伊藤 守
「利己的なサル、他人を思いやるサル」 (フランス・ドゥ・ヴァール著 草思社刊)
「約束された場所で」 (村上春樹著 文芸春秋刊)
■■ モラルは進化の産物 ■■
かなり前のことになるが、テレビの動物ドキュメンタリー番組でおもしろい場面があった。
ライオンが水牛の群れに狩りをしかけ、逃げ遅れたある―頭をつかまえた。ライオンは水午の背中にのって噛みつき、他のライオンも加勢にやってくる。見ていても痛いだろうなぁと同情したくなるその水牛は、あわれな鳴き声をあげている。ライオンの狩りは成功、とだれもが思うところだ。ところがいったん逃げかけた群れの水牛たちが、その一頭の鳴き声を聞いて立ち止まり、逆に戻り始めたのだ。群れ全体でライオンを威嚇するかのようにじりじりとつめ寄る。にらみ合いがつづくことしばし、仲間に噛みついたライオンにむかって、水牛たちの包囲が少しづつせばまっていく。とうとうライオンの方があきらめて、とらえた水牛を離してしまった°その水牛は群れの中にもどり、こうして水牛たらはみごとに仲間を助けた、というものである。
仲間を助けるという利他的行動は、道徳性の中心に位置するものだろう。生物のさまざまな行動は、まず「個体の生存」ということに基礎ずけられている。だがその生物が群れとして生きるようになり、複雑・高度な社会を発達させるようになると、「個体の生存」は「社会の維持」というものと分かちがたく結びついてくる。―見すると自己犠牲をともなう利他的行動が、社会の維持ということをとおして結局は個体の生存を支えることになるわけである。「情けはひとのためならず」といことばが、この関係を雄弁にものがたっている。こうした道徳やモラルというものも、人間に特有のものではなく、生物進化の途中でその歴史と歩をともにして発達してきたものらしい。
『利己的なサル、他人を思いやるサル(モラルはなぜうまれたのか)』は、タイトルからわかるとおり、人間を進化史上の生物のひとつとして相対化してとらえるサル学の系統の本である。著者のフランス・ドウ・ヴァールにはすでに『政治をするサル』(1982年)という衝撃的な著作がある。それは、チンバンジー社会の、特にリ−ダーの地位をめぐる争いの中に、連合、恫喝、だまし合い、へつらい、裏切り、懐柔など、人間社会顔負けの行動があることを明らかにし、進化史上では人間と類人猿がほんの隣人同士だということを、あらためて世界に知らしめた。
『利己的なサル、他人を思いやるサル』も同じモチ−フをもった研究であり、サル特にチンパンジ−などの類人猿の行動をとおして、道徳性の起源をさぐろうとする。翻訳出版されたのが去年の―月で、ちょうどケガで人院した後のころに、人間社会のモラルのすたれに思いをはせながら読んだものだ。それは、人間社会にあるものと類似の利他的行動の事例をいくつも、サルの社会の中から見いだす。仲間への気づかい、感情移人、攻撃された者への慰め、対立の後の宥和行動、そして食物の分配、等々。
「人間以外の動物を『道徳的な生き物』と呼ぶのはためらわれるが、人間の道徳性の 底に流れる感情や認知能力の多くは、人類が地球上に登場する前から存在していたので ある」
たとえば食物の分配。
チンパンジーが集団で狩りをし、獲物の肉を分配する行動は、最近ではよく知られるよ
うになった。狩りに成功すると、興奮した呼ぴ声につられてほかのチンバンジ−も続々と集まり、「おねだりをする者、分け与える占が人り乱れ、肉が手から手へと渡されていく」という。それは群れの社会生活に深く関わっている。
「チンパンジーの組織的な狩りは、人間以外の霊長類ではほかに例を見ない。彼らの協力体制とそれに続く獲物の分配は、社会生活の別の側面にも深く関わっているのではないだろうか。マハレ山塊の集団に属しているントロギは、自分の権力基盤を強化するために肉の分配を行っているふしがあった。ントロギは自身も優秀な狩人だったが、他のオスに獲物を要求することも多かった。肉の分配のうち約三分の一では、ントロギがいちばんたくさん肉を手元においた。彼にとっては食物の分配が最大の目的らしく、自分ではろくに食べない獲物を確保することもあった。それをただ手に持つだけで、ほかの者がちぎり取っていくにまかせ、最後には手元に何も残らないのだ」
著者は「人間の道徳性を語るうえで欠かせない傾向や能力で、ほかの動物にも見られるもの」を次のようにまとめている。
「●共感にまつわる特徴
愛着、救助、感情の伝染
負傷した者、障害を持つ者に対応し特別扱いをする学習調整能力
●精神的な役割交換の能力、認知的感情移入
●規範にまつわる特徴
社会規制、規則の内面化と懲罰の予測、互酬性、与え交換し報復するという概念
互酬性の規則を破った者への道徳的観点からの攻撃
●良好な関係作り
和解、紛争の回避、コミュニティへの関心と良好な関係の維持
交渉による衝突利害の調整
これらのうちとくに感情移入、規則の内面化、正義感、コミュニティへの関心は、人間がほかの動物を引き離して発達させたものである」
まとめると抽象的になってしまうが、具体的な観察事例は本書にいくつも紹介されている。道徳も生物進化の産物としてとらえる著者は、利他性と利己性を対立するものとしてではなく、利己性のすぐそばで利他性が発生すると考える。
「皮肉なようだが、利他行動はまず自分への義務を果たすことからはじまるのだ。
家族への気配りは、利己主義にいちばん近い形の利他行動と言える。血縁選択の例がた
くさんの動物に見られるように、利他行動の圧倒的大部分は親族が対象となっている。人間もむろん例外ではない」そして「いちばん身近な人びとの健康と生存が確保されている場合に」道徳性の輪は大きくひろがっていくことができる。
「利他行動と道徳的義務の輪は家族にとどまらず、クラン(氏族)、グループ(集団)、果ては部族や国にまで広がる。慈悲心の強さは人と人の距離に反比例するものであり、この自然な流れに逆らおうとすると、強烈な非難を浴びることになる」
道徳性というものが、ときとして崩れたり衰えたり、というあやうさを見せるのもこうしたことからくるものだろう。著者は利他性と利己性をあわせ持った、人間のこの二面性にこそ注意をはらうべきだと考えているようだ。本書は終わり近くでこう述べる。
「人間の道徳心をたどると、進化の歴史をずっと前までさかのぼることができる。そして
どちらかというと邪悪な性質の中心近くに、しっかりと道徳性が根をおろしていることを、ほかの動物たちが教えてくれるのである」
■■ 人間の利己性と道徳性 ■■
人間はエゴイス卜であるとともに慈悲深い存在でもある。邪悪と道徳性、この二面性は、個人の中にあるとともに、社会や国という集団の中にもある。この悪の部分を宗教ではたとえば「煩悩」と言ってきた。そしてこの利己性というもの、悪の部分を一方的に切り捨ててすまないところに人間存在のむずかしさがある。個人のレべルでも集団のレべルでも、この二面が格闘しながらバランスをとっていかねば、人類という群れ社会は成り立たないのである。
こうした示唆を与えてくれるのが、村上春樹の『約束された場所で』である。内容はオウム信者、元信者へのインタビューであり、文藝春秋に連載されたものが昨年末に一書にまとめて出版された。この本を読んであらためてドゥ・ヴァールの言わんとすることがよく分かったとも言えようか。
サリン事件被害者ヘのインタビューで構成された『アンダーグラウンド』につづいて、村上春樹のこの労作には、小説の文体とはまたちがった直線的な真摯さというものがあふれており、小説を読んだ時以上にこの人の思考の深さに感心させられた。
信者あるいは元信者として、自分の体験や胸のうちを語るのは八人の人たちである。その証言を読むと、彼らが「現世」になじめずに、何らかの「救い」を求めて入ったオウム教団に、実際には現世以上に現世的な利害や人間関係が係がうずまいていたことがよくわかる。
多額の人会金や会費、時々開かれるOOセミナーとこれまた多額の参加費用、「ステージ」という名の階層序列と命令服従の関係、そのステージも「お布施」の額や学歴で左右される、法外な値段を払って教祖の血を飲むイニシエーション、LSDをつかったイニシエーション、女性信者には教祖がなんとかのイニシエーションと称して性的関係を要求する・・・
「たとえば男の場合は学歴が大きくものをいいました。東大を出ている人には普通よりも
早く高い解脱を与えちゃうとか、より重要な仕事につけて幹部にするとか、そういうことがよくありました。女の人の場合はまた違って、美人かどうかが大きかったです。そうなんです、あまり現実の世界と変わらない」(増谷 始)
だが宗教という体裁をとることで、そういうことへの疑問すらいだかせないような巧妙なシステムがそこにはあった。次のような発言を読むと、オウム教団にひかれていく人たちのタイプというか、その弱さというものをうかがうことができる。
「石垣島(セミナー)に行って『なんだこりゃ』と思いました。でも指示が出たらみんなでさっと動くとか、そういうのってあるじゃないですか。こういうの楽だなあって思いました。自分で何も考えなくていいわけですからね。言われたことをそのままやっていればいい。自分の人生がどうのこうのなんて、いちいち考える必要がないんです。 (略)
自分でものを考えなくていい、決断しなくていいというのはやはり大きかった。任せとけばいいんだぁって。指示があってその指示通りに動けばいいんです。そしてその指示は解脱をしているという、麻原さんから出ているわけですから、すべてはきちんと考えられているんです」(岩倉晴美)
ここにあるのはまぎれもない自我の放棄である。みずからの思考を捨てて、教祖と教義にすべてを委ねてしまっているのである。
そんなことは企業や現実の社会にだってあるじゃないか、と言われるかもしれない。また現実がそうだからこそオウム教団のようなものが生まれたんだ、という見方もあるだろう。だがやはり少し違うと思う。というのは企業やいろいろな組織も含めて現実の社会には、矛盾対立や価値観の相違というものが混在しており、それが何らかのチェックアンドバランスの機能を果たし、どこかにみずからを相対化する働きが備わっているからである。もちろんそのチェックアンドバランスがいつも表面に出るとは言えないし、多くの場合実際には個人のレべルにとどまって、「いやいやながら従う」という事の万がふつうかもしれない。だがその「いやいやながら」というのが大事なのである。それはどこかでかたちになる。
ところがオウム教団では、その「いやいやながら」すら個人の内面からもきれいさっぱり追い出されてしまう。次のように。
「ああいうの変だよねって。しかしそうは言っても最後には、「そういうことを考えるのは結局自分の汚れなんだ』とか『カルマなんだ』とかいうように納得して、そこで話が終わっちゃう。だから何か疑問が頭に浮かんでも、悪いことは全部自分の汚れ。逆に良いことがあると、『これはグルのおかげだ』ということになっていたと思,います」(増谷)
これが「最終解脱者」への「絶対帰依」ということである。そして彼らは「悪」と「煩悩」に満ちた現世に対して、最終解脱者にひきいられた「善」の集団として対時したのである。
ドゥ・ヴァ−ルが述べるように利他性は利己性のすぐそばで生まれる。そこに個人のレべルでも社会のレべルでもさまざまな矛盾があり葛藤がある。まさに煩悩の苦しみである。人類はそれをきれいに昇華してしまえるような進化を遂げたわけではない。とすればその葛藤を苦しみながら引き受けることでしか、人間社会は健全なバランスを保てないのである。オウム真理教が他の新興宗教ともちがって特異なのは、「出家」という行動だろう。それは社
会になじめないものを感じたある種の人たちをひきつけ、そこに何かしらの「純粋さ」を感じさせ、実際に家族も仕事も捨てさせた。こうして煩悩を捨て、現世の葛藤を逃れたと彼らは思った。だがそこには、単に錯覚ですますことのできない危険がはらんでいたのだ。
こうしたことを目からウロコが落ちるような思いで教えてくれるのが、本書の巻末に載せられた心理学占河合隼雄氏との対談である。これを読むだけでもこの本は十分価値があると思う。私の舌足らずな紹介よりも、さわりの部分をじかに読んでもらった方がよいだろう。
■■ 頃悩世界を持っていて悟るから意味がある(村上春樹と河合隼雄の対談より) ■■
村上 オウムの人に会っていて思ったんですが、「けっこういいやつだな」という人が多いんですね。はっきり言っちゃうと、被害者のほうが強い個性のある人は多かったです。
良くも悪くも「ああこれが社会だ」と思いました。それに比べると、オウムの人はおしなべて「感じがいい」としかいいようがなかったです。
河合 それはやっばりね、世間を騒がすのはだいたい「いいやつ」なんですよ。(略)だいたい善意の人というのが無茶苦茶人を殺したりするんです。よく言われることですが、悪意に基づく殺人で殺される人は数が知れてますが、正義のための殺人ちゅうのはなんといっても大量ですよ。(略)それでこのオウムの人たちというのは、やっぱりどうしても、「良いこと」にとりつかれた人ですからねぇ。
・・・(略)・・・
河合 やはり、我々はみんなこの世に生きてるんだから、ものを捨てるのと同時に、この世に生きてる苦しみを引き受けて、両方同時に持っていないといけない。そうしてない人はほんとには信用できないんじゃないかと僕は思います。葛藤というものがなくなってしまうわけでしょう。
村上 でも彼らに言わせると、そういう物欲みたいなものが人間の煩悩を膨らませて、人間を消耗させていることになりますね。だから煩悩を捨てて純化しなくてはならないんだと。
河合 いや、だからね、煩悩があって消耗しないことには宗教にならないんです。(略)
だからこのあたりに出てくる(オウム)の人は、煩悩を抱きしめていく力がちょっと少 ないんです。残念ながら。まあ違うほうから光を当てれば、我々凡人よりは純枠だとか、 ものをよく考えているとかいうふうには言えます。言えるんですが、それはやっぱりも のすごく危険なことなんです。(略)
村上 でも中には「この人は世間でうまくやっていけないだろうな」という人は明らかにいますよね。そういう人たちをひき受ける受け皿みたいなものがあっていいんじゃないかと僕は思いますが。
・・・(略)・・・
河合 だからね、それ自体はいい入れ物なんです。でもやはり、いい入れ物のままでは終わらないんです。あれだけ純枠な、極端な形をとった集団になりますと、問題は必ず起きてきます。あれだけ純枠なものが内側にしっかり集まっていると、外側に殺してもいいようなものすごい悪い奴がいないと、うまくバランスが取れません。そうなると外にうって出ないことには、中でものすごい喧嘩が起こって、内側から組織が崩壊するかもしれない。
村上 なるほど。ナチズムが戦争を起こさないわけにはいかなかったのと同じ原理ですね。
(略)
河合 そうです。どうしても外を攻撃することになってしまいます。ずっと麻原が言っていたでしょう、我々は攻撃されているって。それは常に外側に悪を置いておかないと、もたないからです。
(略)
だからね、本物の組織というのは、悪を自分の中に抱えていないと駄目なんです。組織内に。これは家庭でもそうですよ。家でも、その中にある程度の悪を抱えていないと駄目になります。そうしないと組織安泰のために、外に大きな悪を作るようになってしまいますからね。
・・・(略)・・・
村上 ほとんどの信者はこう言うんです。「我々はごきぶり一匹殺さないような生活をしているんです。それなのにどうして人間が殺せますか」って。
河合 チャップリンの『殺人狂時代』ですよ。あの人殺しばかりしているやつは、毛虫がいたらぱっと拾ってね、花のところに持っていってやります。虫ひとつ殺さないで、人ばかり殺しているんです。やっぱり人間というのはほんとにしょうもない生物やからね。だから自分の悪というものを自分の責任においてどんだけ生きているかという自覚が必要なんです。
・・・(略)・・・
河合 面白いことに、あまり早く悟った人というのは、その悟りを他人のために役立てることができない場合が多いです。それに比べると、苦労して時間をかけて、「どうしてこんなに悟れへんのやろう」と悩みながら悟った人のほうが、他人の役に立つ場合が多いんです。煩悩世界を相当持っていて、なおかつ悟るからこそ意味があるんです。
■■ 思想に「酔う」 ■■
わたし自身はインタビューに登場したオウム信者の多くに、もし身近にこんな人がいたらちょっと付き合いにくいだろうなぁ、という印象を受けた。思想と名づけてもいいし、宗教と名づけてもいいのだが、とにかく自分の世界に入ってそこで酔っている人たち、という感じがしてしまうのである。
人は時に何かに「酔う」ことなしには正常なバランスを保てないようである。これも人間が発達した脳を持ったせいかもしれない。「酔う」ことで、脳は日ごろ自分にかかる重い負担からしばし解放されるのにちがいない。
何に「酔う」かは人さまざまである。多くの場合、人は酒に酔う。また年に数回のお祭り騒ぎに酔い、競輪や競馬に酔い、スポーツに酔い、スポーツ観戦に酔う。山登りに酔う人もいる。もしかしたら人間の性行為が生殖と必ずしも直結せず、ほかの動物たちとは違って特定の発情期もなく、快感を追求するいまのような姿になったのも、脳が酔いを要求することと関係があるのかもしれない。
まれに思想に酔うタイプの人がいる。「宗教は阿片である」というのはマルクスの有名な言葉だが、一つの思想体系で世界のあらゆる事が整合的に説明できると思いこんだ時(そんなことはあり得ないのだが)、人は思想に「酔って」しまう。その時は思想も阿片になる°実はかくいう私身がそういう傾向をたぶんにもっているのだが。酒に酔ったら気が大きくなって現実感覚が乏しくなるのと同じく、思想も酔ってしまうと楽である。世界は自分の頭の中で説明済みのものになり、現実の矛盾や不条理に思い悩む苦労もいらなくなってしまう。思想はそういう魔力をもつ。まして「最終解脱者」が指示してくれるとなればなおさらだ。
酒であれ、他の娯楽やスポーツであれ、大多数の人にとって「酔い」はほんの一時のものである。醒めて現実にもどるのが適常だ。酔ったまま醒めない人がいたら、それはたとえばアルコ―ル中毒ということになる。思想に酔った人も同じである。現実を基準にしたり他の思想と比べたり、という相対化の眼で思想を見ることができなくなった人は、アルコール中毒の人がまともな社会生活ができないのと同じように、やはり人びととまともな対話をすることができない。村上春樹も述べているが、あの上祐史浩のものの言い方に人ぴとが何かしら違和感を感じいらいらするのも、彼が思想に酔ったまま醒めていない種類の人間だからだろう。たぶん誰と論争しても彼は負けたとは思わないだろう。しかし誰も納得させることはできない。
あれだけの大事件があって、なおも多くの信者がオウム教団にとどまり、各地で組織が再建されつつある、というようなニュースを聞くと、やはり彼らは酔ったままの人たちだという思いをいだかずにはいられない。酔わなければ現実と向きあうことができないのだろうか。つきつめて考えた場合、それは彼らの責任なのだろうか、それともそのような「現実」の責任」なのだろうか。
人間以外の生物の場合、かれらが適応を迫られる環境というものは、基本的にかれらの外にあるものである。ところが人間は、環境にみずから手を加え、日々刻々変化させてしまい、みずから変化させたその環境に適応していかねばならない。だから適応の仕方そのものが絶え間なく変化を求められる。その変化のスビ−ドが進化のスビ−ドを上回っていることについては、以前にデズモンド・モりスの指摘として紹介したと思う。とすればそういう現実になじめない人たちが生まれてくるのも、やむを得ないことなのかもしれない。そういう人たちに、醒める時のある健全な酔いを用意することは難しいことなのだろうか。