「文学探求」トップへ

文学探求 第 350 号  テスト版  New!!

(2007/01 発行)  


▼▼ もくじ ▼▼

 読みたい文章のボタンを押してください。

短歌十首…… 黒部一夫
ひとりの男の死 …… 山田昭彦
開かれた紙面 …… 北村耕
花を歌う 33 …… 中込淑子
花を歌う 33 …… 中込淑子
「イマジン」
途中下車 …… 竹内信子
新たな訴訟 …… 小田美智男
「文学探求」350号おめでとうございます …… 瀬戸千代子
闘いと運動の連続性と不連続性について …… 久下 格
ワープロ変換ミス、など… …… やまだ


短歌十首

黒部一夫

ページトップへ

新宿を夜発つバスに揺られつつ目覚めて朝の青垣の山
                   (出達)

いく度の奈良行ならむバス降りて登大路を歩む喜び
                   (近鉄奈良)

共なりし幾人の中の君も君も逝きて淋しき今日の大和路
                   (近鉄奈良)

ただ広き野の一隅に標ありて大官大寺跡に秋深みゆく
                   (明日香)

明日香野を逝く水音の幽かにて斉明朝の石亀に充つ
                   (明日香)

幾度を訪ひし奈良にも縁なく今日許るされて興福院に入る
                   (佐保路)

障子より半身に出でて物腰の柔き尼僧の歓迎に逢ふ
                   (佐保路)

鄙びたる社ぞ良きと携へて飛鳥坐神社を訪ひし再び
                   (明日香)

眺き見る緑瑠璃坏去り難く戻りて十二曲の説を読みとる
                   (正倉院展)

読み難き篆書の文字には金箔を鏤め民を治めむとするか
                   (正倉院展)

ひとりの男の死

山田昭彦

ページトップへ

 藤谷年孝という男が死んだ。ネンコウでなくトシタカということを葬儀の住職の読経ではじめて知った。

 彼を知ったのは一九五二年、私が熊本から品川客車区へ転勤してきて一年目だった。彼と塩沢というダンディな男が二人、私の前に現れ「シナリオを勉強しているというじゃないか」と切り出した。どこでそんなことを知ったのか、多分私の独身寮の誰かを通じてだろうが、私は黙っていると「戯曲を書いてみないかい」と私に餌をぶら下げた。芝居をやる、というのである。そこで私はどういう返事をしたか、もう思い出すことはできないが、私は六〇枚ぐらいの戯曲を書いた。それからの三年ばかりは彼も私もひとかどの演劇青年のようにして街を歩いた。

 熊本から東京という大都会に出てきた私は、かけそばともりそばの違いも知らない田舎者だった。そんな私を、彼は新橋駅前のバラックがたち並ぶ飲み屋に連れて行き、ウメワリ、ブドウワリの焼酎、レバ、タン、シロのやきとりを食わせてくれ、演劇論を語る彼の顔はまぶしかった。ハンチングを斜めにかぶり、ハーフのコートの尻をはしょって腰掛ける彼の横の私は、国鉄貸与の黒いオーバーに米軍払い下げの軍靴だった。私の前には、ベレー帽に細いマンボズボンの塩沢がいた。彼らと全く対照的な私が並んで歩いても、まだそう不自然には感じない戦後であった。   渋谷駅前の恋文横丁の喫茶店、銀座の生演奏の銀馬車、新宿の丸太を組んだような作りの酒場では「こりゃ、焼酎とラムネ」とそこの名物カクテルの材料まで教えてくれた。彼の知識は芝居ばかりでなく、カクテルの裏側までおよんでいるようだった。

 芝居は男ばかりでなく、女優さんもいなくてはならない。「電車のなかでさ、居眠りしている女は膝が開いている。あれが自然な足の姿だよ」と(今は目覚めていても開いている女の人もいる)素人の女優さんの演技には、女の自然な表情についても細かい神経を使う持ち主の彼だった。

 赤坂、浅草、品川の公会堂、高崎、新潟と公演をつづけているうちには、独身の男性女性ばかりの劇団で自然にカップルができていく。藤谷と私はいつまでも一人だった。そして、三年ばかりして、流れるようにして劇団は消滅してしまった。

 藤谷は、開業したばかりの新幹線へ転勤して行った。私は戯曲でなく、小説を書くようになった。私は彼に時々、電話しては待ち合わせ飲みに行った。 「あんた、ね」と、彼は私と初めて会った時と同じようなちっとも変わらぬ口調で口をきる。 「あんたの、小説は総評文学賞(日本労働組合総評議会)がだめにしたね」「そうかい」「くそ労働者観にこだわりすぎているんだよ」「そうでもないよ」「だから小説が面白くない」「そうかもしれんな」私は適当に流す。彼は「そうだよ」と念を押す。私が総評文学賞に入選し、度々総評に小説を書いているのに対して、労働者というカテゴリーの中に埋没して小説の幅か狭くなってしまっている、というのである。たしかに彼のいう通りであったかもしれない。だけど私には働いてめしを食うそんな立場からのものを書きたいというものが捨て難くあった。

 国鉄を退職した藤谷は、私の住む市のマンションに引っ越してきた。私の家から自転車で五〇分ぐらいの所である。 私は訪ねると、どうしてか時間を忘れて酒を飲み、酔っ払って帰り、家内に文句を言われた。そんなことが何回か続いたあと、私は、自転車で出かけるようになった。自転車だと酒を飲んでは帰れない。

 藤谷が癌で入院したと聞いたのは昨年の十月だった。かかりつけの医者の紹介で入った病院は、設備待遇とも彼は気に入らなかったようだ。奥さんの話では帰りたいを繰り返していたようだった。私はそのうちに行ってみようと思ってはいたが、まあ、病院の悪口を言えるくらいなら大丈夫だと、ほんとに、そのうちが延び延びになっていた。  奥さんから、柏の有料老人ホームに彼が入ったと電話があったのは今年の四月だった。

 私は家内とその老人ホームを訪ねた。有料老人ホームというのはどういうものか、そんな興味もあった。

 が、ちょうどその日、彼は病院へ検査で出かけていて留守だった。私と家内はそこの空いた部屋などを見せてもらった。狭いが新築できれいに作ってあったし、職員も親切そうだった。が月に二四万円も支払うことを聞いては簡単に入れるというところではなさそうだった。

 三日ばかりして、施設の女子職員から電話があった。何かと思うと、いま藤谷さんと代わります、という。 「この前はすまなかったな」「ああ、そこはいいところだね」「あんた、ね。アポとって来るもんだよ」「そうすりゃ、よかった」「アポとらないのは、国鉄職員の悪いくせだよ」「ああ」国鉄職員とアポとどういう関係があるのか、まあ元国鉄職員には社会性がないということだろう、などと思っていると「また来なさいよ」「ああ」「あんた、ね。この前の小説、あれはよかったよ」「ああ、あれか」「あれは、文章がうまいね」「そうかい」その小説は、前年の夏に彼に渡した雑誌に出ていた小説のことだった。奥さんの話しでは、頭の梗塞も進んでいて、新聞も読まない、テレビもあまり見ないということだったたが、私の小説は読んでくれていたのか。多分入院する前にだろうが、今になって思い出したのだろう。彼が私の小説をほめたのは初めてではなかろうか。そしてその言葉が藤谷年孝と言葉を交わした最後になった。

 次に会った時、彼は総合病院のベッドで眠っていた。「耳は聞こえていますから、話して下さい」と看護師に言われ、大きな声で「わかるかい」と言うと、そっとゆっくりとして手を胸の上に出した。私は手を握った。

 次の週に行くと、ただ鼾をかいて眠っていた、呼んでも反応はない。それから毎週一回行くがいつも鼾をかいて眠っていた。

 胃に穴を開けそこから流動食を流すという手術をした日、静かに眠っていた。大声で「おれだよ」というと、途端にガーガーと鼾をかいた。「また、おまえか」というような、タヌキをきめたようにも思える鼾に私はおかしくなった。 私が病院へ行くのが最後になった時、彼は個室に移されていた。いつものように眠っていたが、喉から出るような鼾に聞こえた。看護師にいうと「タンがつまってるかな」と別の看護師を呼びにいった。

 私は何人かの人の死をみている。朝、奥さんに「ありがとう」と言って、昼過ぎに死んだ男。小さな声で私「ありがとう」と言って翌日に死んだ男。自分の死が目前にあることを知り、自然な表情で死を迎える。

 藤谷年孝は二ヵ月位言葉を発することができず、ただベッドに横たわり眠ったようにしていた。私には、まだまだその状態で生き続けるように思えて「また来るよ」と言い帰った。

 が、それから六時間後に彼は息引き取ったのである。

 人は生れ、そしていつか死ぬ。陽はのぼりそして陽は静かに沈んでいくように。

開かれた紙面

北村耕

ページトップへ

 作家集団の実務をはなれ、半ば蟄居状態にある私だが、創立以来もっとも古い会員として、集団への愛着は深い。『文学探求』を毎月手にするのはこの上ない楽しみだし、350号はまさに快挙である。編集長の山田昭彦、コーデネーター役の黒部一夫ご両所の献身的努力なしには考えられない達成である。

 その『文学探求』にある変化が現われはじめたのは、数年前からだろうか。同人誌はもとより、サークル誌のほとんどが、メンバーだけの、閉鎖性の強い雑誌である。対して『文学探求』は数年前から閉鎖性を脱却しはじめ、いまでは執筆陣の半数近くがメンバー外の書き手というところまで拡大し、開放されるに到った。

 これは作家集団が運営してきた「文学散歩」に参加した、特に女性たちの中から表現者が現れ、その方々を紙面に登場させたからだと思われる。その点では「文学散歩」の運営を実質的に仕切ってきた新井利平さんの力に負うところが大きい。小説のうくらさん、随筆の西村さん、竹内さん、短歌の中込さんなどの作品はなかなか面白い。

 これらをふまえて私が指摘したいのは、作家集団は『文学探求』を通して、閉鎖性を打ち破り、メンバーとメンバー外の書き手の協同の場として立ち現われてきたという点である。これは初代事務局長・司代隆三、2代足柄定之、3代北村の時代にはそもそも発想としてあり得なかったことで、4代山田以降の新しい動きとして特筆したい。

 勿論、この傾向を前進とみるか後退とみるかについては意見のあるところだろう。しかし私は前進としてとらえている。なぜなら文学はそもそも閉鎖的であっては窒息するからである。もう一つ大切なことは、企業的文学サークルの限界ということがある。これは企業内にサークルを拡大する努力を放棄することではない。可能性のあるところ、どこにでも撃って出る必要はある。しかし、その前に、企業外にウイングを拡げる方途があるならば、まずその方法でサークルを活性化させ、反転してそれを企業内サークル拡大に反映させていくことである。

 その場合、もう一つ、どんな編集者を擁するかが問われる。望ましい編集者の条件をかなり単純化して例示すれば、次のようになるかと思う。

■実作者(文芸全般)としての批評力、読解力。
■文章、表現への厳しさと専門性。
■憲法感覚による歴史認識と現代批評の精神。

 この条件に照らしてみれば、山田編集長はそれに適合する編集者の一人であることは衆目の一致するところであろう。私のねがいは、現在の編集体制でさらに開かれた紙面づくりをすすめ、作品の質の高さにつなげてほしいということである。

    (06・12・12)

花を歌う 33

中込淑子

ページトップへ

 初日の出差し込む先に福寿草
 この年のこの家の平安祈るがごとく

 亥年になった。だが新年おめでとうというには憚られるような暗雲立ち込める正月である。
 イラク情勢、北朝鮮問題、憲法九条、汚職、教育法、いじめ、ニュースを聞くのも恐ろしい。テレビ新聞は見えないので情報源はラジオだけなのだが、何も行動を起こせない私としては、ドキドキする程恐ろしい情報でも耳を塞ぐ事は許されないと思う。そして医療保険・介護保険の後退。障害者は生活できなくなるような自立支援法。
 昨年九月夫が六十五歳になり、十月から介護保険料を納めるようになった。十月分は八千円だった。当市の標準額は三七五〇円で、その倍以上の額になる。支払額は前年の収入から算出されるそうだ。そして高い保険料を納めていても、なかなか要介護に認定されない。その上、夫が家にいるようになると要介護の私への家事援助は打ち切られる。つまり、リタイアし収入が減った時、支出は増え、介護サービスは低下する。家族の負担は増し、介護難民、医療難民という言葉も生まれた。社会的入院を認めないというのは、人工呼吸器をつけた患者も在宅でという事であり、障害者施設に居る人達は五年で出される事になった。どこに光を、どこに希望を探せば良いのだろうか。 

花を歌う 34

中込淑子

ページトップへ

 信楽の壺に若松とストレリチア活け 
 水引き飾り厳かに正月

 ストレリチアは南アフリカ原産の多年草で、日本名は極楽鳥花。葉つきの姿が美しい。
 松は木の王とも言われ、万葉の時代から愛でられてきた。『松竹梅』の再上段に位置するが、植物学的には単に『まつ』という物はないそうで、マツ科の植物は八十種以上あるという。すべて常緑樹である。
 黒松(男松)、赤松(女松)、五葉松(姫小松)、根引き松、そして一般的な若松、外来種の大王松などがある。 贈物に熨斗をつけて『松葉』と書く事がある。お歳暮やお年賀では堅苦しく、お礼ではないし粗品でもないという場合に使う。
 松葉は小さくていつも緑なので、どうぞいつまでも変わらないお付き合いをお願いしますという意味。昔の風習かもしれないが、お茶屋さんではいまも使われている。
 大王松の葉を結んで箪笥の引き出しに入れて置くと着物がたまるなんて話も、生け花を習い始めた頃に先生から伺った。今は和箪笥を持っている人は少ないと思うし、欲しければ何十万円の毛皮のコートでも気軽に購入する時代。松葉を結んで「着物が増えますように」と願っていた女性がいたなんて、とても可愛らしく思える。

「イマジン」 ジョン・レノン

ページトップへ
        (1971年10月発売)
想像してご覧 天国なんて存在しないと
   想像しようとすれば簡単だよ
  僕達の下に地獄なんて無いんだ 
   ふり仰げば空があるだけさ
  想像してごらんすべての人々が
   現在を生きているんだと…

想像してごらん 国境なんて存在しないと
  そう思うのは難しいことじゃない
   殺す理由も、死ぬ理由もない
   宗教なんてものも存在しない
  想像してごらん すべての人々が
   平和のうちに暮らしていると…

僕のことを単なる夢想家だと思うかも知れない
   でも、僕ひとりだけじゃないんだ
 いつの日にか 君も仲間に加わってくれよ
  そうすれば 世界はひとつになるだろう
想像してたごらん 所有なんて存在しないと
  君にもそういう考えができるかしら
 貧困になったり飢えたりする必要はない
     兄弟同志なんだから
 想像してごらん すべての人々が
  この世界を分かち合っているのだと

僕のことを単なる夢想家だと思うかもしれない
   でも 僕ひとりだけじゃないんだ
  いつの日にか 君も仲間に加わってくれよ
そうすれば、この世界はひとつになって動くだろう

 当時は「共産主義」の歌として、ニクソン大統領には大いに敵視された詩である。ジョンの死後1981年に全米チャートに再登場し「イマジン」は初めて一位になる。

 戦争を始める側にとって、この影響力の強い曲は流して欲しくない。1991年の湾岸戦争で多国籍軍が攻撃を開始したとき、イギリスでは「平和を我らに」や「イマジン」が放送自粛の対象になった。

 2001年アメリカ同時多発テロ事件のすぐあと、アメリカのラジオ・ネットワークが放送を控えるべき曲として掲示した長いリストの中に「イマジン」も含まれていたものの、テロ事件を受けたチャリティ番組でニール・ヤングがこの歌を歌うなど平和を願う人々に歌われつづけている。
 1980年12月14日にヨーコの呼びかけでジョンのため世界同時に黙祷が行われたとき、ニューヨークのセントラル・パークでは黙祷が終わると同時に「イマジン」が流れた

途中下車

竹内信子

ページトップへ

 この旅の
  この列車は
  途中下車が
    できますか 
       と
  たずねたく
     なる
 人生の
    旅
            水越和子

 一九九〇年一月、在日(在日朝鮮・韓国)の李さんの宅で開かれた水越和子・金谷ひろたか「暮らしの中の紙織りと詞画展」に、わたしは友人のエミさんと出かけた。そう広くもないリビングに展示された作品の中で、わたしの足を止めさせたのは、水越和子さんのこの詞書きだった。
 葉書大の手すき和紙に、趣のある手書きの筆文字と味わいのある字配りで、詞文は書かれている。そのすべてに、わたしは惹かれたのだった。
 気負わず、素直な言葉で紡がれたその一章一章が、途中下車の多かったわたしの半生とも重なって共感を覚えたのだ。わたしは、展示された作品の中で、「旅」をテーマにした四枚を選んだ。
 これを和風の丸額に程よく散らして収めたら、味のある額となった。リビング、玄関、仕事部屋と季節ごとに掛ける場所は変わっても、いつでも、だれもが目にできる場所に飾っている。いまでは「わたしの座右の名言集」として、訪れる客人たちにも「ねっ、いいでしょう」と共感の強制をする。メモする人がいたりするとわが意を得たりと嬉しい。

 人生の旅もさることながら、近頃のわたしの旅は、途中下車のできる乗り物を使うことが多くなった。毎年恒例の島根への墓参も、空から地上へと変わった。もっとも一便しかない、もよりの「萩・石見空港」の東京発着時間が早朝に変わったことも原因の一つだ。
「途中に引っ掛からんと、真っ直ぐに来られんのかいねぇ」山陰線と山口線の交差する街、益田市に住んでいる妹は、待ちくたびれて不満を漏らす。実家の近くということもあって、仏事のすべてを彼女の一家に依頼している。「年に一回の姉妹対面だもの。無理もないわ」と、心のうちでは詫びながらも、ふらりと途中の駅に降りてしまう。
 考えてみれば、列車に切り替えてから、まともに到着したことがない。山陰線を使えば、浜坂で下車、湯村温泉で旅仲間と合流したり、松江や出雲でも道の草を喰む。山陽線を使えば広島、岩国であそぶ。
 空港ができる前まで帰省に使っていたのは福知山経由で山陰線島根県浜田市まで直行の寝台特急「出雲」号だった。今では、その路線はない。かっての「出雲」号も「サンライズ出雲」と呼び名も変わり、岡山から伯備腺経由で、山陰線の出雲市止まりとなった。列車の時間表も停車する駅も過疎になって、以前のように自由気ままな途中下車の旅は難しくなってきた。
 とはいうものの、今年も七月の帰省には「サンライズ出雲」を使うことにした。近じか世界遺産に登録されると噂のある「石見銀山」の町・大森と、古い湯治場の湯泉津を途中下車の候補にあげた。ともに江戸の名残をとどめていると聞く、訪ねてみたい町の一つだ。
 わたしの帰省コースを知った津和野の友人明子さんが、早速、松江の清子さん、岡山の宗ちゃんに集合をかけた。三人は、島根時代の職場仲間で、年に一回、西日本を中心にした親睦の旅を重ねている。今年はわたしのわがまま旅に、急遽付き合ってくれることになった。

 東京を夜の十時に出発した寝台車は、翌朝六時半に岡山に着く。ここで宗ちゃんが乗り込んできた。わたしが取っていた二階個室のベッドに向かい合って足を投げ出し一年分のお喋りが始まる。出雲市から特急列車を乗り継いで太田市まで。さらにバスに乗り換えて、石見銀山のある大森町までも休むことなく口が動く。銀山を含む太田市周辺は宗ちゃんが、高校時代の後半を養母と過ごした思い出の場所でもあった。
 大森町行きのバスを待つ間、彼女は同時代の人を見つけてはさりげなく近寄り、流暢なお国言葉で、気になる人たちの消息を尋ねていた。

 大森でただ一軒の民宿に荷物を預けて、わたしたち二人は、バスで七、八分のところにある龍源寺間歩と呼ぶ銀山坑道跡を訪ねる。佐渡の金山、石見の銀山と並び称された最盛期の間歩は、五百余りあったという。その間歩の中で、観光通り抜けルートとして公開されているのは、龍源寺の全長二七三メートルのみだ。立って歩けるとはいっても、手堀りの跡が生々しい坑道は狭くて湿っぽい。遊歩道の至る所に枝別れした坑道がある。立ち入り禁止と表示のある先は不気味な闇。その脇道のところどころで羊歯類が頼りなげに群れているのをみかける。空気の取り入れ口として使われたものだと知り、息苦しさから解放される。
 かってここでは三十九人の坑夫たちが昼夜二交代で働いていたという。その中には、手子と呼ばれて十歳前後のこどもたちも、掘る手伝いや、鉱石をより分ける仕事に使われていたらしい。明りはサザエの殻に灯油をいれたものだけだ。辛く、厳しい仕事場だったに違いない。ひっそりとした地底から、坑夫たちの息遣いが聞こえてくるようだ。 日曜日なのに観光客の姿はたまに見掛けるだけ。それに坑内の照明も極端に暗い。「ここ、一人では絶対に歩けないところよね」。わたしたちは足早に間歩を去った。
 往路はバスを使ったが、帰路は川沿いの銀山遊歩道二キロ余りと町並みの一キロを歩くことにした。
 大森の町は、間歩と同じように細長い。それに、やたらと寺の多い町だ。ざっと数えただけでも十の寺が点在している。実家が寺ということもあってか、宗ちゃんの関心ごとに付き合って寄り道参りする。
 遊歩道から分かれて町に入ってからも人とはあまり出会わない。かっては、賑わったであろう町には、素朴な造りの店が数軒あるだけだ。引き戸を締め切った家並みのどこからも人の気配は感じられない。
 そんな中で、大森町が本店だという「石見銀山群言堂」と名乗る店を見つけた。古い民家をそのまま使ってこだわりの品々(用品雑貨・趣味のワーク製品などなど)を並べていた。その商品展示も、店の雰囲気も洗練された従業員の対応もすべて都会風だ。
 店内にある喫茶室は、くつろげる広さだ。わたしたちはコーヒーを注文した。出される飲み物の食器類も洒落ている。コーヒーの入ったポット、取っ手のないカップ、手作りのクッキーが載せられた小皿、スプーン置き、すべて白の磁器。ランチョマットは板をくり抜いて作ったこだわりのお盆型、木のスプーン。それらが白の器を引き立たせる。特製のスプーン置きには、野の小花一輪が差してあった。ここだけ人が集っていて、一瞬、過疎の町を忘れさせる別世界となっていた、

 津和野から、車で駆け付けた明子さんが、松江からの清子さんを途中の駅で拾って四人が勢揃いしたのは翌日の正午前だった。
 これから先は、乗降時間を気にすることなくドライブ途中下車の旅が存分に味わえた。仁摩の大砂時計、椿窯元など。宿は古い湯の町湯泉津の老舗「ますや旅館」。この夜も、姦しすぎるお喋りが続いた。
 山陰線の太田市駅を降りて、三日後、妹の住む益田市に送り届けてもらうまで何度車を乗り降りしたことやら。

「そんなに急ぐ旅じゃなし。ゆっくり、いこうよ途中下車」明子さんが運転する車の中で、浮かれ気味にそう言いながらも、わたしはなぜか水越和子さんの呟きを思い出していた。そして、李さんをはじめ、在日の知人・友人の顔がつぎつぎと目の前をよぎっていった。
「途中下車したくても、できなかった人生だってあるのよね」。

新たな訴訟

小田 美智男

ページトップへ

 一二月五日になり、国労はようやく「新たな訴訟」を東京地裁に提訴した。
 その日、北海道・九州など全国各地から、国労闘争団員、組合員が結集し、国土交通省前、厚生労働省まえで抗議行動をしたあと「新たな訴訟」の提訴、共同記者会見、全国代表者会議を行い、そして最後、一八時三〇分から国労本部会議室で「採用差別国労訴訟報告集会」を開催した。
 私はその日、「一八時三〇分から開催した報告集会に参加した。
 会場にはわが集団の安富事務局長も来ていて、二人並んで傍聴した。安富さんは、次号の「国労文化」の取材ということであった。「国労文化」の取材陣も年々高齢化し手薄になっため、安富さんは、職場との掛け持ちで孤軍奮闘、文化の灯を守り続けている。彼にはまた、作家集団の運営という大役もある。三足のワラジを履いていることになるのだが、この日はにこやかな横顔を見せていた。
 私たち二人のまえの席には、後姿ですぐに分かる中央共闘の中里忠仁議長が、小太りの背を見せて、何か熱心に走り書きをしていた。
 思えば中里議長は、一九八九年に中央共闘が発足して以来の議長である。今年八〇歳になられたという。当時総評が解散し、地方県評も次々と解散する情勢のなかで、国労闘争団が闘いを続けるためには共闘組織を立ち上げることが必須の課題になっていた。そうしたなかで、一職場一共闘会議を目標に呼びかけが行われた。呼び掛け人は、故・岩井章、故・小島成一、故・清水義汎、中里忠仁、稲田義朗(当時国労委員長)他の皆さんであった。そして、八九年に結成された中央共闘の初代議長に中里さんが就任され、今日に至っているのである。九一年には、四五団体一五〇万人を超える組織にまで発展したが、現在は厳しい情勢を余儀なくされている。
 中里さんについてもう一点書くとすれば、〇四年に、国鉄による懲戒処分を受けた五名の無罪を勝ち取り、ついに職場復帰を果たした横浜人活刑事弾圧事件であろう。中里さんはこの裁判で「五人の無罪と職場復帰を勝ち取る会」の代表委員として、法廷闘争・大衆闘争を先頭に立って指導された。この事件は刑事・民事と続いた長い裁判闘争であったが、被処分者の懲戒免職処分を取り消し職場復帰までこぎつけたのは、国鉄闘争史上初めての快挙であった。 以下余談であるが、国労第74回全国大会の大会特集で、私が担当した『解決要求と新たな訴訟を決定し、解決に向けて一歩踏み出す』(06・9「国労文化」)のなかで、来賓挨拶された中里議長の発言を誤って〈「しかし私も、現在八〇歳になった。高齢のため辞任したい」旨の発言があった〉と書いてしまったのである。
 その時の中里さんの発言は「国鉄闘争を闘いぬくため、中央共闘の会議を前倒しに開催し、私の進退を含めて体制強化をはかっていきたい」という趣旨の発言であった。「進退を含めて」とは言っているが、「辞任を含めて」とは言っていないのである。
 私は危うく筆禍事件(?)に問われるところであった。しかし、その後開催された中央共闘拡大全国代表者会議(06年9月)の冒頭挨拶で中里議長から「国労大会における私の挨拶に対して多くの方々から叱咤激励をうけ、中央共闘の体制強化と進退問題について、国労本部と話し合いを進めてきた」。その結果、国鉄闘争の早期政治解決を実現するために、私も「引き続き議長の任にあたりたい」(06・10・「国鉄新聞」)との発言があり、実はひとまず安堵したところである。
 発足当時の呼び掛け人は、ほとんど故人になっている。そんななか、なお議長の重責を果たそうとされる中里さんの熱意と行動力にただ頭の下がる思いであった。

 国労闘争団にとっては第三次訴訟となる今回の訴訟には、正式名称が「採用差別国労訴訟」と決められていた。
 提訴日は一二月五日。原告は、闘争団員五〇五名、遺族三五名、合計五四〇名と、それに国鉄労働組合も原告に入っている。
 訴訟内容は、総額三〇八億円の損害倍賞請求一本で、地位確認請求は含まない。このうち、闘争団員の倍賞請求額は二八九億円で、内容は「生涯賃金相当額」「退職金相当額」「年金相当額」並びに「慰謝料」で、「原則として一人五五〇〇万円及び遅延損害金」とされている。一方、国労の賠償請求額は一九億円で「闘争団員の組合費減額累算額」と「慰謝料」となっている。
 被告は、独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構(国鉄・国鉄清算事業団の権利義務を承継した法人「旧鉄建公団」)である。
 以上が今回の訴訟の大まかな内容であるが、今回の訴訟では、資料の中に『本件訴訟の位置づけ』という文章が加えられて、そこには次の三点が上げられている。
 1 国労の基本方針は引き続き一日も早い政治解決(裁判上の和解を含む)の実現であることを明確にした上での訴訟であり、提訴後も引き続き政治解決の努力を続ける。中労委命令を取り消した最高裁判決から三年の不法行為損害倍賞請求権の時効期間を踏まえての提訴である。
 2 組合員のみならず国労も原告となったのは、国労組織も採用差別により重大な団結権侵害を受けており、その国労が原告になることによって、裁判上も名実共に国労が不採用問題解決の当事者であることを明確にする。
 3 組合員ら個人原告について、損害額の一部の同額一律請求とするが、これは、裁判の進めやすさ、分かりやすさ、訴訟救助(印紙代負担)との関係等を考慮したものである。その算出の基礎となる損害には、生涯賃金・退職金・年金が含まれる。     以上である。

 今回の訴訟を一読した限り「和解」先行の印象をぬぐえない。
 このあたりがこの先議論になるところかも知れないが、この日出された国労・原告団・弁護団の三者による決意表明『採用差別国労の訴訟の提訴にあたって』のなかにも「われわれの基本方針はあくまでも早期の政治的解決であることをあらためて明かにする」とうたわれている。

私はいまは論評する立場にはないが、今回の訴訟は大ざっぱに言って「和解導入型訴訟」であると考える。一方、05・9・15東京地裁判決については「この判決は、和解誘導型判決だ」とする批判的見解が出されていた。
 これもまた議論のあるところたと考えるが、「和解」というキーワードに対し、一方に「誘導型判決」があるというのが、決戦を前にした(良くも悪くも)いまある私たちの戦線の状況になきた。
 国鉄闘争など根底から抹殺してしまいたい相手である。何を仕掛けてくるか分からない権力を前にしたこうした構図がね限りなく危険であることは言うまでもない。しかし、ここのところが、せめぎあいの場であり、修羅場でもあり、正念場でもあろう。危険だからといって怯むわけには参らない。そこを突破しないことには早期政治解決は実現しないことになる。しかし、一つ間違えば再び「四党合意」の泥沼に引き込まれることになろう。したがってここは、我らとしても大いに目を光らせて、大いに発言していくべきところであろうと考える。 
「雇用・年金・解決金」を柱とした「解決にあたっての具体的要求」については、四団体ともそれぞれの機関で承認決定され、当事者である鉄道運輸機構、国土交通省、厚生労働省に、四団体の共同行動により要求を突き付けたことは前回報告した通りである。
 しかし、現在の段階ではまだ、「具体的要求」と裁判闘争の整合性、訴訟団同士の訴訟内容の整合性、闘いの進め方などについて多くの異見があり、異見もある。地位確認の請求なしには雇用・年金は闘えないという指摘もある。これらの点については今後の議論の展開を待ちたいが、しかしこれら幾つかの問題点は、大同団結し、裁判闘争・大衆闘争を着実に進めるなかで必ず克服されていくものと考えたい。私も一個の駒として闘いに参入している心算であるが、勝利の展望を開くにはいずれにしても駒を進める以外にないのである。

 こうして一〇四七名の国鉄闘争は、五訴訟団総数九三八名の原告団をまがりなりにも組成して決戦の闘いを進めることになった。
 もう一度原告団を整理しておきたい。
 第一次国労訴訟団(前回は、第一次鉄建公団訴訟団という名称で紹介したが、団員全員がもともと国労組合員であること。そして、五訴訟団とも共通して鉄道建設・運輸施設整備支援機構であること。以上の理由から、以下本稿では略称を統一したいと考える)が二九七名、大二次国労訴訟団が三六名、そして、今回の大三次国労訴訟団が五四名。以上国労訴訟団の合計八七三名(闘争団員・遺族を含む)となる。これに、全動労訴訟団五八名、千葉動労訴訟団七名を加え、総計九三八名の原告を擁する大争議団が、苦難の道程を経て再び蘇ったのである。 
 関連四団体についても簡単にふれておく。
 前回、「関連四団体共闘、つまり国鉄共闘、中央共闘、建公労、国労の四団体による次の統一行動云々」と書いたが、四団体とは次の組織体をさす。
(一)国鉄共闘(国鉄闘争に勝利する共闘会議・二瓶久勝議長)。〇二年に結成され第一次、第二次国労訴訟団を立ち上げ、主体的に運営し支援を続けている。
(二)中央共闘(国鉄闘争支援共闘会議・中里忠仁議長)前項でもふれたように岩井章さんなどの呼び掛けで一九八九年に結成され、以来今日まで国鉄闘争全体を一貫して支援し続けている。
(三)建公労(全日本建設交運一般労働組合〈旧全動労〉佐藤陵一委員長)全動労訴訟団を全面的に支援している。(四)国労(国鉄労働組合・佐藤勝雄委員長) 今回の第三次訴訟では自らも原告になり「裁判上も名実ともに国労が本件の当事者であることを明確にする」と位置づけた。そして第一次、第二次、第三次国労訴訟団全体の支援を続けることになる。
 ここで一つ付言すると、現行では部分共闘で闘っている千葉動労訴訟団が加われば、五団体共闘ということになりさらに厚みを増すことになろう。
 前回もふれたが、第一次訴訟団は現在、東京高裁を舞台に控訴審の闘いを展開している。相手側は、東京高裁民事一七部南敏文裁判長。それに対しこちら側は、加藤晋介主任弁護士、酒井直昭団長の陣容で、第一審を上回る勝利を目指す闘いが始まったばかりである。また、地裁を舞台に闘っている第二次国労訴訟団の萱野一樹主任弁護士は「石にしがみついても。09・15判決を上回る勝利を勝ち取るんだという気構えをもって決戦に望みましょう」(『第三次訴訟原告は全力でたたかおう』06・9「NEWS」67)と気合いを入れている。

 さて、勧進の「採用差別国労訴訟報告集会の報告については、いまや完全に余白を失ってしまったが、ざっとふれると、集会は一八時三〇分に始まり、国労本部田中博文副委員長の司会で進行した。
 佐藤勝雄委員長の挨拶、国労常任弁護士の紹介のあと、岡田尚弁護士から今回の訴訟の意義、裁判闘争の進め方などの報告をうけ、そのあと、ILOの第七次勧告の内容について、ITF和田茂アジア太平洋地域部長から報告があった。神宮議長、中里議長、北海道平和ホーラム小林雪夫顧問の挨拶。当相談遺族の決意表明などがあり、最後に吉田進書記長より当面する緊急行動四項目が提起され、二〇時閉会した。
 参加人員三〇〇名。集会の内容については、このあと必要に応じて報告していきたいと考える。
 最後に一言。「和解があるからまあいいや……」では、国鉄闘争の勝利はおぼつかない。裁判は、訴訟団同志の競い合いでもある。これからは、第三次国労訴訟で参入し、高裁・地裁を舞台に五つの裁判闘争が競合する。他の訴訟団よりも一歩でも二歩でも上回る勝利を勝ち取る。そしてて、千四十七国鉄闘争の勝利を確実なものにしていく。そのために「石にしがみついても」やりとげる。そうした決意を新たにした集会であった。

「文学探求」350号おめでとうございます。

瀬戸千代子

ページトップへ

素晴らしい「作家集団」の皆様のお力とご努力が、積み重ねられた歴史だと感謝しています。
 私は毎号ラブレターを心待ちにする様な気持ちで、読者になって二年五ヶ月になりました。
 昨年五月には「谷透・足柄定之を偲ぶ会」を開いていただき有難うございました。
 また暑い八月には、黒部様、小田様には足柄の事等お調べにとお出でいただきました。その後もあとからいろいろな原稿が出てきまして、読みづらい原稿の数々を、読んでいただくために、小田様には何度も私宅へいらしてたいただきました。大変貴重なお時間を有難うございました。足柄になり代わりましてお礼を申し上げます。
 お陰様で、私は足柄の文学活動については余り良くは理解していませんでしたが、小田様のお話を伺ったり、五十年前の小田さまがお書きになった評論「鉄路に生きる人々」も読ませていただきました。そひには「国鉄幹線」「鉄路のひびき」が生まれた当時の国鉄労働者の生き様等、細かく分析されていて、私にも良く解りました。お若い時に素晴らしいことだと驚きました。
 足柄が書き残していたいろいろな原稿の中に「どろどろの胸のうちを、ー創作方法をめぐってー」と題する文章がありました。日付をみると一九六七年六月とあり、足柄が四十歳のときのものでした。綴じられた頁は九十二枚ありました。これも小田様にも読んでいただきました。
 そこには「民主文学」第二回大会で創作方法や文学理論などのようなことは私には難しいことは仕方ありませんが、小林多喜二の「蟹工船」の創作方法のことについてや、「鉄路のひびき」以来十数年間の胸のうち「鉄路のひびき」が書かれていった過程、そして自己の作品に対しての率直で厳しい批判、常に労働にこだわり労働者作家として苦悩している様子等、この二回大会を通して、足柄が得たものを踏まえながら、今後の創作に生きていくという展望を持て決意していました。
 私はこの文章を読んで、私には語ることのなかった労働者作家として苦悩していた姿が浮かんできて、これ程までに文学創造に対する熱いものが……と思わず愕然とし涙が溢れてしまいました。
 それから三十七年間「鉄路のひびき」につづく長編第二部は生涯持ち続けましたが、完成する事が出来なかったことを非常に残念に思っています。
 人の命は儚ないものだとつくづく感じています。
 34号の巻頭には「千の風になって」が載っていましたね。 私も多くの方々と同じように、この詩には思い出があり、癒された一人です。
 夫の死の直後、知人の女性から、仕事のことで夫から優しくして頂いたという、慰めの手紙と共に、新井満著の「千の風になって」の一冊をいただいた事がありました。 当時の私は、自分がどうする事も出来なかった無力さを悔やみながら日々を過ごしていた時でした。開いて読んでいくうちに「私のお墓の前で泣かないで下さい・そこに私はいません/眠ってなんかいません/千の風に 千の風になって/あの大きな空を吹き渡っています」と、字を追うごとに涙は溢れるばかりでした。こんな悲しい想いをしている時には、この本はそっとして置こうと思っていました。 その後、四ヶ月程たった頃、私ども夫婦の友人である男性が、新井満さんが朗読し独唱している「千の風になって」のテープですと、私の気持ちを気遣う様に届けてくださったのです。嬉しいな、こんな風に思っていただけるなんて、と早速テープを回してみました。その声は、飾り気がなく心から人の胸に訴えてくる様なふくよかさがあり、その詩のぬくもりが身に泌みて、暖かいものが頬をつたわってなかなか止まりませんでした。
 新井満さんは、若くしてガンで亡くなった友人の奥さんの死を悼んで捧げたとの事でした。
 そのテープを私は何度聞いたことでしょうか。私の気持ちも少しずつ癒されていったのだと思いす。
 この歌を是非唱いたいと思うようになり、涙をこらえ必死に覚え、うたいました。この歌を自分のものにする事によって、自分を納得させようとしていたのかもしれません。 人の前では唄えませんが、いつも心がゆらいだ時、口から出てくるのはこの歌です。
 時が流れて、今でも私にこの歌との出会いを下さったお二の事が暖かく心に残っています。
 お正月草々からこんな事を記してしまいました。
 外から見たら老人のたわごと位にしか思えないでしょうが、つい出てしまいました。
 書きなれないものですから、乱文をお許し下さい。
 この一年、平和でありますように
 皆様お元気で活躍されますようにお祈りしております。 今年もどうぞよろしくお願い致します。

   二〇〇七年元旦

闘いと運動の連続性と不連続性について

久下 格

ページトップへ

 作家集団の皆様、ご無沙汰しています。自然退会状態の私に対しても、かわらず「文学探求」と「作家集団」をお送りいただきありがとうございます。関口高志旧編集長や諸先輩から折に触れて何か書けと励まされながら、怠惰に暮らしている間に年月は流れ、作家集団の中では若手であった私も五十二才になりました。先日、関口勘治氏から五十五才で退職したというはがきが届き、「うらやましいですね。私は六十才まで働かねばならないと観念しています」という返信を出しました。遅く生まれた息子がまだ小学三年生ではいたしかたないところです。
 さて、「文学探求」での山田さんの退任宣言があったり、関口高志さんが「作家集団」の編集長を辞任して、唐島純三さんに交替されたりと、事情はまったくわからないものの、やはりこれは大変なんだなあとの思いが募ってこの文章を書いています。
 皆さんとお会いしたのは、もう国鉄がJRになって十年近くたった一九九〇年代の半ばで、分割・民営化と女の死が一緒にやってきたころのことを、十年近くかかって書き終えて、さあて、これをどうやって本にしたらよいかなあと思案していた時でした。友人の関口勘治氏の紹介で作家集団の末席に加えていただき、「作家集団」の一冊まるごとを私の書いた「…人活私記…見晴らし荘のころ」で埋めて発行していただき、作家集団賞まで贈っていただいたのは身に余る光栄でした。幸いその後、教育資料出版会の橋田さんの好意で「謡子追想」として出版することができたのも、「作家集団」に載せていただけたことがきっかけだったと感謝しています。橋田さんに「人は愛と闘いに生きることが…」などという赤面ものの副題を強引につけられて閉口したのは笑い話ですが、六本木委員長の「人として生きる」をはじめ、国労の闘いに関する本をたくさん出してくれた橋田さんは、当時から患っていた肝炎を悪化させて数年前に他界されました。

 「見晴らし荘のころ」を書いていた当時、もちろん私は分割・民営化の過程でおきた出来事を世間に知ってもらいたいという気持ちが強くありました。別に活動家でもなんでもない、ちょっと正義感が強かったり、人に媚びを売るのがへただったり、ただそれだけの若者たちが駅の仕事から引きはがされて廃屋に閉じ込められ、さんざんな目にあわされながらも、仲良く、楽しく、力を合わせて闘い続けた、あの数年間の経験を何とか世間に知らせたいというのが、「見晴らし…」を書いた動機です。しかし、あの当時から、私の闘いが上昇の局面にはないこと、むしろ、敗北した闘いをいかに収束させるかという局面にあるという自覚もありました。「作家集団」に載せた文章の最後はこうなっています。

 時代とは残酷なもので、時代のそこここで傷ついた者、苦しんだ者、そして死んでいっ者はまたたく間に忘れられていき、そして、新しい時代が新しい人々によってつくられていく。それはしかたのない事であろう。しかし少なくとも私にとって、忘れることのできない時代はあり、忘れることのできない人々がいることだけは、確かなことである。ときどきふっと、私が求め続けて生きてきた、そして今ではもう、どこにあるのか分からなくなってしまった「もう一つの世界」は、いつも東京湾を渡ってくる風の吹き抜けた、あの廃屋五階の空間の中にこそあったのではないか、そう思うことがある。

 分割民営化からすでに二〇年。JRの職場には、物心ついたとき、すでに国鉄はなくJRだったという若者たちが働いています。闘いが敗北したことは認めざるを得ない。もちろん民営化の矛盾をつく新しい闘いは必要だし、国家的不当労働行為によって解雇された一〇四七名の解雇撤回闘争だけは、分割民営化をめぐる闘いの最後の闘いとして、何としても勝たねばならないのはもちろんです。しかし、この闘いは国労の、文字通りの「最後の闘い」になると、私は思っています。

 国鉄労働組合は戦後の混乱期から、日本労働運動の中核部隊として、長く闘いの牽引車でありました。国鉄作家集団の皆さんはそうした、牽引車である国労の闘いを背景として、国労運動の文化面を担う重要な仕事をされてきました。「見晴らし…」の中で書いたように、「革命は労働者が行うのだ」という単純な信念から国鉄に就職した私は、皆さんをはじめ、戦後期以来の労働運動の中心にいた素晴らしい人々と会うことができました。私がまだ二十代のころ、私の職場には、戦後期の神奈川電車区の人民電車闘争を自身が経験した人もいました。その人はアメリカ軍の空襲におびえながら神田駅で働いた話をしていました。終戦直後、闘いを開始したとき、仕事で使う軍手もなかったのだといい、「軍手をよこせ」というところから闘いが始まったのだという話をしてくれました。「軍手をよこせ」というところから始まった闘いはやがて発展し、日本の革新勢力の重要な一翼を担う数十万人の労働組合に成長した。作家集団の皆さんの文学運動の経過について、私は多くを知りませんが、もちろん、国労の闘いが背景に会って、国労組合員一人一人の闘いと人生が皆さんの文学活動の背景となっていた。しかし、国鉄労働組合の闘いは、残念ながら分割・民営化闘争の敗北によって基本的には収束する時期に入った。今も何万人かの組合員は残っていますが、平均年齢は五十才を過ぎているように思います。あと十年でJR各社の中の国労組合員は千人か二千人ほどになるのではないでしょうか。それは善し悪しの問題ではなく、努力すれば何とかなるという問題でもなく、もはや、客観的な動かしがたい事実に限りなく近いと思います。しかし、この事は国労に結集した労働者の闘いが何の意味もなかったとか、無駄であったとか、そういうことはまったく意味しないと思いたい。

 ずっと以前、総評オルグとして、全国一般東京南支部を数千名の単組にした渡辺勉さんから「闘いを牽引するのはいつも同じ部隊ではない。ある時先頭に躍り出た者はやがて後衛にしりぞく。そして、まったく違った場所から、違う者たちが躍り出て先頭に立って闘い始める。闘いとはそんなものだ」という意味の話を聞いて、なるほどなあと感心した記憶があります。すべての人々が人間らしく幸福に生きられる、そうした世界をつくるための闘いは連綿として継続される。組織や運動は、時に断絶し、また解体し、しかし地下水脈を経由して、また新たな闘いの主体と、新たな闘いのスタイルをもって、思いもよらぬところから復活するだろうと、私は思っています。私たち国鉄労働者の闘いはそうした連綿と続く民衆の闘いの一翼を担ったし、政府・権力・資本が一体となった不当労働行為で解雇された一〇四七名の解雇を撤回する闘いは、現在も闘いの重要な一環となっていると思います。

 私が皆さんにお会いした十年前に、すでに作家集団では「若い人にどう引き継ぐか」が議論されていました。何人かの方から、お前は集団と「文学探求」を引き継いでいく候補の一人だと、暖かい言葉をかけていただきましたが、私には当時から、作家集団と「文学探求」は皆さんのものだという意識が強くありました。私は山田さんと黒部さんが中心となって発行している「文学探求」以外には知りませんが、「文学探求」を引き継ぐということはちょっと想像でになかった。それは、国鉄労働組合にあって文学を志す者のサークルが継続していくという実感がもてなかったということであり、皆さんのような豊かな感性を持って、文学に打ち込もうとする人間を、今後も国鉄労働組合が排出していけるという可能性を持てなかったということです。これは一面では、闘う労働組合を守り、発展させることができなかったという意味で、私たちの世代が主体的な責任を負わねばならないことでありますが、開き直って言えば、戦後の労働組合運動が民間から官公労へと順番に解体されてゆく過程の中では、仕方のないことではなかったかと今では思います。

 長々と書いてきて、ちっとも激励の文章にならない。むしろ「やめてもいいんですよ」みたいな文章になってしまいましたが、そんなつもりではありません。皆さんのものである作家集団と、「文学探求」がこれからも元気で長く続くことを祈念しております。しかし、民衆の闘いがずっと一本に続いていくのではなく、断絶や不連続が不可避だとするなら、私ができる唯一の積極的な提案は「記録を残す」ということです。
 戦後の平和運動について、一つの疑問をずっと持ち続けてきた私は、昨年二冊の本を読んで大分納得しました。どちらも出版されて何年か経った大著ですが、「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダワー 岩波書店)と「民主と愛国」(小熊英二・新潮社)です。双方とも、終戦直後からの歴史について、膨大な原資料を読み込んで歴史を再構成したものですが、特に後者は、私よりも随分若い研究者でありながら、深く原資料を読み込んで、当時生きて闘っていた人間の視点でその時代を甦らせるとでも言える作品に感動すら覚えました。歴史が、人間の膨大な生の堆積と、もう一方、忘れ去られる膨大な生の記録の消滅の交差する中で作られるとすれば、日本の労働者階級が、「労働者」であることに誇りを持って、数十万人の労働組合に結集して闘い、生きていた時代の人間の記録を残すことは、十分に意味のあることだと思います。皆さんの生と闘いを踏まえて書かれた作品が長く記録され、将来の民衆の文学に引き継がれること、作家集団の皆さんのご健康とご健闘を心からお祈りしています。なかなか書き終わらず、妙な文章になったことをお詫びします。

 蛇足

 私の書いた「見晴らし荘のころ」({謡子追想」)は、出版社の好意でインターネット上に全文を公開していますが、今でも時々「二〇年前の闘いを思い出して泣きながら読みました」というようなメールをもらうことがあって、そんなときはうれしいものです。皆さんの作品もインターネット上に公開・保存されることを検討されてはどうでしょうか。お手伝い可能です。
 接続可能な皆さんは左記サイトまでどうぞおこし下さい

http://aoisora.org

ワープロ変換ミス、など…

やまだ

ページトップへ

変換ミス

 痔見ん党総裁 鴉屁唇造は「鬱苦しい日本」という本を著しました。今国会では「今日行く危本法」をごり押しで成立させ、「亡永しよう」法案には功迷党、見ん衆党も賛成しました。

北朝鮮外務省報道官は

 「我々は一度も日本に6者協議への参加を要請したことはない。米国の一つの州に他ならない日本があえて地方代表として協議に参加する必要はない。米国から協議結果でも聞かせてもらえばよい」
 お前に言われたくはないよ、と言いたいけど、どこか、的を射られたような気がしないでもない、なあ。

政治家の一分はないのか

(1は昨年7月 2は復党で)
1「小泉さんの政治手法への批判だ」
2「民営化に反対ではなかった。選挙では一言も反対とは  言ってない」(堀内光雄)
1「法案が再提出されても反対」
2「民営化自体は必ずしも反対ではない。法案が問題があ、  党内手続きがあまりに乱暴だった」(山本俊一)
 表と裏ところりころりと〃イイカゲンニセイ〃

創価学会の方々、公明党はこれでいいのですか?

公明党の綱領から
 〈…今日までの歴史の教訓は、個人あっての人間あっての国家であり、イデオロギーであるのに、それが「国家のため」あるいは「イデオロギーのため」の個人や人間であるという〃主客転倒〃がなされ……〉と、あるけど、今度の「教育基本法」は、それとはちょっと違うけど、どうして成立に手をかしているのですかね?             
 〈…主体となるべき生活者が「国家」「企業」に従属することがいつの間にか当然視され、そうした生活者不在の仕組みがさまざまなゆがみを生んでいます。経済的、社会的配分が公平でないこと、長い労働時間、乏しい休暇、貧弱な住宅や社会資本、個性を欠いた画一的な教育と学歴偏重社会、老後不安など、生活者の権利としての暮らしが軽視され……〉と、あるけど、企業減税に、消費税増税、所得税の控除廃止、医療費……どれをとっても庶民泣かせの政策は、書いてあるそれ「…主体となるべき生活者…」への配慮とは、ちょっと違うような気がするけど?

 自民党305議席にとっては、いまや公明党(31議席)なんて屁のつっぱりにもならない。それでも公明党は自民党にしがみついているのだろうか、ねえ。

 


先頭へ