「人民の力」'97/09/15号、「新刊紹介」欄より
「人民の力編集委員会」発行
著者の久下格(くげ・いたる)は国鉄〈JR)東京の現場にはたらき、国労の組合員である。
集い、国労大会、品川駅ホームなどでバッタリ出会わせて軽く挨拶したことが数回あるぐらいで、親しく言葉をかわしたこともないが、一見して、久下格は「高い知性と深く鋭い感性」を感じさせてくれる、清々しい青年労働者である(以下、敬称略)。
本書に触れて、読者はそれが私だけの印象でないことを、強い感動をもって納得するであろう。
また、長身のうえに少し控えめにおさまっている品のいい色白の顔とその目の動きからは、柔和さと人懐こさ、そして時たま一瞬する皮肉っぽさしか感じることができないが、本書から読者は、久下が同時に「激しい気性と一途な意志と闘志をそなえた」不屈の青年であることも知らされるはずだ。
若き既婚の女性弁護士・謡子にとってのみならず、男にとっても、久下は見過ごすことのできない「人としての魅力」をそなえているのである。
この久下格が、国鉄(JR)現場における労働と闘いの日々を横糸に、再会した中学後輩・弁護士=謡子との恋と愛の不安と燃焼を縦糸として、その謡子の不慮の悲劇的死にむかって、無駄な飾りと冗漫さのない、磨かれた簡潔な文体で追想を織りなしてゆく。
久下は「時代の子」である。
ベトナム解放闘争の炎に照らされて全世界の青年たちが、既成の権威と秩序に異議申立てし、反乱していった六十年代末から七十年代はじめ。久下も早熟の中学生として、その潮のなかにあり、卒業式闘争に決起している。後輩・謡子は、そのとき憧れを胸に秘めて行動の一端に立っていたのだが、一途に先頭を走っていた久下には、その彼女の記憶が残っていない。
時は流れて、謡子は新進の女性弁護士、久下は労働運動に人生をかける若者として、再会して恋に落ちてゆく。
謡子は抱かれながら「あなたは私を覚えていなかった」と、時にはすねて、青年の一途さの秘める冷たさを衝き、久下をハッとさせ、うろたえさせる。
刺されて痛む心の奥の、隠しておきたい暗い性〈さが)をも、久下は素直に描いて、その追想に深みを与え、その人柄に親しみを覚えさせる。
時代の子=久下はしかし、かって反乱した既成の権威と秩序の内に、いまは潜りこんで消えていった凡百の「時代の子」ではない。初志を粗末にせず、労働現場の末端に、差別と圧迫にさらされ、悩み、もがきながらも、しかし前を向いて立ちつづけている。
社会の上層やエリート層に登って行くことも不可能ではなかった家庭環境と能力にある久下格。その彼が中学を了えるとともに、泣きすがる母を振りきり家庭を捨てて踏みだした「時代の子」としての道。その初心のままに労働現場にとぴ込み、定時制高校に学ぴ、その末端で冷酷な差別と激しい圧迫に抗して闘い、これからもなお生き抜いてゆこうとしている。
この「謡子追想」は確かに、わずか一年にも満たない、短い愛を交わしたまま逝ってしまった恋人への哀切な挽歌であるが、同時にそれは、労働者として、「普通の人」として生き抜いてゆかねぱとする、久下の決意と苦悩と格闘を垣間見させる書でもある。
そこに、この書のもう一つの深みと魅力がある。そして、久下格はまだ人生の半ぱにも達していないのである。
(常岡 雅雄)
Eggsさんより '97/08/27
こんにちは。れんこんのeggs(*)です。
このまえkjさんから「謡子追憶」を渡していただいて読みました。読み始めたら止まらなくなって、一気に読んでしまいました。恥ずかしながらまず、私は「国労」についての知識は全くと言ってよいほどありませんでした。この本を読んで、その一端を知ったわけですが、めまいのするほどの官僚的縦社会の現実、その現場にはびこるさまざまな圧力には、本当に怒りを覚えます。
駅のソバ屋さんの中には、jr職員の人が居るんだ・・・、といったことは知っていましたが、ソバ屋さんのすべてがjrの人なんでしょうか、私の見たソバ屋さんでは全員が胸にjrの名札を付けていました(国労のバッジを見ることは出来ませんでしたが)。不思議とそれまでは全く気がつきませんでした。それと、駅構内で良くみる仮設の売り場の人を見てみると、またしてもjrの名札を付けていました。全員が全員、国労であるから、いやがらせとして、といった意味でそういった仕事をやらされているとは言えないでしょうが、これって「多角経営」なんでしょうかね。やるせなく感じます。
ところで、この本の内容と、実際のたまねぎさんのやってきた活動とはどの程度重なるものなのでしょうか? 人の名前は仮名だけど、おおよそ事実をベースに書いたのでは・・・と、私は読めましたけど。
最後になりますが、この本がたくさんの人に読まれることを本当に願うところです。
(*注)れんこんのEggs 「れんこんネット」は、原発反対運動を中心的な課題として出発した草の根のパソコン通信網で、八王子・東京・浦和にアクセスポイントがあります。
久下より '97/08/31
メールいただきありがとうございます。国労の全国大会があってばたばたしておりメールの到着を確認するのが遅れてしまいました。すみません。
まず、駅のソバ屋や仮設売り場の人間が、すべて国労組合員かというおたずねですが、こうした人々がすべて国労組合員であるわけではありません。しかし、隔離の意味を込めて、たとえば電車の運転士とか、保線のベテランとか、技能労働者を押し込めているという場合が多いのです。要員需給がきつくなってきたこともあり、会社はこの秋じゅうにも、首都圏の多数の直営店舗から社員を引き上げる計画ですので、そば屋でJRの名札をつけている、無骨な男たちを見る機会は少なくなるはずですが…。
>ところで、この本の内容と、実際のたまねぎさんのやってきた活動とはどの程度重なるものなのでしょうか?
>人の名前は仮名だけど、おおよそ事実をベースに書いたのでは・・・と、私は読めましたけど。
さあ、どうでしょう…(笑い)。小説のつもりで書いていますから、個々の出来事は実際に起きたことと、時間、場所、などが違うことも多いのですが、誇張だけはしていないつもりです。
>この本がたくさんの人に読まれることを本当に願うところです。
大変ありがとうございます。また、ホームページで大々的に取り上げていただき感謝いたします。先ほど、eggsさんの写真を見てきました。ではまた。
書評:久下格『謡子追想 人は愛と闘いに生きられるのか』
国鉄労働運動を背景にした恋愛小説。作者の青春晩期における実体験の、約10年をへての定着であり、感情の総括をなすものとして書かれた。ほとんど、ノンフィクションに近い、「小説」である。
中曽根行革攻撃による国労つぶしが過酷を極めるなか、職場を守るために闘 う主人公。それは苦しい退却戦である。同時に、80年代後半は、左翼が思想的にも運動的にも、絶望的な退却戦を闘わざるを得なかった時期であった。全 共闘運動の流れに乗って、中学の卒業式ボイコット闘争を行った主人公にあこがれた後輩の女子生徒は、弁護士となり、公安事件を主に担当するようになる。担当する事件は大変な割には物質的にも精神的にも報いの少ないものであり、 また新しい左翼理論を構築するべき連れ合いは、添うて見れば魅力に乏しい自己中心的エリートであった。彼女は、中学卒業以来おのれの信じる闘いの道を 歩み続けているかのごとき主人公にあこがれ、およそ15年ぶりに再会を求める。彼女のことなど記憶になかった主人公も、たちまち彼女の魅力に惹かれ、 二人は恋に落ちる。しかし、幸福な時は長くは続かなかった・・・
最愛の者でさえも感情が追い付けぬほどのあっけない「死」。作者たる主人 公は、一貫して職場を守る闘いを続けるが、彼女の死の前後には、その闘いへの姿勢には大きな隔たりがある。10年間、彼女の生と死の意味を探り、問い 続けた結果としてのこの本は、彼女の復活を意味するものと言える。
同時にこの本は、忘れてはならない国労運動という固有の闘争の記録として 比類ない意義を持つ。国鉄解体=国労潰しとそれに伴う労働法無視の野蛮な差別分断攻撃は、戦後日本の体制による最も凶悪な組織的暴力の発現のひとつで あった。18000人を「人材活用センター」という名の強制収容所に閉じこめ、多数の自殺者を出した。そしてその暴力は現在も続いているのである。誰もこ の事実から眼をそむけることはできない。しかし、退却を続けた運動は、原則的であり続けることによって反転攻勢に転じ、持続的闘争としていまや確固たる陣地を築いている。国労闘争はまだ終わっていない。それどころか、この闘いの中にこそ日本社会の代替への将来の希望は芽生えているのである。
(注)KJさんは「れんこんネット」で知り合ったネットワーク上の友人。ホームページには本やCDの評がいっぱいあって、読書量の豊富さには驚かされます。
「労働情報」'97/08/01号、「BOOK」欄より
「協同センター・労働情報」発行
『謡子追想』は、著者である「私」が、15年ぶりに謡子と再開したことから始まる。
1970年3月、「安保反対!」「反戦・平和」等のポスターを校門に貼り出して、式をボイコットした”中学卒業式事件”の「私」は、15年間謡子の中に棲み続けていた。「私」は、「よい高校」に行くことを拒否し、定時制高校を出て、社会変革をめざす労働運動をつくろうと国鉄に入る。一方、謡子は男社会からの自立を決意し、弁護士の道を歩む。しかし、腐敗した社会に代わる、戦争や暴力、差別や抑圧のない「もう一つの世界」の実現は、15歳の少年が考えていた程簡単でないことも明らかになっていく。再会した二人は、社会に対してこだわりを共有し、一緒に暮らす。不慮の死をとげた謡子にとって”生”の最後の1年間であった。闘いの中に生きる2人の”生”は、この1年間精いっぱいの中味が詰め込まれたものだった。
本文は、1986年冬・春・夏・秋・再び冬、それから、で構成されている。84年から86年は、私にとっても忘れることができない。同時代を私もやはりたくさんの仲間たちと民間の争議団として、闘いの中に生きた。よく雪の降る年だった。早春のある日、東京駅の国鉄本社前に結集した。「国鉄の分割民営化」に反対して集まった官民の争議団統一行動だ。私は民間争議団から一言と言われ、宣伝カーの上でしゃべったのを昨日のように覚えている。雪の寒い朝だった。
国労がこの10年余の間体験してきた様々な出来事は、私たちの胸にもしっかりと刻んでおかなければいけない。差別なき末来を築くために。だからこそ、JRという会社がどうやって生まれたのか知ってほしい。国と支配者側による、労働者に対する血の惨むような仕打ちの上に、作られた企業であることを。本書の前書きには、「忘れられない日々を記したこのささやかな本を、今も……闘い続けるすべての国労組合員の仲間たちと今はもういない謡子にささげます」とある。
(中尾梢)
郵政労働者でつくる交流誌「伝送便」から
「作家集団」‘96/5掲載「見晴らし荘のころ」への感想
あの日々、私たちが過ごした嵐のような反動の歴史の一コマを思い起こさなければならない。国鉄分割民営化一年前。堰を切ったようなマスコミの集中キャンペーンによって、すべての世論が国労を非難しているかのように演出された。官僚の責任は、回避された。国労組合員の首を一人でも多く切れという熱病のような「世論」の要求によって。青年労働者から熟練労働者まで、実に多くの命を奪われた闘いからすでに10余年。民間企業に吹き荒れるリストラの嵐の中で、それまでの企業戦士の少なくない人々が自ら命を絶っている。その死亡通知をマスコミがとり上げることは今もない。とり上げられることのない人々の死は、忘れられ、社会の隅々によどみ、沈殿していく。
小説ができることは、忘れられた、忘れられかけた社会の実相をあらためてすくい上げ、虚像に満ちた現在の社会に対置することではないだろうか。一つの敗北の歴史かも知れないが、その敗北をより人間的に総括しようという試みは、小説という形式に与えられた特権だろう。
あの闘いの日々を少しでも共有してきた者にとって、そのような作品をこそ私たちの中から生み出さなければならない。果たされた義務であったに違いない
。 手元に一つの作品が届けられた。「私記」とあるその作品は、身近にいた者にとっては有名なある物語が綴られていく。ある国労組合員と成り立ての女性弁護士との恋の物語である。
恋愛小説として
ことの顛末をよく知る者にとって、その作品が恋の物語として綴られていく事に違和感を持つことはないだろう。そう、これは恋愛小説であり青春の物語である。しかしそれが語られる背景は人活センターという収容所の中であり、菜っ葉服を着た労働者たちのデモ隊や集会の中であり、闘いの方針を巡って激論を交わす会議室であり、酔いが回るうちに訳が分からなくなっていく労働者たちの酒場の中である。
誇りと、弱さと、打算と、理想と、希望と、絶望と。闘いの日々で見てきた人間のあらゆるいとおしさが、抑制された文体で、狂おしい恋の物語として長編の最後まで読む者を導く。
あの時代を切なくも鮮やかに切り取ったクロニクル(年代記)。この作品が一人でも多くの人々によって、読み継がれていくことを、そしてまたそのことによって、私たちはあらためてあの時代のクロニクルを共有することができるだろう。
多く、一人でも多く。
(の)
国鉄作家集団機関誌「文学探求」'97/01/01から
「作家集団」‘96/5掲載「見晴らし荘のころ」への感想
書き手の老化が気になる近頃、若い感覚で物語が進行し、後味がとてもよい作品だった。
まず最初に「新橋要員機動センター」の描写がある。あの当時、差別を受けた人なら誰でも緊張して読みはじめるだろう。私も汐留送りになった親友から詳しい話を聞かされ、民営後には、私自身差別職場に追われたので臨場感があった。これが全編の底流になっている。
謡子が登場し、新左翼理論がチラチラしてくると<あ、これは団塊世代の話なんだ>と思わせる。<愛をする>場面が多くなり、この世代特有の「さまよえる愛」「さまよえる良心」の問題へとテーマが移るのかと予感させる。
成田闘争や、新左翼の弁護士事務所が断片的に出てきて、時代の感心を引き、中間の大部分を引っ張っていく手法には快感をおぼえる。しかし、病院で謡子が死ぬシーンはひたすらリアリズムだ。<これは作者の実体験??…ちょっとつらいな>と思う。
私も妻を死なせた経験はあるけれど、リアリズムが悪いというのではなく、この部分の感想が書きにくくなる側面はある。ともかくここまで読むとテーマが「さまよえる愛」ではないことがはっきりする。弁護士事務所の野々村さんたちが病室に入ってくると物語の流れが元に戻ってホットした。
葬儀の後、謡子の父(インテリ)と人活センターの労働者の会合のシーンは良かった。青木のせりふも、きざのようでいて、ちゃんと父親と自分の心情をつないでいる。
読み終わった今、駅の売店でガムや新聞を売っている青木は私の知人かもしれないと本気で思っている。文章の磨きが少し気になる。たとえば「結構です」という会話は、何が結構なのか、とっさには理解できない。細かい部分で損をしている。
また今の時代、純愛は美しいが「さまよえる愛」は汚い…などとは誰も言わない。労組の一組か二組かの問題も「さまよえる良心」の時代である。あえて純愛や一組に価値観を収斂すれば、読者もおのずから絞られることは覚悟しなければならない。つらい時代である。幸い作者はこの問題を絞りきっていない。これは私にとって救いだった。反面、テーマが多少ぼやけたのはやむをえない。
けれど、作者が<親愛なる者へ>送ったメッセージは、アパートの窓から見える火葬場の煙突の風景とはうらはらに、とても暖かい。
(曲田芳郎)