■■ 闘争団を「整理」して「普通の組合」になっていいのか ■■
渡辺 務
「全面解決案」を巡るこの間の状況は、かなり緊迫しているようですが、本務の職場にはほとんど伝わってきていません。十一月に入ってから支部大会の選挙がありましたが、どの候補も補強案についての主張はさけているようでした。
今回の「汽笛」は「国労運動の現状」特集だといわれても、どうもピンとこないものがあります。それは運動といっても、最近ではせいぜい分会のお手伝い程度の活動しかしていないからです。それで、どうも大上段に構えた議論には参加しにくいのですが、思いついたことを書きます。
国鉄分割民営化攻撃の時と今回の状況の大きな違いは、マスコミなどを動員した正面突破型の動きではなく、気にしなかったり、情報源がなければほとんどその動きが伝わってこないことです。分会長もはじめは駅長からたずねられて、国労でそんな動きがあったのを知ったほどです。
なぜそれほど唐突とも思えるほどあわただしい動きをしているのか、それはやはり今回の動きが「解決」というより「整理」といったほうがよいからではないかと思います。当然整理される対象として闘争団や本務から排除されている組合員が考えられているようでなりません。国鉄分割民営化攻撃の中で、やり残したことを、権力や資本が、自らは手を汚さずに全逓の四・二八処分のように、完了させようといったことではないかと心配です。
そしてもう一つ気になるのが問題解決の手法です。少数派になっても、多数派だったころと同じ手法で物事が決められようとしていると思えます。大会で無理やり決めて下に押し付ける、そんな癖が抜けていないように思います。
そんなことを前提として、「方針(案)の補強」についての感想ですが、どうも普通の労働組合になりたいということがその考え方の基本にあるように思います。「方針(案)の補強」でも闘争団問題の解決についてはかなり抽象的で、「政府の責任による解決」という言葉で濁しているが、その後については組織の在り方も含めて、かなり具体的に提起されています。
私などこれがどうも気に入りません、今日本を覆っている閉塞感の一つの原因は、横並びと均一化による事なかれ主義だと思うからです。昨今、「政治改革」も言葉だけが独り歩きして、主義や主張は新保守主義の焼き直し、改革というイメージだけで、猫も杓子も右にならえというパターンのようである。
だいたい普通の人は、自分のことを普通ですとはわざわざ言うことはないから、国労は変わった組合に属すると思います。普通の組合が悪いとは思いませんが、これからは多様化の時代、変わっていることを売り物にできるようでなくては生き抜くことはできないと思うのですが、どんなものなのでしょうか。
■■ 私が退職する頃国労はどうなっているのだろう ■■
田代 晴夫
来年四月で四十七歳になります。退職まで残り十三年です。JRを辞める人はここ数年がもっとも多く、八三年以降の数年間新採がなかったこと、「平成組」と呼ばれる新採者のほとんどが他労組組合員ということもあり、若年者の比率が極端に低い国労は組合員の自然減と高齢化がどんどん進んでいきます。
「自分が退職する頃、国労はどうなっているのだろう」と考えました。
労働者の闘いがどんな形をとるのかは別にして、今後も続いていくと思っています。しかしそれを具現化する組織は時代によって違いが出てくるのではないかと思っています。
戦後最大の不況と言われ、企業倒産、リストラ、増大する失業者数、はたまた労基法の改悪、年金の見直しなど、労働者がもっとも被害を受けています。こんな事態に対応できる組合なり運動なりでなければ生き残れないだろうと思っています。
企業内組合としての国労は、高度成長経済の終わり、戦後五五年体制の終わり、「分割・民営化」の時点で、ある意味では終わっていたのではと考えています。政党で言えば社会党の消滅とダブって見えます。
話は変わりますが、私の夢は、退職後生まれ育った北海道に帰り余生を送ることです。在職中の夢は何だろうと考えましたが「これ」と言い切れるものがありません。しいてあげれば、健康で毎日がつつがなく暮らせることです。そしてそれを保障する社会を追い求めることでもあります。