品川駅の花壇 = K君の通夜の日に = (html版)

2018/04/10

 2018/03/16に発行した小冊子「品川駅の花壇」のhtml版です。長大なのでPDF版をダウンロードしてお読みいただくことをお勧めします。

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 二月も終わろうという寒い日の夜、車掌をしている後輩のK君が死んだというメールが届いた。「Fw: Fw2:訃報」という、あちこちを巡りめぐった末に届いたしるしのついたメールには、「K氏が亡くなりました」という文の他には通夜と告別式の日程だけが書いてあった。即座に嘘だろうという思いが沸いたが、しかし、こんなことを冗談で流す奴がいるとも思えなかった。私は、メールを回してくれた後輩にあわてて電話を掛けた。
「俺も、届いたメールを転送しただけで、何が何だかわからない」と後輩は言った。
 私は、「Kが体を壊しているという話は何も聞いてない。信じられないが…、しかし、冗談でこんなメールを流す奴もいないだろうからな」と言った。そして、もっと事情をしらべてほしいと言い、「俺も調べてみる。何かわかったら俺からも知らせる」と言って電話を切った。
 K君が働いている車掌区には、まだ二十代の、ずっと若い後輩もいて、K君、そいつ、私の三人で飲んだことがあった。K君と仲のいいその後輩に「突然、Kが死んだとメールが来て驚いている。何か知っているか?」とLINEしたら、職場に張り出された訃報の画像が返ってきた。
「訃報(社員死亡)平成二十九年二月二十七日」…「当区車掌、K氏(五十六才)におかれましては、二月二十六日(日)十五時五十二分にご逝去されました。ここに、ご冥福をお祈りすると共に、慎んでお知らせ致します。」
 写真の後に「昨日何かの発作で倒れられてそのまま亡くなったという話を聞きました」という文章がくっついていた。嘘ではなかったのだ。
 K君は飲みすぎだった。年に何回か私の社宅に来て飲むときは、自分の飲みたい酒を買って来て一升ほど飲むようになってからだいぶたつ。夜勤明けはたいてい夕方まで飲んでいるというので、「そんなに飲んでると長生きできないぞ」と何度か忠告したのだが、いつも「大丈夫だよ」とか「そんなに長生きしたくもないし」とか言って聞かなかった。K君が高校を出て国鉄に入り、はじめに配属されたのが私のいた職場だったから、私はK君がまだ十代の時から知っている。それが、五十歳になるころには腹が大きくせり出して、知り合ったころの、少年の面影を残した体型は想像できないようになった。飲みすぎと太りすぎは確実に命を縮める…、といつも思った。しかし、始終飲む癖がついてしまうと節酒するのは難しい。私にはすでに何人か酒で死んだ同僚がいるが、…しかし、K君が体を壊したという話は伝わっていなかった。脳内出血か動脈瘤の破裂か。

 突然の死が二月二十六日。三日後の三月一日が通夜、二日が告別式だというので、私は両方に出ることにして上京の準備をはじめた。余りにも早く、あまりにも突然の死だった。もっともっと話したかったという思いだけがせり上がってきたが、もうそれは不可能なことだった。
 K君の死をまだ知らない可能性のある友人たちにメールを回していると、一人から「三月一日は全国動員の春闘行動があるので、それに参加してから通夜に行く」という返事が来た。国鉄労働組合(国労)本部主催の決起集会があるのだという。その友人と一緒に、私もK君が生きていたら参加したはずの集会に出てから通夜に行くことにして、三月一日、午前中に家を出て、京都駅から東京に向かう新幹線に乗った。

 三月のはじめの日。空一面が灰色の雲で覆われたうすら寒い日だった。一人暮らしの母親の介護のため、東京と京都の片田舎を月一度往復する生活を始めたのが四年前のことで、難病でずっと入院していた父親が死んでからは、寂しさからくる鬱がいよいよ悪くなり、前年の四月、私は十九歳から働いてきた国鉄―JRを退職し、介護のため故郷に帰っていた。四十二年ぶりの帰郷だった。

 新幹線を品川駅で降りて山手線に乗り換えた。原宿駅で降りて、大きな巻貝を伏せた格好をしたオリンピックプールの脇を超えて、広い代々木公園の中を歩いた。プールの横にある野外ステージの前には数百人が集まっていた。ステージには「JRの安全輸送と公共交通を守る! 2017春闘勝利!国労中央総決起集会」と大書された看板がかかり、演壇の左右に分かれて十脚ほど置かれたパイプ椅子に黒っぽいスーツを着た来賓の男たちが座っていた。中央のマイクに向かって、司会者が「2017春闘勝利!国労中央総決起集会を開催します」と宣言した。北海道から九州まで全国から組合員が上京していた。「国労仙台」「国労近畿」「国労新橋」「国労上野」…。国労の文字と地域の名を合わせて表示した数十本の赤旗が立っていた。参加している男たちから、開会宣言に呼応して拍手が起きたが、それはパラパラと、私には少し寂しげに聞こえた。
 私が組合運動に参加した一九七〇年代半ば、総評に加盟する組合の青年部でつくる総評青年協は、毎年春闘に合わせて全国総決起集会を行った。そのころ、国労の青年部は組織の絶頂期で、全国から三万人ほども集まる青年労働者の三分の二くらいは国労青年部だった。紺色の菜っ葉服に紺色の作業帽をかぶった若い鉄道員たちは、都心の大きな公園をほぼ占拠するように隊列を組んで座り込んだ。あの頃、演壇からの呼びかけに呼応する声と拍手は地鳴りのように公園を震わせて、公園の外にまであふれ出したものだ。集会が終わり都心へのデモ行進にうつると、五列縦隊でスクラムを組んだ若者たちは所どころでジグザグデモを繰り返し、併進して規制する機動隊員のジュラルミンの盾と小競り合いをした。規制線を守ろうとする警官隊と押し合っている、ただそれだけのことだったが、しかし、都心の高層ビル街を切り裂くように、延々と続く隊列の中の誰もが、誇らしげな高揚感に包まれていたものだ。
 あの時代から四十年たった。この四十年間は、国鉄の分割・民営化に反対した国労への攻撃によって、国労が二十万人を超える多数派組合から少数組合へと追いやられていく四十年間だった。その長い年月を、私もK君も、ずっと耐えながら国労を抜けずにやってきたのだ。
 演壇では本部書記長が基調提起をしていた。
「経営危機のJR北海道は路線の半分が維持できないと言いだしています。全国の線路を分断して、企業の儲け追求の手段にしたら公共交通は破壊されるという、私たちの主張は残念ながら現実のものになりました」
 安全輸送と公共交通が危機を迎えていると訴えたあとで、「賃金は上がっている」という政府統計の嘘を指摘して、労働組合と春闘は今こそ必要だと述べる演説は、古い労働組合の変わらぬスタイルだった。
 私は、京都から持ってきた喪服の入ったスーツバッグをぶら下げながら途中までその演説を聞いていたのだが、あまりゆっくりもしていられなかった。去年から都心の大学に通いだした息子のために借りたアパートで着替えてから通夜に行かねばならない。集会場を抜け出した私は、もう一度品川駅に戻るために山手線に乗った。

 品川駅で京浜東北線に乗り換えてアパートのある蒲田駅に行く途中に、この目で見ておこうと思っていた場所があった。それは、品川駅の三、四番線、京浜東北線ホームの横浜寄りに作られた花壇だった。
 埼玉県の大宮から東京、横浜を通って神奈川県の大船まで、首都圏を南北に結ぶ京浜東北線には車体に青いラインの入った十両編成の電車が走っているが、品川駅の京浜東北線ホームは電車よりも一両分ほど長かった。その余った部分に煉瓦を積み上げて囲った四角い花壇がある。その花壇は国鉄時代からその場所にあったのだが…。

 私とK君にとって忘れることのできない花壇について話すには、あの時代に遡らねばならない。

 国鉄が分割・民営化される前の年、一九八六年七月一日、国鉄当局は人材活用センターという部署を新設した。その数年前には三十万人いた国鉄職員のうち、JRという変な名前の新会社に採用されるのは二十一万五千人と法律で決められており、三人に一人は解雇されることになっていた。不採算部門の切り捨てや民間委託の拡大で生み出された「余剰人員を活用する部署だ」というのが当局の説明だったが、実際には、「人材活用センター」は、当局が新会社に採用しないと決めた者の収容所だった。分割・民営化に反対して闘っていた国鉄労働組合員がどんどん送り込まれて、「人材活用センター」(「人活」)は、最終的に全国で千四百四十箇所、二万一千人に膨れ上がることになる。
 「人材活用」と名づけられてはいたが、実際のところ「人活」には実質的な仕事のないところがほとんどだった。首を宣告されたに等しい扱いに対して、収用された組合員たちは「元の職場に戻せ」と要求して激しく抵抗した。国鉄当局にとっては、分割・民営化に反対したらどんな目に合うのか、それを見せつけることこそ「人活」の本当の役割だったから、不当な扱いに抗議する者たちに実質的な仕事をさせるという、どだい不可能なことはしなかった。連日草むしりだけさせている場所もあったし、まったく仕事を与えず「自学自習」とされて、朝九時から夕方五時半まで、詰所に放置されているところも多かった。
 私は当時、駅で働いていた者が送り込まれた「人活」にいて、朝と夕方のラッシュ時間帯に、ターミナル駅で電車に乗りきれない客の尻押しなんかをやらされていた。K君は車掌が集められた「人材活用センター」にいた。K君は山手線を担当する品川車掌区の車掌だったが、当時二百人以上いた国労品川車掌区分会の組合員の中から、何人かの仲間と一緒に「人活送り」となったのだ。車掌を集めて作った「人活」は赤レンガと呼ばれる東京駅の建物にあった。赤レンガには中央部分と両端に三つの塔があるが、「車掌の人活」は、北側の塔にあった東京車掌区に置かれていた。私は一九八六年の年末、一度その「人活」にK君の様子を見に行ったことがある。アルミ製の細い柱に灰色のパネルをはめ込んで作った、急ごしらえの仕切りで区切られた妙に細長い部屋に、十人ほどの国労組合員がいた。私がドアを開けて中に入ると皆が一斉に私を見て、私はK君を見つけて「やあ」とかなんとか言ったのだろう。何も業務を言い渡されず、たぶん「自学自習」だったのだろう。スチール製の椅子に、手持無沙汰な様子で静かに座っている男たちの向こう側の窓から、今はもうない国鉄本社ビルと丸ビルが見えていたのを覚えている。
 あるとき、私はK君から「今度、品川駅にある花壇の鉄パイプの枠を、サンドペーパーで磨くことになった」という話を聞かされた。当時、花壇には何も植えられておらず、ただ、むき出しの土が煉瓦で囲まれた空間に積まれただけで放置され、鉄パイプ製の枠は赤茶色に錆びついていた。「人材活用」という皮肉のような名を付けた部署に集めた国労組合員に何をさせたらよいのか、当局自身が困っていた。対策のための会議で、気をきかせた誰かが「あの花壇の手摺り、磨かせたらいいんじゃないか」と提案したのが通ったのだろう。誰も見向きせず、ほとんど人の目にも留まらない、放置され荒れた花壇の手摺りを磨くことには、何の意味もなかった。むしろ、「何の意味もない」ことにこそ重大な意味があった。千万を超える首都の人々の日々の行きかいを支えてきた鉄道員としての誇り、一編成に数千人が乗る列車の安全運行を支えてきた車掌としての誇り、労働組合に結集して当局と対等に渡り合ってきた、労働者としての誇りを打ち砕くために、奴らは収容所に隔離した者たちに「何の意味もない仕事」を強制してきたのだ。
 それは奴隷への懲罰に近かったが、K君たち車掌区人活の国労にはそれを拒否できる力がもうなかった。下手に業務命令を拒むことは処分につながる可能性すらあったから。その話を聞いた私は、K君たちが鉄パイプ磨きを強制されている現場に行って、不当な仕打ちを記録する写真を撮ることにした。
 写真を撮りに行った日、十人ほどの国労組合員がサンドペーパーでのろのろと手すりを磨いている格好をしていて、その周りで、鉄道管理局からの応援を含めて、同じ数ほどの管理者たちが監視していた。まったくそれは、人員と時間の浪費以外ではなかったが、当時、人活に収容した国労組合員に何事かを強制するためには、それくらいの人員が必要だったのだ。カメラを向ける私に気づけば、管理者たちは血相を変えて怒ったはずだが、その記憶がないのはなぜなのか。管理者と渡り合うことがあまりに日常になっていたからか、それとも、必要以上に挑発することはさすがにヤバいと思って、遠景しか撮らなかったのか。たぶん後の方だったのだろう。
 私は手摺り磨きの懲罰労働が長く続くなら、やめさせる為の闘いが必要だと決意していたが、それは長くは続かず数回で終わった。分割・民営化に向けて繁忙を極めていたはずの鉄道管理局から人員を出し続けるのはあまりに無駄だったし、第一、監視のために張り付いている管理者自身があまりに虚しい「仕事」に耐えられなくなったのかもしれない。
 花壇は今でも当時のままの場所にあって、今ではさまざまな美しい花が植えられている。手摺りはステンレス製で鈍く光り錆はない。あの時の、赤茶色に錆びついた鉄のパイプは取り換えられたのかもしれない。ただ、三十センチほど積み上げられた、ところどころ欠け落ちた古い煉瓦は当時のままだった。花壇の前に立つと、紺色の制服を着て、軍手をはめた手にサンドペーパーを持って、花壇のまわりをのろのろと動いていた男たちと、手に手に紙挟みにはさんだメモ用紙とペンを持ち、反抗したら即座に「現認した」ことを書き込める体制で監視していた、これも国鉄の制服を着た男たちの幻が浮かび上がってきた。それはいつものことで、花壇を見て幻たちが立ち現れるたびに、私には、この花壇この手すりを見て、あの時何があったのかを思い出す者はもういないという感慨が湧いてくるのだった。
 首都圏を南北に切り裂くように走る京浜東北線。首都圏の大動脈の一つには、毎日、何万人の乗客が乗るのだろうか。通過する電車の中から、花壇はいったい何万人の目に映っているのだろうか。毎日、無数の人々の目にさらされている花壇。しかし、花壇を囲むパイプをめぐって、三十年前何があったかを知っている者はもういない。…いつも私はそう思い、そして、いつも、いつかはこの花壇、このパイプをめぐる物語を書かねばならないと思ってきた。しかし、怠惰な私はそれをずっと先延ばしにしてきた。まさか、K君が死ぬとは。K君が死んで、その後で書くことになろうとは。
 私は、花壇と手すりを記録するためにカメラを取り出した。

 息子のために借りてやったアパートで喪服に着替え、京浜東北線の北の終点、大宮駅の二つ手前の与野駅まで行った。あたりは暗くなり、歩いて葬祭場に着いたとき、もう通夜の読経は始まっていた。受付に二人の男が立っていたが、一人は私の知っている国労組合員だった。青白い顔色をして目が虚ろだった。普段私と会えば笑って挨拶する仲なのだが、受付カウンターの向こう側で固まったように突っ立っている彼は、私を見ても固く虚ろな表情を変えなかった。その表情が、K君の突然の死が国労東京車掌区分会に与えた衝撃の大きさを示していた。もう一人の男が、香典を持って寄ってくる弔問客をてきぱきとさばいていた。たぶん、庶務担当の内勤社員なのだろう。受付に立つ二人の男を見て、私には会社と国労が協力して葬式を仕切っていることがわかった。
 葬祭場はごった返していた。黒い服を着た男たち。大部分が、六十才を過ぎた私や五十代半ばで死んだK君よりも若い男たちの、押し黙り圧迫してくるような人の波が葬祭場を埋めていた。しばらく読経が続くと、係の人が参列者に焼香を促し、通夜は型通り進んでいった。通夜の時刻に遅れてしまった私は、焼香台の向こうで棺の中に横たわるK君の顔を見ることもできず、親族席で目を伏せている、はじめて会うことになったK君の女房に声をかけることもできず、ただ焼香の列に流されていき、ほかの者たちよりも少しだけ長い間手を合わせると式場を出た。式場のある階から一つ上の階に清めの酒席が用意されていたが、そこも、黒い服を着た、私やK君よりも幾分若い男たちで埋め尽くされていた。首都圏の基幹路線を支えている東京車掌区で働く者たち。その時刻に乗務している者以外の全員がそこにいるようだった。
 葬式の後の清めの席では、日ごろ、酒癖の悪い者もさすがに神妙な顔つきになって静かに酒を飲む。この日の酒席にも、ただざわざわとした低めの声だけが充満していた。周りに知っている者のいない私は、空になったコップに自分でビールを注ぎながら、しかし、何かしらよそよそしい空気を感じていた。私の前では四十に少し届かないくらいの年の男たち三人が、寿司に手を出しながらほぼ無言でビールを飲んでいた。清めの席では死んだ者のことが話される。K君の仕事のこと、K君の遊び。K君の酒癖。K君の突然の死の真相は明らかにされておらず、誰もが皆、「なんで死んだんだ」と思っているはずなのに。私のまわりで交わされるボソボソとした会話からは、死んだK君のことは何一つ聞こえてこなかった。
「そうか、当たり前だな」
 私は独り言をつぶやいた。K君は死ぬまで排除されていたのだから。
 K君や私は国鉄が分割・民営化されるとき「不採用とする者」のリストにしっかりと書き込まれていた。十万人の首切りで国労を壊滅するのが政府と国鉄当局の筋書きだった。しかし、JRが発足するまでの間に、国鉄当局は希望退職と出向の募集にあまりに精を出しすぎた。本州ではJRへの採用希望者が法律で決めた数を割り込んでしまい、計画通り、採用枠を「優良な社員」で埋めることができなくなった当局は、人活センターに排除した国労組合員も採用するはめになってしまった。しかし、JRは渋々採用した私たちに本来の仕事をさせなかった。
 一九八七年、JR発足と同時に、私は有楽町駅のキオスクに回されて、七年半のあいだ、売店でガムや新聞を売ることになるのだが、K君は、ベンディング事業所という、ホームの自動販売機にジュース缶を投入して回る職場に送られた。いくつかのベンディング事業所を転々とした後、K君が車掌区に戻ったのは、たぶん二〇〇五年にベンディングが全廃された時だったと思う。
 車掌の職名に復帰させて車掌区には戻したけれど、会社は人活センター帰りの車掌を通常の仕事には着かせなかった。首都圏では夜の帰宅時間帯に、郊外の住宅地まで直通する「ライナー」と名のついた通勤電車が走っているのだが、それに乗るには五百円の「ライナー券」を買わねばならない。会社は、K君たち人活センターから生還した車掌たちを、夜間だけ必要なホームでのライナー券検札の専従者に指名して、通常の業務から排除したのだった。K君たちはもう十年以上、仕事のない昼間は中距離電車で臨時検札、夜間はライナー券の検札という仕事を続けてきた。
 私のまわりの男たちは、ボソボソと低い声で会話を交わしながら、お互いにビールを注ぎ合って飲んでいる。伏し目がちな彼らは、向かい側で一人飲んでいる私に目を合わせようとしなかった。臭いでわかるものだ。車掌区の同僚ではなく、死んだKよりまだ年上に見える向かい側の男が自分たちの仲間かどうかは。向かい側の男はKの仲間、国労に違いない。国労は俺たちの仲間ではない。私の顔を見ようとしない男たちのそぶりはそう私に教えていた。
 国労が少数派に追いやられて以降、JRの多くの職場では、途中から分割・民営化賛成に転じ、国労攻撃の先頭に立つことで会社に取り入った会社派組合が多数となった。会社派組合は組合員が国労組合員と付き合う事を許さず、職場には国労組合員と一緒に遊ぶことすら糾弾される雰囲気がつくられた。年月が経過するにつれて、そうした雰囲気も薄れてはきたが、今でも多くの職場では、国労組合員と親しくするのは得なことではない。葬式は例外だった。同じ職場の国労組合員やその家族が死んだとき、普段は国労と親しい者を問い詰めることさえある会社派労組は組合員が葬式に出ることを止めなかった。葬式と火事だけは例外だという古い日本の村八分のしきたりが生きていた。
 少し離れたテーブルで友人が一人、飲んでいるのが見えた。東京車掌区で働き続けて、去年退職した元国労組合員。長い間国労東京車掌区分会の分会長をしていた。私はコップを持って友人のテーブルに行った。
「ああ、久下さん。来てくれたんですね」
 顔をあげた友人が言った。
「久下さんだけには連絡しようと思ったんだけど…。電話番号がわからなくて」
 私はK君がベンディングにいた時からの共通の友達が知らせてくれたのだと言い、K君の死の経緯をたずねたが、友人もはっきりしたことを知らなかった。
「酒を飲んでいて倒れたらしい」とだけ友人は言った。
「Kちゃんに、これからは全部まかせようと思って…。Kちゃんがいるから、まあやめても大丈夫だろうと思っていたのに」と、友人は信頼していた後輩をちゃんづけで呼んで、暗い顔つきになった。
「俺が、退職するとき、最後の乗務のとき、Kちゃんが、『おつかれ様でした。これからもお元気で』って横断幕作って、みんなで拍手で送ってくれたんです」
 友人は分割・民営化のとき、私やK君とは違い、運よく本来の仕事から排除されなかった。友人はずっと東京車掌区で、退職するまで車掌として働いてきたのだった。四十年以上働いた鉄道での最後の仕事の日には、誰にでもいろいろな感慨がわき上がるものだ。この私でさえ、プラットホームに赤い旗を持って最後に立った日、最後に乗車券発行機のテーブルの前に座った日は動揺したものだ。「ひょっとしたら、俺は、鉄道の仕事が好きだったのかもしれない」と、最後の日に私はそう思った。人活センターに排除されて以来、あっちやこっちの職場を転々とされてきた私でさえそう思ったのだ。ずっと車掌として働いてきた最後の乗務の日、友人は何を思ったのだろうか。そして、秘密にしたまま大きな横断幕を作り、非番の仲間に声をかけたK君がしかけた盛大なセレモニーで最後の乗務に送り出されたとき、友人は何を思っただろうか。苦しいことの多かった人生。毎年、退職者の数だけ少数派に追い込まれていく国労の組織を守りながら生きた鉄道員の人生。たぶんその日、横断幕と仲間の拍手に送られながら、友人の目には涙が浮かんでいただろうと、私は思った。
「明番はしょっちゅう若い人に声をかけて、飲みに連れて行ってた。若い人にも慕ってるのが結構いたんですよ」
「その話はよく聞いていた」と私は答えた。
 分割・民営化のころ、私はまだ、資本主義を超えて労働者が主人公となる社会、社会主義をめざして闘う労働運動が勢力を拡大する余地はあると思っていた。「戦後労働運動の中核である国労を解体しようとする中曽根政権との総力戦の中から、権力と労働者階級の決戦の砂塵の中から、新しい労働運動が生まれるんだ」という私の言い分を受け入れてくれる仲間たちもいたが、K君はいつもちょっと引き気味だった。当局に尾を振るようなまねは決してしなかったが、「そううまくはいかないんじゃないの」という顔をして話を聞いているK君が私には不満だった。
 分割・民営化から年月がたつにつれて、その関係はいつか逆転した。国鉄の分割・民営化をめぐる争いが、資本家階級と労働者階級の総力戦だったことは間違いではない。しかし、その闘いは私が当時確信していたような新しい労働運動の出発点ではなく、むしろ、戦後日本の労働者の闘いが民間大手から順番に解体されていき、公的部門に残った最後の砦でも解体されていく、長い過程の最後の闘いであったことが日に日にわかってきた。新しい社会を求めて、新しい社会をつくる闘いに参加するために、国鉄に入り、ずっと労働組合運動の中で生きてきた私は、運動から降りようとは思わなかったが、しかし、「われわれの闘いは終わった」という思いは、年月とともに強くなっていった。
 いつしか、私は仲間たちに「国労はもう充分闘った。ふたたび国労が多数派になる道筋が描けない今は、国労を抜けないでいるだけで十分だと思う」と言うようになっていた。K君は私がそう言うと、決まってじれったそうな顔をした。そして、「いや、俺は少し違うな」と言い、会社の発展に自分の人生を重ねるつもりのない奴、企業になびかない奴は今でもいるのだと言い、そして、二十年ぶりに戻った車掌区での若い社員たちとの交流のありさまを楽しそうに話してくれるのだった。
 鉄道の仕事はだいたい朝出勤して、翌朝まで働いて明番になる。その明番で若い車掌に声をかけて飲みに連れて行く話をよく聞かされた。私はそんなK君が頼もしかった。私の判断が間違いで、K君が車掌区の中で、労働者としての権利を主張して団結して闘う事のできる、若い仲間をつくれたらどんなに喜んだろう。
 少し話した後で、私は友人に「俺は明日の告別式も来るけど、どうなんだ」と聞いた。友人は明日は来れないんだと言った。私が、「また機会があったら飲みたいな」と言い、友人も同意したが、そんな機会はもうないかもしれない。私は別れの挨拶をすると、まだたくさんの人たちが残っている清めの席を抜け出した。友人は残った。最後まで残り、葬式の裏方をしている国労の仲間やK君の家族たちと一緒になったのだろう。

 翌日の午後、告別式に参列するために、私はまた、京浜東北線に一時間揺られて会場に行った。受付には昨晩と同様、青白い顔色の国労組合員と内勤の社員が立っていた。通夜と告別式の両方に出る者は、二日目は香典を持っていかないが、記帳はする。男は、通夜にも来た私の顔を覚えていて、人懐こい笑顔を見せた。私は思いきって聞いてみた。
「あんまり突然だったので驚いているのですが…、明番、同僚と飲んでいたんですか」
 私の問いに、男は困惑した表情を浮かべた。
「いや、休みの日に、家から一人で飲みに行ってたんだよ。馬鹿だよなあ」
 K君を馬鹿だという男の口調は非難している風ではなく、好意を持っていた者の突然の死に対する悔しさのようなものが滲んでいた。私はK君の人となりを会社側の人間である内勤者も分かってくれていたように思えて少し安堵した。
「夜中の一時に、一人飲んでいる店で吐いて、吐いたものを喉に詰めたんだよ」
 死んだのは十五時過ぎではないのかと私は聞いた。
「訃報に出たのは、病院で、死んだと決まった時刻だよ」
 と男は言った。意外な話だった。酒は飲むが、深夜に一人で飲みに行くような男ではなかったはずだ。私は、大量に嘔吐したのは心臓か血管に何か異変があったからなのかと、さらに聞いたが、男は、それはわからないと言った。私は礼を言ってその場を離れた。
 結局、なぜ深夜に一人で飲んでいたのか、真相はわからなかった。直接の死因が、嘔吐した物を詰まらせた窒息死であったことは分かったが、長年の飲酒で体に異変があったのか、それとも、単純な事故だったのか、それもわからないままだった。今も私にはK君がなぜ死んだかは分からない。分からないけれど、長年の飲酒癖がかかわっていただろうと思う。そして、K君が体を壊すほどに飲む生活を続けるようになったことが、三十年間、排除された職場で働いてきたことと無関係であるはずはない。
 告別式の始まる時刻より少し早く来たので式場はがらんとしていた。白い花で飾られた祭壇に人懐こい笑顔で笑っているK君の写真があって、その前に棺が置かれていた。首都圏を統括するJR東京支社長名の大きな花輪と東京車掌区長名の大きな花輪が祭壇の左右にあった。国鉄労働組合の各級機関からの少し小さな花輪も並んでいた。祭壇の方に歩いていくと、奥の方に何人かの人がいた。私はK君の棺の前でK夫人と初めて挨拶を交わすことになった。夫人の横に可愛らしい娘さんが付き添っていた。
「久下と言います」と言ったが、言葉が続かなかった。
「久下さんですね」と夫人が念を押すように言って、少しだけ表情が和らいだ。それは私のことをK君が夫人に話していたことを示していた。私はK君が国鉄に入ったときからの長い間の友人だったこと、年に何回か私の社宅で酒を飲んだ仲だったことを話した。そして、K君は体に異変を抱えていたのかと聞いたが、夫人は思い当たることはないと言った。
「あまりに突然のことなので、突然逝ってしまったので…」と言った後がなかった。苦しそうな表情を見せる夫人の体を、付き添っていた娘さんが支えた。
「ずいぶん前から、明番のたびに飲んでいると言っていたし、私の家に来ても飲みすぎるようになったので、体を壊すぞと言っていたのですが」と私が言うと、夫人は、
「そうなんですねえ。家ではあんまり飲まないし、帰ってくるといつもすぐ寝てしまうので、そんな風には思っていませんでした」と言った。仕事のこと、同僚のこと、酒の事を、K君が家には持って帰っていなかったことがわかった。
 実は、私は勝手にK君夫妻の仲はよくないと思っていた。それはK君から聞いた一言がきっかけだった。
「かみさんは、あなたからいろんな事を聞いて、いろんな事を知ってしまったから私は幸せではなくなった。知らないで生きていた方が良かったと言うんだ」
 まだずいぶん若かったころ、あるときK君はそんなふうに話したのだ。K君は、組合の用事だと言っては遅く帰る夫を非難する連れ合いに、国鉄が分割・民営化されたとき不採用になった七千名の労働者とその家族の話をしたのだろうか。それとも、戦争の絶えることのない世界のありさまを話したのだろうか。
 与えられた世界を疑うことをせず、与えられた世界の中でつましく生き、つましい幸せを求めて生きてきただろう人に、K君はこの世界の不条理について、不条理と闘うことの必要性について話をしたのだろう。若い妻は一旦は夫の話を受け入れ、夫の帰りが遅くなりがちなことを我慢したのかもしれない。しかしある日、「ああ、こんなことなら、いろいろな事を知らずに生きてきたかった」という思いが募ったのだろう。
 K君は口数の多いほうではなく、人を押しのけて何かするようなタイプでもなかったので、恋人ができて結婚すると言われたとき、ちょっと意外な感じがしたが、私はK君がしっかりと伴侶を見つけたことがもちろんうれしかった。鉄道が好きで国鉄に入ったK君の趣味は鉄道写真を撮ることだった。全国を回って無数の写真を撮ったのだが、K君はそんな旅の途中に泊まったユースホステルで彼女と知り合ったのだと教えてくれた。
 ユースホステル。今でも少しは残っているようだが、私やK君が若かったころは、男女それぞれが別の部屋に泊まり、夕食は宿泊客皆で交流しながら食べる形式の、若者向けの安価な宿はまだ全国にあった。しかし、そんな宿は当時でも少し時代遅れの感があり、私は、「健全な若者向けの宿」の雰囲気が、K君にお似合いのような気がして好ましく思った。ユースホステルに泊まる一人旅を楽しんでいた娘さん。質素で実直ないい娘さんを見つけたんだろうなと、当時は思ったものだ。
 頼り切っていた伴侶を突然失った者の表情を見ながら、私は勝手にK夫妻の仲を想像していたことが間違っていたことを悟った。家族ぐるみの付き合いをしておくべきだった、皆で一緒に人生をおくるべきだった思った。そして、俺はいつもこんな風に後悔ばかりしている。どうしようもないという感情がこみ上げてきた。もうすでに私は、人生を労働組合運動にかけて生きた仲間を何人か失っているのだが、仲間の死は、いつも、怠惰になすべきことをせず生きている自分を責める。

 告別式は型通り進んで行ったが、前の晩、会場を埋め尽くしていた黒い服の男たちの姿はもうなかった。焼香が始まった。読経の声が流れ線香の香が漂う中を、祭壇に向かって三列にに並んだ人々は次々と型通りの焼香を済ませていく。参列者は、夫人と二人の娘、あと十人ほどの親族に向かって、焼香する前と後に頭を下げ、白い顔をした親族席の人々がそのたび礼を返すのを、私は身を固くして眺めていた。
 通路側の席に座っていた私の肩を誰かがポンと叩いた。少し驚いて振り返ると、K君が死んだことを知らせる最初のメールを転送してくれた後輩だった。焼香の列に並んで祭壇に進みながら、座っている私を見下ろした後輩は、硬い表情を変えず、うん、と一つ頷き、無言のまま私の横を通り過ぎた。K君より一つか二つ上。K君と後輩のつきあいは、国鉄が分割・民営化された一九八七年、ジュースを配送する職場で知り合ったときからだった。二〇〇五年、国労を排除するために作られたジュース配送の職場が廃止されたとき、K君は車掌区にもどったが、貨物駅出身の後輩は山手線の駅に回されたのだった。無言の硬い表情に、自分より若い仲間の死を何とか受けとめようとする決意が滲んでいた。そして、私の肩を一つだけ叩いた手のひらには、信頼していた後輩、鉄道を退職した後を託すことのできる数少ない後輩を突然失い、折れそうになっている私を叱咤し、励まそうとするぬくもりがこもっていた。
 焼香の列が途切れ、しばらくして読経の声がだんだん大きくなった後に断ち切られたように終わった。立ち上がって会葬者の方に振り向いた僧侶が、K君は今や仏となったと宣した。会葬者が合掌するなかで僧侶が退場して告別式は終わった。
 K夫人が娘さんに支えられながら立ち上がり、会葬者の方へ数歩進んだ。K夫人の横に立った娘さんが夫人に代わって会葬者への礼を述べた。娘さんはK君が妻と二人の娘たちを見守りながら、拘束することなく、いつも一人一人が自分の意思に忠実に生きることを支えてくれたとK君への感謝を述べた。
 私は、権力的な振る舞いとはもっとも遠いところにいたK君なら、きっとそうだっただろうと思った。そして、K夫妻の仲を勝手に想像していたことの間違いを改めて思った。娘さんは、あまりに突然K君を失ったことを家族全員が未だ受け止められないが、これからは一人となってしまったK夫人を二人の娘が支えていくと述べ、告別式に参列してくれたことへのお礼の言葉で挨拶を終えた。
 火葬場に向かうために、黒いリムジンに載せられたK君の棺が、遺影を持つ家族とともに葬祭場を出るとき、手を合わせて見送った数十人のうちの多くは、私が顔を見知っている国鉄労働組合の組合員だった。いちばん最後のときまでK君を見送った人々は皆、心からK君の冥福を祈る仲間たちばかりになっていた。若い者でもすでに五十代半ばを過ぎた組合員たちは、皆、顔に皺が目立つようになり、頭髪が白く、薄くなった者も多かった。
 リムジンの出発を、手を合わせて見送ると、参列者たちは数人ずつばらばらと帰り支度をはじめた。その日のうちに京都に帰らねばならない私が、あずけておいたボストンバッグを提げて会場を出ようとしたとき、少し離れた場所から「久下さん」と呼ぶ声が聞こえた。私にK君の死を知らせてくれた後輩が何人かの仲間と一緒にいた。私の説得を受け入れて「分割・民営反対!」と書いたワッペンを制服の胸から外さなかったために、私と一緒に人活センターに送られたとき、後輩はまだ二〇代半ばだった。分割・民営からまだ日の浅かったころ、酒を飲めばよく「俺は久下さんにオルグされたから、こんな人生送る羽目になったんだ」と冗談めかして言い、私の困惑した顔を見ては喜んでいた彼も五十代の後半になる。後輩の横には国労新橋支部の役員何名かの顔があった。いつの間にか彼は駅分会の分会長になり、組合を支えていた。まだ彼がいる、と私は思った。私は、清めの酒を飲みに行くかと尋ねる後輩に、京都に帰らねばならないと言った。

 東京と京都の片田舎を母親の介護のために往復するようになって四年、見慣れてしまった新幹線からの沿線の風景はいつの間にか闇に沈み、窓の外は黒いベールで被われてしまった。新大阪行きののぞみ号は低い走行音を響かせながら疾駆していた。
 「働く者の世の中が来る。働く者の世の中を作るために国鉄労働者になる。国鉄労働組合の組合員となって闘う」という、今では考えられない「夢」、今の人にはもう、おとぎ話としか思えない「夢」を抱いて、十九歳で鉄道員となってから四十三年間が経過していた。
 二十代の頃、私とK君は東海道本線から山陽本線を経由して九州まで下る荷物専用列車に乗っていた。当時すでに宅急便にシェアを奪われつつあったが、国鉄には小荷物専用の長距離列車が走っていたのだ。十二両の専用車両が屈強な電気機関車にけん引されていた。黄金時代に乗客を満載していた古ぼけた茶色の客車は、向かい合わせの四人座席がすべて取り外され、がらんとした車両の床の、座席のあったところは角材が敷かれてすのこ状になっていた。今はシオサイトと呼ばれる銀座の南の一等地にあった汐留貨物駅が出発駅だった。私たちが乗り込むと、荷札のついたダンボール箱や木箱、布団袋や衣装ケースなど、さまざまな荷物が車両の中にうず高く積まれていて、ときには生きた犬を入れた鉄格子の嵌まった檻が、ガタガタ動いていることさえあった。私たちは、走り出した列車の中で荷物の山と格闘し、降ろす駅の順番に荷を整理して、通路の両側に頭の高さほどまで積み上げていった。車両には中ほどに二か所、荷の積み降ろしのための大きなドアがあって、列車が駅に停車するたびにその駅宛の荷物を降ろすと、駅からは西日本に向かう小荷物が積み込まれてくる。荷物を降ろしては積み、降ろしては積み、走り出した列車の揺れる車内で荷物の仕分けを続けながら、担当が変わる大阪駅で下車するまで、私たちは十一時間かけて東海道線を下ったのだった。
 窓の外の闇の中に、たくさんの仲間たちの顔が浮かんでは消えてゆく。
 いつしか私は、紺色の作業着を着て生成り帆布の厚い前掛けをしめ、荷物を引っ掛ける手鉤を持って、K君と一緒に荷物車の中で荷の山に向かっていた。ゴンゴン、ガタガタという大きな走行音が聞こえ、年代を経た古い車両の不規則で盛大な横揺れが荷扱いの邪魔をした。暑い夏のまだ日の高い時刻、灼熱に屋根を焼かれた、冷房装置のない木造車の中は熱気が充満していた。鉄格子の嵌まった小さな窓を開けて風を入れようとしても、風は荷の山に阻まれてまるで入ってはこない。日光が射しこむ空間には埃がきらきらと舞い、木造の床からは、その下にある車軸に注された油の臭いが立ち昇っている。額から流れる汗を首に巻いたタオルで拭いながら、もうすぐ三十歳になる私と、まだ二十歳になったばかりのK君は、荷物車の大阪方と東京方の両端からみかん箱や布団袋や衣装ケースと格闘し続けていた。荷物を通路の両側に積み上げながら、車両の中央部へ向かうK君と私の距離は少しずつ近づいてきた。仕事の手をとめて、揺れる車内に足を踏ん張って立ったK君が私の方を向いて何か言った。しかし、盛大に走行音を響かせて走る荷物車の中で、まだだいぶ距離のある場所にいるK君の声は私まで届かない。
「あしたっー、……汐留に着いたらーっ……」
 聞こえない。
 明番で遊びに行こうと誘うK君の顔は笑っている。はやく荷を片付けて明番の計画を練ろう。私は焦って荷の山と格闘するが、荷の山のなくなる気配はない。私は手を止めて腰を伸ばし、もう一度、大阪方のK君を見る。揺れ続ける木造車両の中央部に立つK君のまわりに二十人の仲間たち、荷扱い車掌区で働いていた国労青年部員すべてがいた。皆、紺色の作業着を着て生成り帆布の前掛けを絞めている。一番若かったK君がまん中で笑っていた。しかし、時間の経過とともに、K君と仲間たちの輪郭はだんだんぼやけていき、荷物車両の幻影とともに、ついには新幹線のぞみ号を包み込む闇の中に消えてしまった。
 ガラスのはめ込まれたのぞみ号の小判型の窓の外の闇の中を、遠くにある少しばかりの灯りだけが後方に流れて行く。今では、のぞみ号の微細で連続した走行音だけが聞こえる。車窓から侵入してきた漆黒の闇が私のまわりを覆い尽くすと、私はもう、私自身がどこにいるのかさえ分からなくなっていた。
                                           (了)