆死した。そのため御神体を海老取川西側の羽田神社に仮安置し、閉鎖を余儀なくされた。さらに戦後乗り込んできた進駐軍は海老取川以東を接収、9月21日、羽田3町の全住民に対し48時間以内の立ち退きを強制した。 これが先祖伝来の地を追われる敗戦国の住民の惨めな姿であった。車などまだ普及していなかった時代である、リヤカーや荷車に家財道具を詰め込み、親戚や知人を頼って弁天橋や稲荷橋を渡った住民の気持ちは察するに余りある。穴守稲荷が現在地に移設されたのは48年であった。
住民の退去により、穴守線も稲荷橋から穴守間の営業の意味がなくなり、運転を取りやめたが、GHQは穴守線の上り線路を強制接収した。そのため稲荷橋が終点となった蒲田、稲荷橋間は接収が解除される52年まで単線運転を強いられた。住民を強制退去させて海老取川以東のハネダエアベースの建設に着手したGHQは、工事用資材運搬のために接収した穴守線のゲージを省線と同じ狭軌(1067ミリ)に変更して省線蒲田駅と接続させた。元祖蒲蒲線である。
この費用は終戦処理費として日本側が負担している。電車路線として作られた穴守線ではそれまでは見たこともない蒸気機関車が、京浜第一国道を横断し煙を吐きながら羽田まで資材や飛行機燃料を運んだのであった。返還後蒲田駅付近の資材置き場はミスタウンの映画街となり、映画全盛時代の庶民の娯楽を支えた。線路跡は京急蒲田に続く道路になっている。なお、空港内の旧穴守神社の大鳥居は取り壊す際事故が多発し、祟りを恐れてそのまま残された。再拡張にあたって1999年に弁天橋の近くに移設され、「平和」の扁額を掲げながら私たちを見続けている。
1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効によりGHQは廃止された。しかし、アメリカの重要な極東戦略基地としてハネダエアベースは使われ続け一部変換されたに過ぎなかった。全面的に返還されたのは58年である。東京国際空港として再出発してから以降についてはご存知の方が多いと思うので省略するが、60年安保闘争の時には米大統領秘書ハガチーが羽田でデモ隊に包囲され、米軍ヘリで脱出する一幕もあった。
67年10月の羽田闘争では、弁天橋で京都大学の学生山ア博昭さんが機動隊との衝突でなくなっている。また、69年の「11・17佐藤訪米阻止闘争」では蒲田周辺が闘いの舞台となったことは、40数年経った今でも私には忘れることができない。
明治、大正、昭和、平成と激しく移り変わる羽田及び蒲田地区を通して、100年余の日本の縮図を見てきた穴守線は、現在の日本のきな臭い状況をいったいどう見ているのだろうか。
(多田 鉄男・新蒲田在住)