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「普通の駅員」への長い道のりの途中で

久下 格 

 今年八月一日に四年近くいた上野営業機動センターから山手線のとある駅に発令されました。分割・民営化反対闘争の渦中にあった八五年五月に、国労組合員を隔離するために新設された東京要員機動センター新橋支所に排除されてから十三年と三ヶ月たって、ようやく隔離職場から解放(釈放?)されて、「普通の駅員」に戻ったことになります。七四年七月に国鉄に就職して以来、いつのまにか勤続二十四年(来年は功績賞だぁ。えぇっ)になりましたが、そのうちの実に半分以上の期間を隔離職場で過ごしたわけで、そう考えるとあらためて感慨がわいてきます。排除さていた期間中、八六年七月には職場が丸ごと人活センターに指定され、JR不採用、清算事業団送りになる瀬戸際まで行きましたが、本州JR各社の応募定員割れでかろうじてJRに採用されてからは、七年半、有楽町の売店(サンクス)で新聞やガムなどを売って暮らしました。その売店が閉鎖されたとき、二人いた駅出身者のうち一人はそのまま有楽町駅の改札に回りましたが、私は再び上野営業機動センターへ、つまり、排除された最初の時点である「機動センター」に逆戻りで、すごろくで言えば「振り出しに戻る」ということになって、あーぁ、こんなことがいつまで続くのやらと思ったのが、もう四年前のことになります。

 現在、駅のホームで働いている私の職名は営業係でJR東日本の職階は最低職、二等級は高卒の新規採用者がほぼ全員就職から一年で到達する、まあこれも最低といえます。さすがに給料は高校出たての若者より少しは多いけれど、それでも基本給二十五万七千円は四十四歳の立派な中年男の給料とすれば笑っちゃいますね。この前、四十歳の同僚と同じ基本給だと分かって、彼も国労だから平均よりだいぶ下なのですが、四年勤続の長い私が彼と同じ給料であるわけは、分割・民営化前後の時期に少なくとも十四号俸(定期昇給三・五年分)を処分でカットされたからで、計算はあっています。

 隔離されていたときは、はじめの何年かこそ「戦闘的」でしたが、とりわけ有楽町のサンクスから上野の機動センターに移って以降のここ四年ほどは、管理者の言うことにも無理のない限り応じながら、本来の職場である駅に帰ることを最優先に考えて仕事をしてきました。それは、一つには、意志の固い国労組合員だけを集めた隔離職場に限れば、力関係は圧倒的に組合優位なわけで、その力関係のなかで会社にいろいろ文句を言ったり怒ってみたりしても、しょせん会社の労務政策の手の内でのことであり、中心的な活動家が追放されたなかで、仲間たちが会社側労組員に混じって苦しい労働と生活に追われている本務職場にこそ本当の力関係が表われているはずで、組合運動をするにしても物ごとを考えるにしても、本当の力関係が表われているところにいたほうがいいと思ったからであり、もう一つは、機動センターではさまざまなことに対してしょっちゅう管理者に対する追及行動がおきましたが、もちろんすべて理由のあることとは言っても、中にはただ文句を言いたいために文句を言っているように聞こえる場面もあって、そういう時には、ちょっと違うんじゃないかなあという違和感を覚えることがあったということもあります。とりわけ二つ目のような考えを持ったのは、ソ連崩壊直後に、戦後の左翼的知識人のあり方を反省した日高六郎さんの文章に触れたことも大きいのですが、まあ、それは余談ですからここには書きません

■■ 本務職場の重層的差別構造 ■■

 さて、「やっと普通の駅員」に戻ったという感慨を持ちつつ赴任した駅ですが、それが錯覚だと悟るまでにはそう日にちは要りませんでした。与えられたのはホームの仕事ですが、駅の仕事はおよそ五段階に分かれており一から五までの差別構造になっていると分かってきたのです。赴任した日に「何の仕事がしたいか」と聞かれ、「駅にきた以上は、わが社の商品である乗車券を売れるようになって出札がしたい」と言いました。駅の方からは「とりあえずホームの仕事をしてもらいます」と言われましたが、「ホームはホームしかできないやつがやってるんだ」とも言われたのには驚きました。私としてはホームの仕事でも別段かまわないのですが、ホームは駅で一番下の仕事と位置づけられているようです。ちなみに一番上が「びゅうプラザ」(旅行センター)で、その下に表口の出札、裏口の出札、改札、ホームという序列ができており、駅長以下五十数人の中に二十人いる国労組合員は「びゅうプラザ」ゼロ、表口の出札に入る者が数人、裏口の出札に入る者がそれにプラスして数人、改札はほぼ半数が国労で、ホームは十人の担当者のうち責任者格の主任を除けば、一人いる鉄産労組合員以外はみな国労という構成になっているわけです。見事な分布図ですね。もちろん国鉄時代も駅の仕事では出札が一番上というふうに思われていて、ホームの仕事は、入社したての新入職員がやっていることも多かったのですが、当時は組合差別の道具にはなっていませんでした(首都圏では駅はほとんど国労でしたから、差別のしようもなかったわけですが)。そんなわけで、駅に発令されて差別とおさらばしたと思ったのもつかの間、重層的差別構造の末端に位置づけられたわけで、被差別人生はまだまだ続くことを覚悟せねばならないようです。

 国鉄時代の私には試験制度は差別だという感覚が強く、試験を受けずにずっと最低職に甘んじていたのですが、一方では、駅で言えば出札、改札の中心的な仕事をこなし、仕事にも自信を持ち、また周囲からも一目おかれつつ組合にも積極的に関わっているような組合員を見ると、内心ではうらやましく思ったものです。そういう経験もあるので、十年以上干された後に駅へ配属された今、今度は中心的な仕事をしてみたいという気持ちが強くあります。そんなこともあって、「仕事はまじめにやる。協力できることには協力する」というスタンスを取り続けている私の希望は果たしてかなうのでしょうか。何甘いこと言ってるんだと思う人もいるでしょうが、とりあえずはそういう気持ちで新しい年を迎えたいと思います。

■■ 職場集会で思ったこと ■■

 さて、国労運動は五月二十八日の不当な判決で、北海道・九州での採用差別が「合法」と判断されたことを受けて、進路をめぐる大きな論争の渦中にあります。私の駅はまだ組織率が四割弱あって分会三役もしっかりしており、本務職場には珍しく職場集会などもしっかり行います。「補強案」についても職場集会の中で議論されました(本務職場で「補強案」を全員で議論した分会は珍しいのではないでしょうか)。私が出た時は分会三役が一人、他に私を含めて三人だけの日でしたが、一人の組合員が「五月にああいう判決が出て一つの区切りがついたとも言えるから、国労も断固断固の方針を転換してもいい時期かもしれない。今のままでは新しい組合員も入ってこず、じり貧だ」と言ったのが印象的でした。分会三役には「補強案支持」の雰囲気が強く、当日参加していた三役の一人は、「鉄産労も会社や東労組からひどくいじめられている。鉄産労とも共闘できるような方針を持たねばならない」と、「補強案」支持の立場から説明していました。私は「鉄産労との共闘についてはもちろん賛成だが、補強案の道を進めば鉄産労との共闘にとどまらず、東海以西の会社組合との共闘から合流まで行ってしまうのではないか」という気がして、そう言いました。その後気になっていたので、事情を知る友人たちにたずねたところ、やはり東海以西では鉄産労は組織を解散して会社派組合の中に統合されているようです。東日本の鉄産労だけが組織を維持しており公称三千人だそうですが、組合としては国労の方が元気なようで、たとえば国労は、極少数であったとしても、新規採用者から新入組合員を獲得しているのに対して、鉄産労ではそんなことはまったくないということでした。まああたっているのではないでしょうか。「補強案」が弱体化しつつある鉄産労との合流だけをねらっているとはちょっと考えにくい。行き先は会社派組合への合流によるJR連合への加盟が想定されていると考えるのが自然だと思います。

■■ 会社派労組と合流はできない ■■

 「補強案」はいくら読んでも文面からは正確な立場が読み取れません。玉虫色というか曖昧模糊というか、本当の心は隠して通りやすくするためにわざとそうしているのでしょうが、そういうやり方は分割・民営化以前の国労そのままで私は嫌いです。第一の「国鉄改革法を認める」というのは、「国鉄改革法にもとづいて国鉄が分割・民営化され、今日まで推移している」という事実を認めるのか(それなら、当たり前以前に事実そのものですが)、それとも分割・民営化反対から「国鉄が分割・民営化されたことを支持する」立場に転換するのか? 「JR移行以後の係争案件について交渉による解決を目指す」とは、労働委員会にかかっているのを取り下げるということなのか否か? この二点は最低限はっきりして欲しいところですが、どうなのでしょう? 第一点について、私は国鉄が経営としても制度としても破綻していたこと、改革が必要だったと思います。そして国労が国鉄改革のしっかりしたビジョンと運動を持っていなかったことが分割・民営反対闘争敗北の原因だと思いますが、だからといって、「国労をつぶすことを明確に意識してやった」と公言している中曽根の分割・民営化政策を後追い的に支持するとすれば、それは国労の自殺行為だと思います。また、第二点目が労働委員会提訴を取り下げることを意味するなら断固反対です。いろいろ聞いてみると、「補強案」の立場に転換したからといって、採用差別問題で前進がある保証はないようですし、私の感覚では、「補強案」は採用差別問題を解決することをめざすというより、直接はJR連合に合流していくことをめざしているように思えます。私は国労は会社と和解すべき時期にきていると思っていますが、「補強案」が今の時点で会社派労組と合流する方向を提案しているとすれば反対です。

■■ ベンディングへの隔離をやめさせよう ■■

 さて、最後になっていきなり話が飛びますが、私より若い友人と先日飲んだときに「この人は、国鉄闘争は終わったと言っているから」と言われてメゲました。ベンディング職場にいる彼は、隔離されている期間がすでに本来職場にいた期間の二倍ほどになっているはずですが、もうずいぶん前から私のことをフニャフニャになったと判断しているようで、彼と年に何回か飲むたびに「だんだん飲んでも盛り上がらなくなってくるなあ」と思い心が痛みます。「国鉄闘争は終わった」というのは、分割・民営化が強行されJRがそれなりに安定した経営を続けるようになった時点で、ひとまず闘争は決着局面になったということを言いたいために、何年か前、確かに挑発的に言ったことで、もちろん、採用差別問題やJRでの差別問題が決着しない限り本当の「終わり」ではありません。しかし「終わり」の局面に入っていることは間違いなく、どのように「終わるのか」が問われる局面であることを意識しなければ、本当の意味で次の闘いを始めることができないと思います。闘争は始めるときよりも終わるときの方がずっと難しいと、昔よく聞かされました。今、国鉄闘争の最終局面に差しかかって、全国的にはもちろん採用差別問題、首都圏ではそれにプラスして最後の選別職場になりつつあるベンディングを早急に廃止して全員を本来の職場に戻す闘いが重要だと思います。「終わりの局面」とは言っても、それが数ヶ月ですむのか数年になるのか、あと十年続くのか、相手のあることですから断言はできませんが、もちろん最後の決着をつけるまで、私なりに闘いに参加していくつもりです。

 一九九九年がすべての国労組合員にとって素敵な年になりますように。


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